8 新しいと土地政策と初期荘園
住居
民衆の住居は竪穴式から掘立柱住居が西日本から普及した。
結婚は男性が女性の家に通う妻問婚だった。
重すぎる人頭税
雑徭・兵役・運脚などの負担から逃れるため、農民のなかには口分田の耕作を放棄して戸籍に登録された土地を離れる浮浪・逃亡や、少しのちになると儀籍などを行う者があいついだ。
NOTE 新たな土地政策
①三世一身法:722年の百万町歩開墾計画をうけて、723年に発布(長屋王政権)。
➡養老七年の格であることが出た。
②墾田永年私財法:743年に発布(橘諸兄政権)
➡天平十五年の格である。こうして開墾された墾田が➡輸租田であること(租を払う)墾田の面積は身分に応じて制限されていたこと等を記憶せよ。土地開発者として貴族・大寺院・地方豪族などが想定された。
道鏡政権下の765年に寺社を除いて開墾が一時禁止され、772年に再び解禁された。このことの史料問題が出た。解禁の時に、位階による開墾制限が撤廃された。
史料のポイント
養老七年は➡723年。「三世」「一身」はキーワード。太政官が、空欄補充になる場合もある。天平十五年は➡743年。
養老七年の格は三世一身法である。史料中の「三世一身」は空欄補充になる。「私財」「永年」という決定的キーワードだ
史料研究 三世一身法 (「続日本記」)
(養老七年四月)辛亥、【太政官】奏すらく、「頃者百姓漸く多くして、田池窄狭なり。望み請ふらくは、天下に勧め課せて、田疇を開闢かしめむ。其の新たに溝池を造り、開墾を営む者あらば、多少に限らず、給して、三世に伝へしめむ。若し旧の溝池を逐はば、其の一身に給せむ」と。
史料研究 墾田永年私財法 (「続日本紀」)
(天平十五年五月)乙丑、詔して曰く、「聞くならく、墾田は養老七年の格に依りて、限満つるの後、例に依りて収授す。是に由りて農夫怠估して、開ける地復た荒ると。今自り以後は、任に私財と為し、【三世一身】を論ずること無く、咸悉くに永年取ること莫れ。其の親王の一品及び一位には五百町、二品及び二位には四百町、三品四品及び三位には三百町……初位已下庶人に至るまでは十町、」
初期荘園
貴族 ・寺院・地方豪族の私有地が拡大した。特に東大寺などの大寺院が中心。国司・郡司の協力のもと近隣の班田農民・浮浪者等を大量動員して灌漑施設を作り、原野を開墾した。初期荘園の特徴を問う問題が出ている。ズバリ、労働力が付近の農民中心であるため、荘園内部に耕作者が居住しないことに特徴があった。郡司の弱体化にともない、10世紀頃までには多く衰退したことが出た。
浮浪・逃亡
困窮した農民の中には、区分田を捨てて戸籍に登録された地を離れて他国に浮浪したり、都の造営工事現場などから逃亡して、地方豪族などのもとへ身を寄せるものも増えた。
天平文化
中国の盛唐文化の影響が強い。そして鎮護国家思想が最大の特徴。政治を行う者が仏教を厚く信仰すれば仏教の力で国は治まるということ。
国司編纂と万葉集
古事記
神話と歴史
天武天皇が稗田阿礼によみならわせた内容を太安万侶が筆録。6世紀半ばに完成していたとされる「帝紀」「旧辞」をもとに作成。これらと推古朝の「天皇記」「国記」と混同しないこと。
日本書紀
日本最初の正史 天武天皇の子である舎人親王らが編纂。完成時の天皇は元正天皇である。漢文編年体で書かれる。その後の五つの正史と合わせた六国史が大事。
『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』
『日本三代実録』三代が清和・陽成・光孝の三天皇である。藤原時平・菅原道真らによる。日本書紀のあとの『日本後記』は徳政論争に登場する藤原緒嗣らの編纂である。
風土記
5つの風土記のうち、完全に残っているのは出雲国風土記である。
ほかは、常陸・播磨・豊後・肥前の一部が残存。
最古の漢詩集が懐風藻である。
万葉集
大伴旅人・家持父子は、万葉集に多くの歌を残した歌人である。万葉集には、防人となった東国の兵士が詠んだ歌や、その家族らが詠んだ東歌などもおさめられている。万葉集所収の『貧窮問答歌』は山上憶良が詠んだ。教科書56㌻➡楚取る 五十戸良が声は 寝屋戸まで 来立ち呼ばひぬ…の意味がセンターで出た。最初の勅撰和歌集は古今和歌集に注意。
大学・国学
大学は、中央におかれ五位以上の貴族の子弟が入学、式部省大学領の管轄。儒教の経典を学ぶのが明経道、法律を学ぶのが、明法道、漢文・歴史を学ぶのが紀伝道である。地方に国学がおかれ、郡司の子弟らが優先された。
国家仏教の展開
南都六宗(経典研究の重視)政治に口を出すのが難点!玄肪、道鏡だ!
