ヨーロッパ人の東アジア進出
ルネサンスと宗教改革を経て近代への道を歩み始めたヨーロッパは、15世紀末以降、貿易の拡大、キリスト教の布教、領土の獲得を目指して積極的な海外進出に乗り出した、これを大航海時代という。
ポルトガル・スペイン
インド航路を確保したポルトガルは、インドのゴア、続いて中国のマカオに拠点を築く。スペインは、アメリカ大陸に植民地を広げ、16世紀半ばに太平洋を横断してフィリピン諸島を占領、マニラを拠点とする。
南蛮人=ポルトガル人とスペイン人
紅毛人=オランダ人とイギリス人はお約束。
海禁政策
中国は明王朝の時代、海禁政策を行っていて私貿易は禁止だったが、朝貢貿易を利用した形で中国・朝鮮・ 琉球 ・ベトナム等の人々が、 中継貿易を行っていた。中国では中華思想を採用しているので東夷・西戎・南蛮・北狄と異民族を呼称していた。
種子島
1543年、中国人倭寇の船に乗ってポルトガル人→種子島漂着(島主:種子島時尭)鉄砲購入、製造法学ぶ、鉄砲購入→10数年で全国に普及
国内生産地:和泉の堺・紀伊の根来・近江の国友は絶対!
影響…戦術の変化(足軽鉄砲隊の登場)により戦国時代を早く終結させた。
南蛮貿易
明→海禁政策、一般の中国人海外渡航禁止。東アジア地域の貿易で活躍→南蛮人
ポルトガル人…インドのゴア→中国のマカオ
スペイン人…メキシコ(ノビスバン)ルソンのマニラ
輸入…中国産生糸(白糸)鉄砲など 輸出…銀など
輸出の性格→日本との交易では、中国のマカオに拠点を築いたポルトガル商人が明で生糸を入手し、それを日本に持ち込んで日本産の銀を獲得する中継貿易を軌道に載せ、大きな利益をあげる(南蛮貿易)。
南蛮貿易はキリスト教の布教と一体化しまた、イエズス会の日本布教の財源とされ、イエズス会が窓口となって行われた。そのため、ポルトガル船はキリスト教の布教を許した大名の領内だけに寄港した。
キリスト教伝来
①フランシスコ・ザビエル(イエズス会)
→鹿児島来航1549。日本における伝道のパイオニアとして、日明貿易を独占していた大内義隆ら大名の保護をうけ、布教につとめた。
②ヴァリニャーニ…イエズス会の巡察使として来日。
コレジオ(宣教師の養成学校)・セミナリオ(語学や基礎的学力の習得をめざす神学校)などの教育機関を設立し、天正遣欧使節の派遣、活字印刷機の導入などを勧めた。
③天正遣欧使節:ヴァリニャーニの勧めで、キリシタン大名
(大友義鎮・有馬晴信・大村純忠)+畿内の高山右近が、伊東マンショら4少年をローマ教皇のもとへ派遣。長崎…大村純忠からイエズス会へ寄進→南蛮貿易で発展・自治都市形成
織田信長の統一事業
織田信長の台頭
①天下布武をめざす(武が天下に行き渡る)
政治 |
戦乱 |
③岐阜城に拠点を移す ④1568信長足利義昭奉じての入京、将軍権威の利用 15代将軍に足利義昭を立てる、畿内制圧 |
②1560✖桶狭間の戦 織田信長VS今川義元 奇襲ではない ②1567稲葉山城の戦い 斎藤氏滅亡 「天下布武」の印判使用 |
⑥1571✖延暦寺焼き打ち
⑧1573室町幕府の滅亡 足利義昭を京から追放 |
⑤✖︎姉川の戦い 織田・徳川VS浅井・朝倉 ⑦浅井・朝倉氏の滅亡 |
宗教勢力との対決
信長にとって統一事業の最大の障害は…延暦寺焼打ち1571、伊勢長島の一向一揆平定、前後11年に及ぶ石山本願寺との戦い(石山戦争)に象徴される、中世的な宗教勢力だった。
信長がキロスト教に寛容だったのは、鉄砲など外国の技術が手に入ることに加え、上記のような中世的な宗教勢力との対決を迫られていたという事情もある。
政治 |
戦乱 |
⑨一向一揆の平定 伊勢長島(1574)越前(1575) ⑪1576安土城築城 1577 安土で楽市令 史料参照! ⑫1580 ✖︎石山合戦 石山本願寺が屈服 本願寺11代法主顕如を中心に対抗 強敵本願寺ついに屈服 |
10 1575年✖︎長篠の戦い 織田信長VS武田勝頼 信長の圧勝 鉄砲隊の活躍 センターでは絵が出た! ⑬1582 天目山の戦い 武田氏滅亡勝頼自害 ⑭1582 ✖︎本能寺の変 明智光秀の謀反➡信長の死 |
☶史料研究 『楽市令』近江八幡市共有文書
定 安土山下町中
一、⑴当所中、楽市として仰せつけられるるの上は、諸座・諸役・諸公事等、悉く免許
の事
