契沖=『万葉代匠記』のみ
荷田春満=『創国学校啓文』を書いて国学の学校を創ることを提案、受け入れられず。
賀茂真淵=『万葉考』
賀茂真淵は、「万葉集」などの日本の古典を研究する中で、日本人には「ますらおぶり」=(男性的でおおらか)な調子があると説いた。また「高く直き心」(自然で素直な心)こそ日本人の精神だと説いた。真淵は、大和魂というものを「高く直き心」と「ますらおぶり」という2つでとらえようとした。
真淵は67歳のとき大和・山城方面の旅に出ます。吉野の山桜を愛で、伊勢の松坂の新上屋という宿に泊まります。この時一人の来客がありました。本居宣長です。
本居宣長=『古事記伝』
本居宣長は真淵の国学の精神をさらに発展させ、仏教=ほとけごころに歪められる以前の古代人が持っていた「真心」に帰れと説き、さらに物・事に対して感動する心「もののあはれ」が大切だと説きました。
辞世の句にこんなうたがあります。
「敷島の 大和心と人問わば 朝日に匂ふ 山桜花」
太平洋戦争時、神風特別攻撃隊が編成されました。その時の一番隊は敷島隊であり、二番隊は山桜隊です。本居宣長の影響を残しています。すごいことです。
平田篤胤
宣長の没後の門人に平田篤胤がいます。本居宣長が説いた国学を宗教化し、儒教や仏教の影響を排して、天皇を中心に据えた日本古来の神の道への復帰を説く復古神道を説いた。篤胤の説く復古神道は、特に天皇の絶対性や他国に対する日本の優越性などを強調したものであり、幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えることになった。
しかしこんな見方もできる。
多くの自称、志士、勤皇家にとって、実は近世日本で溜まりに溜まった欲求不満を解消することの方が主目的で、尊王攘夷云々は単なる便利な手段でしかなかったからこそ、実権掌握に成功して用済みになったら、あっさり捨て去ることができたのです。(中国化する日本 輿那覇潤)。
神道の整理 日本史にも便利
伊勢神道=伊勢神道の神官である度会家行が開く、神主仏従の反本地垂迹説の立場。
吉田神道=京都吉田神社の神職であった吉田兼倶が発展させた。儒教、仏教、道教、陰陽道などさまざまな教説を融合。
垂加神道=山崎闇斎が創始し、儒学と神道が融合。
復古神道=平田篤胤
日本史をちょっと
練習問題 若尾政希先生関連の問題 一橋論述ノートにも入ってます。
次の文章を読んで下記の問いに答えなさい。(問1から問4すべてで400字以内)
室町時代に成立した太平記は、人々のあいだに広く普及し、幕末期にいたるまで大きな影響を与えた。作中では朱子学の思想についても随所に触れられており、江戸時代の朱子学普及に大きく影響した。朱子学は幕府の公式学問とされ、権力とも結びついて、幕府や諸藩に広まっていった。また、庶民のあいだにも広く普及しており、庶民の教育にも一定の役割を果たしたと考えられる。幕末期になると、当初は幕藩体制を支えるための学問であった朱子学が、逆に尊王論の根拠となるまで発展していた。朱子学は、討幕にも大きな影響を持ったことになる。
問1 『太平記』はどのような物語であるかを説明するとともに、これがどのような形で広められていったのか、答えなさい。
太平記は後醍醐天皇の討幕計画以降の南北朝の争乱を描いた軍記物語である。太平記読みによって広められた。また、江戸時代は講談で演じられるようになった。
問2 朱子学が幕府の公式の学問となった過程について、代表的な儒学者の名前をあげて説明しなさい。
江戸時代初期に盛んになっていた朱子学は、君臣の秩序を重んじるため権力者に受け入れられた。藤原惺窩は徳川家康に朱子学を講義した。家康は惺窩の弟子であった林羅山を登用し、朱子学を振興した。徳川綱吉は林信篤を大学頭に任じ朱子学の官学としての傾向が強まった。寛政の改革では朱子学以外の学問が禁じられ、朱子学が正学となった。
問3 江戸時代前期には、儒学者を顧問にして藩政の刷新をはかる藩主も現れるが、このことに関して、水戸藩と岡山藩における藩政について説明しなさい。ただし、岡山藩については、庶民の教育に対する政策についても説明すること。
水戸藩主徳川光圀は朱舜水を登用した。江戸に彰考館をもうけ、大日本史の編纂を開始した。岡山藩主池田光政は熊沢蕃山を登用した。藩校として花畠教場、庶民のための学校として閑谷学校をもうけた。
問4 尊王論の根拠となった朱子学の一派について、尊王論の根拠となった理由とともに説明しなさい。
南学派の山崎闇斎は神道と儒教を融合させた垂加神道を説いた。国粋主義的な傾向が強く、天皇家中心の秩序を説いたため、後の尊皇思想の土台となった。(396字)