<考え方>野沢先生の解法を参考に書いてみる
問1 要求されているのは、
(1) 1885年以降、
(2)
棉花(綿花)の生産量が減少に転じた
(3)
理由を具体的に説明する
ことである。

山川の教科書でどこに書かれているか!を探してみる。

 1885年以降というのは、山川の『詳説 日本史』のP.276に「
188689(明治1922)年には鉄道や紡績を中心に会社設立ブームがおこり(最初の企業勃興)、機械技術を本格的に用いる産業革命が日本でもはじまった。」とされている時代である。

 ここから、解答のポイントは、会社設立ブームの中、紡績会社が多数設立されたにも関わらず、国内の綿花生産が減少した理由を書くことだと分かる。

 この点については、P277~278に「(大阪紡績会社が)
大規模経営に成功した。これに刺激されて、大阪などを中心に商人が会社を設立する動きが強まり、在来の手紡やガラ紡による綿糸生産を圧迫しながら機械制生産が急増した。」「このように綿糸・綿織物の輸出は増加したが、原料綿花は中国・インド・アメリカなどからの輸入に依存したため、綿業貿易の輸入超過はむしろ増加した。」とある。

 これをつなぎあわせると、「
企業勃興で機械制生産を行う大規模な紡績会社が多数設立されたが、原料綿花は中国・インド・アメリカからの輸入品が用いられたため。」となる。

 受験生にとって、近代前期の綿産業関係の基本的な流れは、
ア 幕末以降、
イギリス製綿製品の輸入に圧迫されて、綿花栽培壊滅→綿糸・綿織物生産も一時、衰退
イ 綿織物生産は原料糸に輸入綿糸を用いて、農村の問屋制家内工業で復活(そこでは飛び杼を取り入れて改良された手織機が使用された。)
ウ 1833年、渋沢栄一の
大阪紡績会社開業。輸入の蒸気機関で大規模経営に成功
エ 1880年代後半、鉄道ともに
紡績業で会社設立ブーム(最初の起業勃興)→手紡やガラ紡による綿糸生産を圧迫して機械制生産急増
キ 1890年、綿糸生産量>輸入量
ク 
1897、綿糸輸出量>輸入量=日本紡績業確立の年
ケ 日露戦争後は、大紡績会社の合併→朝鮮・満州市場へ進出
コ 農村の綿織物業は、豊田左吉の国産力織機を導入し、小工場へ
サ 1909年、綿布輸出額>輸入額

といったところである。 


問2 要求されているのは、
(1) 1915年から1920年にかけて、
(2)
生糸の生産量が伸び、綿糸の生産量が落ち込んでいる理由を、
(3) 1915
年から1920年の世界と日本の経済情勢の変化に着目して説明する。

ことである。

 1915年から1920年だから、これは第一次世界大戦の「大戦景気」と「戦後恐慌」の時期だとピンとこなければならない。(大戦景気は19151918年。1920年に戦後恐慌となる。)

 山川の『詳説 日本史』のP.299に「
戦争によって、ヨーロッパ列強が後退したアジア市場には綿織物などの、また戦争景気のアメリカ市場には生糸などの輸出が激増し、貿易は大はばな輸出超過となって」 とあり、「戦争景気となったアメリカへの輸出の増大で生糸の生産量が伸びた」ことは書ける。
 しかし、これでは分からないのは、綿糸の生産量がこの5年間で下がった理由である。これについては、P.315に「第一次世界大戦が終結してヨーロッパ諸国の復興が進み、その商品がアジア市場に再登場してくると、開戦以来の好景気とはうってかわって、日本経済は苦境に立たされることになった。(略)1920年には、株式市場の暴落を口火に欧米に先んじて戦後恐慌が発生し、綿糸・生糸の相場は半値以下に暴落した。」とある。さらにP.317には「
巨大紡績会社は、大戦ののち中国に紡績会社をつぎつぎに建設した(在華紡)。」と記されている。

 これをつなぎあわせると、「
第一次世界大戦で戦争景気となったアメリカ市場への輸出が激増したため生糸の生産量は伸びた。一方綿織物は、一時ヨーロッパ列強が後退したアジア市場に進出したが、戦争が終わりヨーロッパ諸国が復興して、その商品がアジア市場に再登場すると苦境に立たされることになった。さらに日本の巨大紡績会社が中国に次々と在華紡を建設したため、綿糸の生産量は落ち込んだ。」となる。


問3 要求されているのは
(1) 1930年から1935年にかけて
(2)
綿糸の生産量が急激に伸びた理由を具体的に説明する。
(3)
それが国際関係に及ぼした影響について説明しなさい。

ことである。

 これはそのまま『詳説 日本史』のP.324~325が使える。「
1931年に成立した犬養毅内閣の高橋是清蔵相は、ただちに金輸出再禁止を断行し、ついで円の金兌換を停止した。日本経済は、これをもって最終的に金本位制を離れて管理通貨制度に移行した。(昭和)恐慌下で産業合理化を進めていた諸産業は、円相場の大はばな下落(円安)を利用して、飛躍的に輸出をのばしていった。とくに綿織物の輸出拡大はめざましく、イギリスにかわって世界第1位の規模に達した。このころ世界の情勢は大きくゆれ動き、列強は世界恐慌からの脱出をはかって苦しんでいた。イギリスは、本国と植民地で排他的なブロック経済圏をつくり、輸入の割当てや高率の関税による保護貿易政策をとった。イギリスをはじめ列強は、円安のもとでの日本の自国植民地への輸出拡大を国ぐるみの投げ売り(ソーシャル=ダンピング)と非難して対抗した。」

 これを要約すると「
昭和恐慌下で産業合理化が進んでいた上に、金輸出再禁止による大幅な円安を利用して、綿織物の輸出がイギリスにかわって世界第1位になるほどに拡大したため、綿糸の生産量も急増した。これに対してイギリスは、ブロック経済圏をつくり、日本の自国植民地への輸出拡大をソーシャル=ダンピングと非難して対抗した。」となる。


問4 要求されているのは
(1) 1930年から1935年にかけて繭の生産量が落ち込んでいる理由を説明する。
 
ことである。

 これも教科書(『詳説 日本史』)のP.320でよいと思う。「
(世界)恐慌で消費が縮小したアメリカへの生糸輸出は激減し、その影響で繭価は大きく下落した。」から。

 そのままである。

 以上を、全部で400字でまとめればよい。