一、往還の商人、⑵上海道はこれを相留め、上下とも当町に至り寄宿すべし。
一、分国中⑶【徳政】をこれを行うといえども、当所中免除の事。
問1 「当所」とはどこを指すか。 安土
問2 「上海道」とは何か。 中山道
問3 この法令は何か。 楽市・楽座令
問4 ⑶の空欄に入る語句を記せ。徳政
豊臣政権の全国統一
① 羽柴秀吉による天下統一→石山本願寺跡に大坂城、京都に聚楽第築造。
政治 |
戦乱 |
1582天正遣欧使節出発ローマへ ヴァリアーニの勧めで正使は➡伊東マンショ+千々石ミゲル
④1583大坂城築城
|
1582✖︎本能寺の変 秀吉は毛利元就と交戦中↓ 1582✖︎山崎の戦い ○羽柴秀吉VS明智光秀× ③1583✖︎賤ヶ岳の戦い(近江) ○羽柴秀吉VS柴田勝家× →北陸平定 1584✖︎小牧・長久手の戦い 織田信雄+徳川家康と戦い、両者を服属 ア➡信長の後継者としての地位を確立 |
1585 秀吉関白就任 1587バテレン追放令発布 キリシタン大名 高山右近が信仰放棄拒否→領地没収 1588 聚楽第に後陽成天皇歓待 |
1585長宗我部氏平定 1587✖︎島津義久降伏→惣無事令違反 1590✖︎北条氏政滅ぼす→惣無事令違反 伊達政宗服属して全国統一完成 |
POINT
①【朝廷権威の利用】
1585年、秀吉は関白就任し翌年には太政大臣に任じられ豊臣姓を賜った。さらに1588年、京都の聚楽第に後陽成天皇を迎え諸大名と天皇に秀吉への忠誠を誓わせた。
イ惣無事を通じた天下統一
秀吉は惣無事令(すべての和睦)という方針を打ち出した。つまり惣無事とは、完全な和睦・あらゆる私戦の禁止を提唱するもので、この方針にもとづいて秀吉は紛争の解決を秀吉の裁定に任せることを強制していった。
秀吉はまず、朝廷の権威と巨大な軍事力を背景に、戦国諸大名に対して惣無事を強要し、この命令に従わなかった大名を征討して全国統一を完成した。
これによって、領土紛争を武力で解決する戦国時代は集結し、以後、近世の成立とともに、紛争の解決を公権力の裁定に委ねる原則が確立していった。
《論述研究》秀吉は,九州での戦乱の原因をどのようにとらえ,その解決のためにどのような方針でのぞんだか。3行以内で述べなさい。(東大2009)
➡秀吉は御恩と奉公による主従制原理に基づき,一定の領地を給付・保障すると共にそれに応じた軍事動員に従事させ,臣従させた。(60字)
②豊臣政権のしくみ
ア 政治機構…秀吉独裁性強し→五大老(政務)と五奉行(実務)導入
徳川家康 |
前田利家 |
小早川隆景 |
宇喜多秀家 |
上杉景勝 |
浅野長政 |
増田長盛 |
石田三成 |
前田玄以 |
長束正家 |
イ 経済的基盤
⒜ 蔵入地…220万石の直轄領→京都・大坂・堺・伏見・長崎を直轄支配
⒝ 主要鉱山の直轄→佐渡・石見大森・但馬生野。→神屋寿禎の灰吹法(精錬技術)
荘園制
荘園制というのは、一つの土地に何人もの権利が複雑に重なっているものでした。例えば、荘園そのものは領主のものですが、荘園の徴税を行うのは名主です。領主は農民から年貢をとりましたが、
太閤検地と石高制
太閤検地という全国的な土地調査をおこない、①土地一区画ごとに、田畑の等級を定め、また新たな基準で面積をはかり、②石高を明らかにした。③さらに一地一作人の原則により登録した百姓に田畑・屋敷の所持を認め、年貢納入の責任を負わせた。そしてこれらを記載した検地帳を村ごとに作成した。このような太閤検地によって石高制が成立し、この石高をもとにして領主に知行が与えられ、百姓の土地所有も明らかになった。
全国の土地の生産力を米の量に換算して把握するシステムをつくりだしたのだ。
POINT
①【長さ】1間=6尺3寸(=191cm)
②【面積】1間四方=1歩。1町=10段=100畝=3000歩
③【容積】1石=10斗=100升=1000合(京枡に統一、1升=1.8リットル)
④【石盛】石盛とは、1段あたりの公定収穫量のこと。例えば、田地については上田=1石5斗などと定められた。そのうえで、村ごとに田畑・屋敷地を調査し、面積・等級(上田・中田・下田・下々田など)を確定した。
⑤【検地帳】村ごとに作成。田畑・屋敷地の面積・等級・石高・耕作者などを記載した。秀吉が朝鮮への出兵を開始する前年にあたる1591年、朝廷に献納すると称して作成された全国の検地帳を御前帳という。
