北条義時 2000-日本史A 選択
執権政治期の職制に関して、義時執権期に設けられたものとして、正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
① 評定衆 ② 引付衆 ③ 六波羅探題 ④ 連署
正解➡
承久の乱 2001-本 正誤
承久の乱に関連して述べた文として正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
① 後鳥羽上皇は、新たに北面の武士を置いて軍事力の増強をはかった。
② 乱後、守護の収入を保証するために、幕府は新補率法を定めた。
③ 乱の結果、後鳥羽・土御門・順徳の3上皇が配流され、仲恭天皇が廃された。
④ 白河上皇以来続いていた院政という政治形態は、この乱によって終わりを告げた。
正解➡是非、教科書94㌻を開いて青マーカーを院政の継続箇所に。また公武二元支配の幕府優位にも
正解は②
鎌倉と京都 2006-本 年代順配列
鎌倉時代の、鎌倉と京都の間の交渉に関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて、古いものから年代順に正しく配列したものを、下の①~④のうちから一つ選べ。
Ⅰ 『新古今和歌集』が編纂され、鎌倉の将軍のもとに届けられた。
Ⅱ 御成敗式目が制定され、京都の幕府出先機関に送られた。
Ⅲ 鎌倉で平頼綱が滅ぼされ、その知らせが数日のうちに京都に伝わった。
① Ⅰ-Ⅱ-Ⅲ ② Ⅰ-Ⅲ-Ⅱ ③ Ⅱ-Ⅰ-Ⅲ ④ Ⅲ-Ⅱ-Ⅰ
正解➡後鳥羽上皇の命で新古今編纂、北条泰時の御成敗式目、平頼綱は霜月騒動のころ、答えは①となる。
北条時頼 2001-追
北条時頼が執権であった時期に起こったことがらとして正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
① 藤原(九条)頼経が将軍に就任した。
② 宝治合戦で三浦泰村が滅んだ。
③ 半済令が出された。
④ 異国警固番役が始まった。
正解➡実朝暗殺後九条頼経が迎え入れられる、半済令は室町時代、異国警固は北条時宗、②が正解。
先ずは北条氏台頭の流れをパネルで確認
執権政治は将軍になれなかった北条氏の政治だ。東大の入試でも出題されている。
2代将軍➡頼家を幽閉し実朝将軍に。➡北条義時、政所の長官につく。この地位を執権といい、やがて侍所の長官も兼務、権力掌握。義時が政所と侍所を兼務したことが問われる。
ここで幕府と朝廷の関係をみてみよう!武士の政権=鎌倉幕府に不満を抱く後鳥羽上皇の西面の武士は定番。承久の乱はその後の影響が一番大事な論点だ。例えばこんな問題もある。
執権政治の時期 2010年-追 年代順配列
1.後鳥羽上皇を隠岐に,順徳上皇を佐渡に配流した。
2.後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を,都から迎えて将軍とした。
3.有力御家人の安達泰盛が,御内人代表の平頼綱に滅ぼされた。
答➡安達泰盛は一番新しい、後鳥羽⇒後嵯峨は猫問、正解は1、2、3
教科書94㌻参照
➡院政の継続、公武二元支配で幕府優位へ
北条泰時の時代
執権政治完成の時代、すなわち泰時は執権と執権を補佐する連署をおき、その下に11人の評定衆を選び合議による政治を行った。
史料に目を通す
☶論述問題研究 式目制定のねらい(貞永式目 唯浄裏書 本)
御成敗式目を制定した意図は? 東京大 2005第2問
さてこの式目をつくるにあたっては、何を本説として注し載せたのかと、人々がさだめて非難を加えることもありましょう。まことにこれといった本文に依拠したということもありませんが、ただ道理の指し示すはねども、たゞ どうりのおすところを記され候者也。…かねて御成敗の躰を定めて、人の高下を論ぜず、偏頗なく裁定せられ候はんために、子細記録しをかれ候者也。…武家の人への計らひのためばかりに候。これによりて京都の御沙汰、律令のおきて聊も改まるべきにあらず候也。…文盲の輩もかねて思惟し、御成敗も変々ならず候はんために、この式目を注置れ候者也。…
☶史料研究 式目の内容(『後成敗式目』 唯浄裏書本)
一、諸国守護人奉行の事
右、右大将家(=頼朝)の御時定め置かるる所は、大番催促・謀叛・殺害人(=これを大犯三カ条という)…等の事なり。…
一、女人養子の事
法意の如くんば(=律令の趣旨では許されないが)これを許さずと雖も、右大将家の御時以来当世に至るまで、其の子無きの女人等所領を養子に譲り与ふる事、不易の法(=武家の先例・慣習)勝計{あげてかぞう}べからず。…
一、所領を子息に譲り、安堵の御下文を給はるの後、その領を悔い還し、他の子息に譲り与ふる事
父母の意に任すベきの由、具に以て先条に載せ畢ぬ。仍て先判の譲につきて安堵の御下文を給はると雖も、其の親これを悔い還し、他の子に譲るにおいては、後判の譲に任せて御成敗有るべし。
北条氏の他氏排斥シート
北条氏 |
将軍 |
上皇 |
政治 |
【時政】 |
【源頼朝】 |
【後鳥羽】
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頼朝死去 |
源頼家 |
頼家の親裁停止1199➡有力御家人13名の合議制 ✖梶原景時の乱1200 ✖【比企能員】の乱➡頼家を伊豆の修善寺に幽閉 実朝を将軍に擁立し、時政、政所の別当となる=【執権】と号す 頼家殺害 |
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【義時】 |
【源実朝】 |
✖畠山重忠の乱1205 |
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義時、執権に就任1205 ✖【和田義盛】の乱1213 ➡義時、侍所別当兼任=執権の地位確立 実朝、甥の公暁に暗殺される1219 ➡源氏の将軍断絶 ✖【承久の乱】1221➡【六波羅探題】の設置 ←後鳥羽上皇➡隠岐配流、順徳上皇➡佐渡配流 【新補地頭】設置1223 ➜上皇方から没収した領地を確保するため |
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【泰時】 |
【藤原頼経】 |
後高倉 |
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【連署】設置1225 ➜初代:北条時房 【評定衆】設置1225➜有力御家人の合議体制 藤原(九条)頼経、将軍正式就任1226= 摂家将軍 【後成敗式目】制定1232=初の武家法 但し律令や公家法・本所法を否定するものではなかった。 |
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【時頼】 |
藤原頼嗣 |
後嵯峨 |
✖【宝治合戦】1247➜三浦泰村一族滅亡 評定衆の下に【引付衆】設置1249➡裁判の公正・迅速化 僧:叡尊鎌倉に招かれ➜律宗広める |
【宗尊】親王 |
宗尊親王(後嵯峨上皇の皇子)、将軍就任1252=皇族将軍 時頼、執権を退く1256➡その後も実権握る ※北条氏の独裁化進む |