土地制度史 荘園制の変遷
いきなり質問です。
設問
1.大宝律令が法令として有効だったのは西暦何年までか?
2.大宝律令に代わる法令の名を書きなさい。
答えは1 757 年の2養老律令ですね。
養老律令が出されたのは何故なのだろうか?➡藤原氏の権力基盤を確立するためかもしれない。真実は不明だ。
3.では2の法令が有効だったのは西暦何年まででしょうか?
大日本帝国憲法と答えたとして制定年もセットで答えたい。
3.1889年の大日本帝国憲法までです。時代劇のテレビなどで大岡越前守忠相と、守介掾目の役職が残っていることを示しています。養老律令に代わる法令が出来ていないからです。明治時代初期でも太政官という機関が残っています。
では第4問
荘園制が完全に消滅することになった土地政策は何か?
これは難しい。歴史をタテの流れで考えないとわかりませんね。いやそれでもわからない。
答えは太閤検地です。律令制が奈良時代に始められましたが平安・鎌倉時代とずっと存続しているし荘園制も残っている。南北朝の対立の両統迭立で両統の経済基盤は何だったでしょうか?➡八条院領 と長講堂領でしたね。
班田収授について
➡口分田を班給して租を得るというのが班田収授の仕組みです。…6歳以上男女に6年ごとに班給(死亡すると収公される)・戸ごとに一括支給されました。女子は男子の2/3というのもおさえ、唐の均田制 を真似たことも押さえてください。
この課税方法ですが、人頭税であることを理解してください。人単位で課税しています。だから戸籍や計帳を作ったのです。しかし古代において正確な戸籍を作って人民を把握することは想像しても難しかったことがわかります。どこに誰がいるかは難しかったでしょう。
だから偽籍が横行し人々は税から逃れたのです。男が女になってしまうんですね。
設問1 墾田永年私財法により、国家の土地支配力はどう変化したか答えなさい。(20字)
国 |
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に |
よ |
る |
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早稲田大の過去問について
早稲田大(社学)では、平安時代の荘園から次のように出題されている。試しに解答してみよう!
大宰府管内に設置された国家の直営田を何というか?
イ 田所 ロ 名田 ハ 官田 ニ 公営田 ホ 諸司田
平安中・後期の地方行政の実態の説明のうち、適切でない記述はどれか?
イ 任務が終わっても京都へ戻らずに土着化した国司を受領と呼ぶ。
ロ 名田の経営を請け負って税を国衙に納める者を負名という。
ハ 財物を官に納めて見返りに官職や位階を得ることを成功という。
ニ 988年、尾張国の郡司・百姓らが国司藤原元命の悪政を訴えた。
ホ 国司が赴任せず目代などが派遣された国衙を留守所という。
9C後半の荘園
国家機関にはまともな税収が入ってこない。そこで各機関は自分たちで農民を雇って耕作をし、税収の代わりに運営費用を作っていた。その田のことを畿内では➡① 官田 といいます。特に大宰府が運営していた官田を➡② 公営田 といいます。天皇家まで➡③ 勅旨田という私有地を営み財源としていました。
「口分田も配られないし、前に班給された田んぼを耕しておくしかおまへんな」
「てか、隣の伴さんが逃散して田んぼが余っておる。二人で耕しておこか」
余っている土地を、適当に「ここは俺のもんじゃ!」と囲ってしまい、農民も役所もそこを耕していたということだ。
荘園についても、引き続き荘園として保有されていた土地もあれば、どさくさに紛れて、有力者が荘園にしてしまった土地もあるでしょう。荘園の証書は偽造したりしていたようです。
また、要領よく土地を増やしていった農民が各地に現れます。班田が行なわれていない地域も多く、国司も税収がないと困るので、 有力農民 と国司がつるんだりもしていたでしょう。
国司に税を納める代わりに、墾田の開発を支援(荘園を認めてもらう)してもらっていました。こうして有力農民は力をつけていきます。
イメージとしては、芥川龍之介「羅生門」の世界です。国家が軍隊を廃止し都の治安は悪化、地方の治安は推して知るべし。そこで有力農民は自衛のために武装します。武士の発生ですね。
そんな中、どこが口分田なのか、どこが荘園なのか、土地を把握し直して、班田収授の体制を立て直そうとしたのが➡④ 醍醐 天皇の時代902年の➡⑤ 延喜の荘園整理令 です。課税を免れようとする荘園や院宮王臣家(= 天皇と結びつき勢力を強めた皇族・貴族 )の初期荘園が増えてきたため、荘園とされている土地に対して、証書の提出を求めて違法な荘園を整理したということです。
しかし不徹底に終わる(国務の妨げにならない荘園は認めたため)。