👉玄昉や行基が法相宗の義淵の門下生だったことが早稲田(法)2016で出た!
三論宗・成実宗・倶舎宗
・法相宗 |
興福寺中心 |
・華厳宗 |
東大寺中心 |
・律宗 |
唐招提寺中心 |
南都七大寺
東大寺・西大寺(道鏡)・薬師寺・法隆寺 |
・興福寺(藤原氏の氏寺) |
・元興寺(もと法興寺、蘇我氏の氏寺) |
・大安寺(もと大官大寺) |
東大寺=華厳宗、興福寺=法相宗を抑える。
また鎌倉仏教でも、法相宗の貞慶【解脱】華厳宗の明恵【高弁】、律宗の叡尊・忍性が重要だから南都六宗でも華厳宗・法相宗・律宗を重点に。
鑑真
たびたびの渡航失敗にもめげず来日し、授戒の際に重要な
➡戒律のあり方を伝え、唐招提寺を創建した。鑑真の伝記=『唐大和上東征伝』の著者は淡海三船である。
正式に官僧になるための授戒の場は、東大寺・下野薬師寺・筑前国観世音寺にもうけられた。
これらを本朝【天下】三戒壇という。
行基
○僧尼統制☛国家に奉仕するだけの仏教、だから人々の魂の救済は禁止。
・僧尼令(不法な布教・自由な出家を禁止する令)
☛反発する僧がいた ・行基
(布教・社会事業を行って政府の弾圧)☛この人、超頻出!はずせません
東大寺の大仏造営に協力して大僧正となる。社会事業は善行であり、福徳を生むという仏教思想に基づく。布施屋・橋・港湾等をつくり生前から菩薩(仏になるために努力する人)と仰がれ文殊菩薩の化身といわれた。光明皇后が悲田院を設けて孤児・病人を収容し、施薬院を設けて医療に当たらせたこともこ 善行にあたる。
神仏習合思想
「八幡大菩薩」のように、神に菩薩号を付けることは、神仏習合の思想にもとづくが京大で出た。
絵画
鳥毛立女屏風(正倉院)の樹下美人図がトルファン盆地アスタナ出土の樹下美人図の影響を受けていることが京都府立大で出た。
正倉院螺細紫檀五絃琵琶には熱帯樹とラクダが描かれていることが出た。
また、これは正倉院宝庫に収められている。
工芸品
上段に絵、下段に経文が書かれた『過去現在絵因果経』は、釈迦の一生を描き、絵巻物の源流と言われる。
年代の確かな最古の印刷物といわれる百万塔陀羅尼が出た。これは、藤原仲麻呂の乱の後、称徳天皇が作らせた百万基の木造小塔に経文(陀羅尼経)を納めたものである。東京女子大・関西大