古代の市と交易 商学部2008
邪馬台国と交易に関する問題。古代の交易は早稲田大頻出テーマである。律令体制時と日宋貿易の問題は、割愛した。
A 三国志魏書と同様の形式で編纂された、日本の歴史書はどれか。
1.三代実録 2.本町通鑑 3.吾妻鏡 4.続日本紀 5.大日本史
B 「壱岐・対馬の人々は船により南北に行き来して盛んに交易し」、に関連して、後世、こ
の地域の航海の安全を祈り、篤く信仰された神社はどれか。
1.国家鎮護の神や航海守護の神などをまつる住吉大社
2.沖津宮の祭祀遺跡を残す宗像大社
3.海の神をまつり、中世には武士の信仰をえた大三島神社
4.山をご神体とする大神神社
5.神話に登場し、古代建築様式を今に残す出雲大社
C 3世紀の『三国志』魏書によると、「倭国内では大人・下戸・奴婢の身分差があり、市もあり【 ハ 】といわれる役人が管轄した。窃盗や訴訟は少ないが、厳しい処罰の法や租賦を納めなければならない社会であったとされる。
空欄【ハ】に入る語句はどれか。
1.大倭 2.一大率 3.持衰 4.大夫 5.太守
古代・中世の考古学 文学部2010
早稲田頻出テーマでもある北海道史・琉球史とからめての出題である。
〔Ⅰ〕次の文を読んで、問に答えなさい、
ある日本史教科書の年表を見ると、旧石器時代から縄文、弥生、古墳時代、そして近現代に至る時代名が並び、それと並行して北日本、琉球、さらに朝鮮、中国などアジアの年表まで添えてあって、互いに実年代で比較・対照できるようになっていた。日本史を学ぶ時、a時間軸に沿って前後する各時代を通時的に比較してみることももちろん大事だが、こうして広く各地域ごとの歴史を共時的に比較してみることも、とても興味深く大切なことに思われた。たとえば、紫式部が『源氏物語』を書いていたころ、お隣りの朝鮮半島では高麗、中国では北宋の時代で、日本列島北部に目を転ずると、文様のある素焼きの土器を使い竪穴住居で暮らす〔 A 〕文化が北海道に広く展開した時代だったことが分かった。また太田道灌が江戸城を築いていたころ、琉球王国ではグスクに拠った按司たちが活躍し、いっぽう北海道ではアイヌの首長〔 B 〕が和人の進出に対し蜂起するなど、西も東も騒乱の時代だったことがよく理解できた。
〔問〕
1 下線aの例として、次の⑴〜⑸の各問に答えなさい。
⑴ 旧石器時代と縄文時代との比較で、明らかな誤りを含む記述はどれか。1つ選びなさい。
ア 旧石器時代の主な生業は採集・狩猟だが、縄文時代には植物栽培も行われたらしい。
イ 旧石器時代はもちろん、縄文時代にも牧畜の行われた明確な証拠はない。
ウ 旧石器時代の生活は遊動的だが、縄文時代には竪穴住居集落での定住生活が一般化した。
エ 旧石器時代には土器はないが、縄文時代にはそれが盛んに使用された。
オ 同じ石器時代でも、旧石器時代には主に打製石器が、縄文時代には主に磨製石器が使用
された。
⑵ 縄文文化と弥生文化との比較で、正しい記述はどれか。1つ選びなさい。
ア 縄文文化は新石器時代の文化で、弥生文化は青銅器時代の文化である。
イ 縄文文化はほぼ日本列島全体に分布するのに対し、弥生文化は東北地方から琉球諸島まで分布する。
ウ 縄文人は狩猟・漁労を生業として環濠集落に住み、弥生人は水稲耕作を主な生業として高地制集落や環状集落に暮らした。
エ 縄文社会には、まったく階層差はなかったが、弥生社会では身分秩序が発達した。
オ 弥生時代になると、縄文時代には見られなかった小国が形成され、金属製武器を伴う集団間の戦いが始まった。
⑶ 土偶と人物埴輪は、いずれも土製の人物像だが、これらについて明らかな誤りを含む記
述はどれか。1つ選びなさい。
ア 土偶は縄文時代の、埴輪は古墳時代の遺物である。
イ 土偶は西日本に、埴輪は東日本に、より多く出土する。
ウ 埴輪には男女とも見られるのに対し、土偶は女性がほとんどである。
エ 土偶は生殖(多産)や収穫(豊穣)の儀礼に関係すると考えられている。
オ 埴輪は古墳における被葬者の葬送儀礼に関係すると考えられる。
⑷ 弥生時代と古墳時代について、明らかな誤りを含む記述はどれか。1つ選びなさい。
ア 弥生時代は甕棺墓、支石墓、方形周溝墓、墳丘墓などがあり、さらに墳丘墓には四隅突出型や盾築型など様々なものがある。
イ 弥生時代にはくにぐにが形成され、やがて各地に支配者が登場し政治連合を結ぶようになったが、古墳時代には統一的なヤマ
