年度 2016年
設問番号 第2問
次の文章を読んで,下記の問いに答えなさい。(問1から問5まですべてで400字以内)
自由民権運動が高まるなか,1881年に板垣退助を総理とする自由党が結成された。⑴明治十四年の政変で下野した大隈重信は,その翌年自由党に対抗して立憲改進党をつくった。この二つの政党の流れは対立を繰り返し,1898年に成立した①という例外を除いて,完全には合流しなかった。そして,1924年に⑵護憲三派内閣が成立して以降,8年間にわたり,自由党の系譜を引く立憲政友会と,立憲改進党の系譜を引く憲政会(のち立憲民政党)の党首が交代で内閣を組織する「憲政の常道」が続いた。日中戦争の最中の1940年,②を指導者とする新体制運動が始まると,立憲政友会と立憲民政党をはじめとする諸政党は解散した。
第二次世界大戦後,連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による民主化政策が実施されるなかで,様々な政党が復活し,結成されたが,この段階でも自由党の系譜を引く日本自由党と,立憲改進党の系譜を引く日本進歩党が分立した。こうした状況を変えることになったのは,戦前の合法無産政党の系譜を引く日本社会党の台頭であった。1955年,左派と右派に分かれていた日本社会党が,総選挙において合計で⑶衆議院の3分の1の議席を確保した上で統一すると,それに対抗して日本民主党と自由党が合流して自由民主党が結成された。以後,自由民主党を政権政党,日本社会党を野党第一党とする55年体制が,1993年に⑷細川護煕内閣が成立するまで38年間続いた。
問1 ①と②の空欄に入れるべき適切な語句を書きなさい。
問2 下線部⑴に関し,明治十四年の政変で大隈重信が下野した後の政府の経済政策について説明しなさい。
問3 下線部⑵に関し,護憲三派内閣が治安維持法を成立させた目的について説明しなさい。
問4 下線部⑶に関し,社会党が衆議院の3分の1の議席の確保を重視した理由について説明しなさい。
問5 下線部⑷の細川護煕内閣は政治改革を実現した。その結果,衆議院の選挙制度はどのように変わったのか説明しなさい。
【解法の①と②はヒント】
①と②は空欄補充
問2で問われているのは、大隈重信が下野した後の政府の経済政策。大隈の後だから、松方正義の経済政策を説明すればよい。
問3
出ました!治安維持法。
普通選挙法の制定による無産政党の増加、日ソ基本条約によるソ連との国交樹立による共産党活動の活発化への懸念、虎ノ門事件に象徴される社会運動の過激化、すなわち国体の変革や私有財産制度の否定を目指す結社を取り締まるということを説明すればよい。
問4
日本社会党が3分の1の議席確保を重視した理由である。
保守と革新の対立構造が形成され、保守勢力は憲法改正とアメリカ依存の安全保障を、革新勢力は憲法擁護と非武装中立をそれぞれ主張、日本社会党は内閣による憲法改正を阻止することが大きな理由だったことがわかる。
問5
細川護煕内閣による政治改革の結果、衆議院の政治制度はどう変わったのか!である。
中選挙区から小選挙区比例代表制への変化である。