広田弘毅
  広田弘毅

アジア・太平洋戦争の開始 

一橋大入試の第3問 二・二六事件後陸軍統制派が皇道派を一掃し、軍部は政治的発言力を一段と強めていった。広田弘毅内閣軍部大臣現役武官制を復活させ「帝国国防方針」を改定して膨大な軍備拡張計画を推進し、広義国防国家の建設を唱えた。1936年8月広田内閣は「国策の基準」を決定し、大陸進出と並んで南進政策を掲げた。1936年12月、日本はナチスードイツとの間に日独防共協定をむすび、翌年はイタリアも参加し、ソ連・アメリカ・イギリス・フランスとの対立を深めていった。

 二二六事件こそ、政治の正論を言えることができない雰囲気を作りだした事件だ。テロの恐怖が政治家を襲い始めたのだ。アジア・太平洋戦争の原因をどこに求めるのか?私は二二六事件から始めたいと思う。テロの恐怖が始まり、ものが言えなくなる空気が蔓延するからだ。

 

  近衛文麿
  近衛文麿

中国では1935年、支那駐屯軍・関東軍は華北分離工作を推進し、中国軍を河北省の外に撤退させ、河北省東部に冀東防共自治政府を樹立した。そして、中国人民にも大きな変化が起こっていた。民族的気運が高まり、抗日救国運動が展開し始めのである。1936年12月の西安事件を契機に、国共内戦は停止し第二次国共合作へと向かったのだ。西安事件は北方軍閥の張学良が、共産軍討伐の督励に西安にきた蒋介石を監禁して、中国共産党の周恩来とともに内戦停止と抗日を要求し、蒋介石を同意させた事件である。