奈良時代の仏教は鎮護国家の役割を担っており、国家の統制を受けていた。僧は国家公務員のような存在だった。仏教を篤く信仰していた聖武天皇は、国の平安を願って全国各地に官営の寺院(国分寺・国分尼寺)を、そしてそれらの寺院の総元締めとして東大寺を建設し、その中に毘廬遮那仏を建立しました。
これらの寺院では、現世利益を願う願う経典が読誦され、国家の安全が祈願された。勝手に僧にはなれません。僧になるには朝廷の許可が必要であり、僧となってからも僧尼令によって国家の管理を受けたのです。まさに国のために祈り働く国家公務員のような存在だったのです。
そこには宗教が本来もっている人々を救うという発想はなかったのです。
行基は土木事業や救済施設の設置などの事業をとおして人々の信望を集め、仏教の民間布教に努めた。これで十分。
唐から苦難の末に渡来した鑑真は、聖武天皇や孝謙上皇らに戒律を授け、東大寺に戒壇院をつくるなど仏教の普及に努めた。荒波を乗り越え日本にやってきた鑑真、イラストにあるように盲目ですがその気概には心打たれるものがあります。