ト政権が成立した。
ウ 前方後円墳はヤマト政権による支配体制と強い関係がある。
エ 弥生時代には青銅器祭器や青銅鏡がよく使われたが、古墳には青銅鏡が好んで副葬されている。
オ 弥生時代の北日本はまだ縄文文化の段階だったが、古墳時代になってようやく続縄文文化が成立した。
⑸ 古墳時代各期の比較で、明らかな誤りを含む記述はどれか。1つ選びなさい。
ア 古墳時代前期には、箸墓をはじめとする前方後円墳が近畿を中心に多くつくられ、中期には百舌鳥・古市古墳群に見るよう
にそれが巨大化した。
イ 前期古墳は副葬品に鏡や玉類などが多く、まだ神道的色彩が濃いが、中期以降は武器、武具、馬具、金銀製品などが増えて
軍事的性格を強める。
ウ 後期になると、古墳は各地に群集墳を形成するようになり、小型の円墳で横穴式石室をもつものが多く、家族墓の傾向を示
す。
エ 7世紀半ばの大化薄葬令により墓葬が簡素化し、また仏教の影響で火葬も普及し古墳は衰退する。
オ 明日香の高松塚やキトラ古墳は四神などの壁画を持ち、7世紀末から8世紀末にかけての特殊な終末期古墳である。
2 文中の空欄Aに当てはまる語句は次のうちどれか。1つ選びなさい。
3 文中の空欄Bに当てはまる語句を、記しなさい。
縄文人の生活と文化 文学部2016(Ⅰ)
原始時代から9世紀までの仏教以外の信仰・宗教に関する問題。例年通りⅠは考古学からの出題である。3は、やや難であるが、第1問に必ず考古学を出題する文学部を受験するのであれば、知っておいて欲しい問題。残りはすべて平易である。取りこぼしは避けたい。
日本列島に最初に住み着いた旧石器人類は、おおむねヨーロッパのクロマニヨン人と同種で現代人の祖型をなすものである。縄文人はその系譜を継ぐと考えられるが、長らく大陸からの影響を受けることなく、多様な自然環境のもとで狩猟採集と漁労生活をおくり、そのために物質文化と精神文化において、a縄文時代独自の文化・社会を形成することになった。
縄文人は貝塚や集落跡を残し、縄文中期、後期には〔 A 〕と呼ばれる円形の石造モニュメントを構築するなど、旧石器時代とは異なる展開をみせた。本格的な農耕と牧畜を伴わないので、真のb「新石器文化」とは言えないが、c自然経済に支えられて安定的で豊かな定住生活を営んだと考えられる。未開社会の宗教生活を参考にすると、縄文時代には自然の様々な精霊や先祖霊などを崇拝していたらしく、それに関わるd儀礼や祭祀が行われた痕跡が残っている。
問
1 下線aの説明として誤っているものはどれか。1つ選びなさい。
ア 地縁・血縁的原理から構成される集団が組織された
イ 産地が限定される黒曜石やアスファルト、ひすい、琥珀などが交換を通じて流通した。
ウ 優れた土器製作や漆工芸の技術が発達した。
エ 石器製作や骨角器製作に優れた技術を発揮した。
オ 縄文土器に施文される縄目文様は縄文文化の大きな特徴で、縄文時代の終末期には姿
を消し、弥生時代には継承されなかった。
2 空欄Aに入る語句を漢字4字で記せ。
3 下線bの説明として正しいものはどれか。
ア 磨製石器が登場した。
イ 武器として青銅器が用いられた。
ウ 土器製作が始まった。
エ 植物栽培が開始された。
オ 弓矢が発明された。
4 下線cの説明として正しいものはどれか。2つ選びなさい。
ア 主に東日本ではサケ・マスの捕獲と備蓄等にもとづき安定した経済活動を営んだ。
イ 定住生活の痕跡は大規模集落や長期間の集団墓によって裏付けられる。
ウ 縄文人は季節的に集中する特定の資源に依存せず、イモ類の採集に特化した。
エ 北海道や沖縄では豊かな自然環境に恵まれたため、その後も続縄文文化を継続できた。
オ クリやドングリなどの堅果類を季節的に利用したが、それは西日本を中心とした。
5 下線dの説明として正しいものはどれか。2つ選びなさい。
ア 精神世界に関わる土偶は、その後も継続して古墳時代の埴輪に引き継がれた。
イ 縄文時代の儀礼と祭祀には、呪術師やシャーマンが関与した。
ウ 儀礼・祭祀の場で使用された土偶や土版は、縄文時代後期に西日本で製作された。
エ 弥生時代に開花する大陸由来の儀礼と祭祀は、遅くとも縄文時代後期には朝鮮半島を
通じて流入していた。
オ 縄文時代後期、晩期の大型住居は集団の儀礼、祭祀のための集会所と考えられる。
「クニ」の形成とヤマト政権の成立
国際教養学部2016(Ⅰ)
問3と問9の絞り込みがポイント
Ⅰ 次の文章を読み、後の問に答えなさい。
〔 A 〕時代には、各地にa濠や土塁を巡らした大規模な集落が見られるようになり、青銅器・鉄器が出現する。とくにb銅鐸やc銅矛・銅戈はそれぞれに分布がことなり、すでにこの時代には共通の金属器を用いる地域圏が成立していたことをうかがわせる。また金属製の武器や防御的施設を備えた集落の出現は、日本列島における戦乱の始まりを示している。そして強力な集落はいくつかの集落を統合し、クニと呼ばれる政治的なまとまり、つまり後の国家の原理を形作っていくのである。
さらに〔 B 〕時代以降の日本列島は、東アジアをめぐる国際情勢とも無関係ではいられない。
すでに1世紀には、こうしたクニのひとつであるd奴国の王が中国に使者をつかわし、光武帝から印綬を受けたとの記述が
『 B 』にみられるが、これは〔 A 〕社会に成立したクニが、東アジアの国際秩序の中に自ら位置づけようとした結果であると言える。
漢が滅んだのちも、三国のひとつである魏にたいして、クニは積極的に働きかける。戦乱が続いたクニグニはやがて共同して邪馬台国の卑弥呼を宗主とする一種の連合体を形成した。e239年には卑弥呼は魏から王の称号と金印、そして多数の銅鏡を受け取っている。こうした連合の動きのなかから、後に大和地方を中心とする大規模な政治連合体が形成されていくが、これをヤマト政権と呼ぶ。
4世紀にはいると、ヤマト政権が国家形成のただ中にある朝鮮半島との関わりを深めたことが、高句麗の好太王碑文に見られる。また乗馬の風習がなかった日本列島にも騎馬技術がつたわり、5世紀になると各地の〔 C 〕に馬具が副葬されるようになる。さらに朝鮮半島だけでなく中国でも、f〔 D 〕の五王があいついで南朝に朝貢したことが記録されている。
こうした遣使をつうじた東アジアの国際秩序への関与は、後の律令国家の成立以降の遣隋使・遣唐使へと引き継がれていくが、同時にこうした使節は先進的な政治制度や国際的な文化をもたらし、「日本」に大きな影響を与えたのである。
〔問〕
1 〔 A 〕に該当する漢字2字を記せ。
2 下線部aに該当する名称は何か。1つ選びなさい。
ア 環状集落 イ 環濠集落 ウ 土塁遺構 エ 高地性集落 オ 環状列石
3 下線部bについての説明として、誤っているものはどれか。1つ選びなさい。
ア 材質は青銅であり、朝鮮半島に起源を持つ。
イ 日本列島で大型化した祭器である。
ウ 表面に絵をもつものもある。
エ 墳墓に埋められることはほとんどない。
オ 個人的な祭礼に限って使用された。
4 下線部bと下線部cについて、この両者が多数、1つの穴に埋納されていた遺跡はどこ
か。1つ選びなさい。
ア 加茂岩倉遺跡 イ 岩宿遺跡 ウ 荒神谷遺跡 エ 吉野ヶ里遺跡
オ 菜畑遺跡
5 下線部dに関する説明として、正しいものはどれか。1つ選びなさい。
ア 「奴」とは日本列島全体を指す言葉である。
イ この記述以前には、日本列島のことは中国に知られていなかった。
ウ こうした使者は、奴国では遣漢使と呼ばれた。
エ 印綬を受けいから50年後には、別の王が生口160人を献じている。
オ この記述に相当すると考えられている金印が、佐賀県から発見されている。
6 空欄〔 B 〕に入る書はどれか。1つ選びなさい。
ア 史記 イ 漢書 ウ 後漢書 エ 宋書 オ 隋書
7 下線部eのことが述べられている書名と編纂者の組み合わせで、正しいものはどれか。
1つ選びなさい。
ア『史記』—司馬遷 イ『漢書』—陳寿 ウ『史記』—陳寿 エ『三国志』—陳寿
オ『三国志』—司馬遷
8 〔 C 〕に該当する漢字2字を記しなさい。
9 〔 D 〕に入る名称に関して、誤っているものはどれか。1つ選びなさい。
ア 『三国志』には、この別称として「大和」の文字も使われている。
イ 7世紀末から8世紀初め以降は、この名称にかわり「日本」が自称として用いられた。
ウ 卑弥呼に授けられた称号にも使われていた名称である。
エ 住民のことは「〔 D 〕人」と呼ばれた。
オ 中国でつけられた名称であるが、対外的には自称としても用いられた。
10 下線部fについて、五王のうち武は、「記紀」に記さているどの天皇のことであると
考えられているか。1つ選びなさい。
ア 欽明 イ 天智 ウ 天武 エ 雄略 オ 応神