⑥【石高】石高=石盛✖︎面積→土地の生産力を米の量で表示。年貢は、石高✖︎年貢率(豊臣政権下の年貢率は二公一民)で表示することができる。
⑦【一地一作人の原則】
一地一作人の原則とは、一つの土地の耕作権を一人の農民だけに認めることをいう。
これにより、中世以来の土地に対する重層的な権利関係(荘園制)が明確に否定され、また刀狩(農民のもつ武器を没収、1588年に刀狩令発布)や人掃令などの諸政策ともあいまって兵農分離が確定した。
⑧【農民】年貢納入の義務を負い、検地帳に記された土地での耕作を強制される存在になると同時に、農民の耕作権が法的に認められたため、安定的な耕作が可能になった。
⑨【石高制】全国規模で決定された石高は、年貢量の統一的基準、家臣への土地給与と軍役負担の統一基準として機能した。こうして石高制は、秀吉を頂点とする大名・家臣・農民間の関係を一元的に秩序づけ、幕藩体制を支える基礎となった
秀吉の対外政策
当初、信長にならって貿易利益のためキリスト教を保護。しかし(大村純忠)が長崎を(イエズス会)の教会に寄付していることを知って政策変更。秀吉はこの教会領を直轄地とした。また、秀吉の大名統制で領地没収となった(高山右近)は、播磨国明石城主であった。領内の一般人の信仰は「その者の心次第」として禁じなかった。
POINT
①【海上の支配】 1588年 海賊取締令を出し、倭寇などの海賊行為を禁止
②【新しい国際秩序の模索】東アジア世界の再編成への志向があった
・ゴアのポルトガル政庁、マニラのスペイン政庁、高山国 (台湾)
などに服属を要求。日本を中心とする東アジア世界の建設を構想した。対馬の宗氏を通して朝鮮に対し、入貢と日本の明出兵の先導を要求し、拒否されると出兵した。
③【キリスト教と南蛮貿易】
1587年バテレン追放令
➡ キリスト教宣教師に国外退去を命令 ⇄南蛮貿易は奨励
長崎がイエズス会領となっていたことなどを背景にとして、キリスト教の信仰を制限しバテレン追放令を発した。大名が信者になるには秀吉の許可を必要とし、神国思想をよりどころとしてキリスト教の布教を禁じ、宣教師の国外退去を命じた。これは、布教と貿易を分離し、イエズス会が握っていた南蛮貿易の主導権を豊臣政権のもとにおさめることをめざした政策であったが、ポルトガルやスペイン船の来航は奨励したため、不徹底に終わった。バテレン追放令の翌年、長崎を直轄領に組み込んだ。
④【サン・フェリペ号事件】
1596➡スペインと断交
➡土佐に漂着したスペイン船サン・フェリペ号を調査し、積み荷を没収して船をマニラに返した際に、船員が「スペインは宣教師を領土征服の手先としている」と失言。秀吉激怒し、フランシスコ会の宣教師・信徒26名を逮捕し、長崎で処刑した。
これを26聖人殉教事件という
朝鮮出兵
秀吉は明の衰退と日本の統一完成という状況のなかで、日本を中心とする東アジア世界の建設を構想した。対馬の宋氏を通して朝鮮に対し、(入貢)と日本の明出兵の先導を要求し、拒否されると出兵した。
センターでは、NO185 朝鮮出兵 2015本試
朝鮮出兵に関して述べた文として正しいものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。
① この戦乱を、朝鮮側では壬辰・丁酉倭乱とよんでいる。
② 日本軍は、慶長の役で漢城(現ソウル)を占領した。
③ 当時の中国王朝であった清は、朝鮮に援軍を派遣した。
④ 朝鮮水軍を率いる李成桂は、日本側の補給路を断ったとなる。
政治 |
戦乱 |
戦国動乱から統一の動きのなかで、国内にためられた勢力を対外的にそらす狙いが秀吉にはあった! 京都、方広寺にある耳塚 戦役が遺したこの耳塚は、戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を、歴史の教訓として今に伝えている。 |
1592✖︎文禄の役 朝鮮側では壬辰・丁酉倭乱と呼ぶ 本営は肥前名護屋、朝鮮へ大軍派遣、漢城・平壌を落として一隊は豆満江に。 李舜臣の水軍の活躍や朝鮮義兵の活躍で苦戦。(武将:加藤清正・小西行長) →一時撤兵 1597✖慶長の役 小西行長が和平交渉をするも秀吉出兵 秀吉の死とともに撤退 |
桃山文化
桃山文化 織豊政権から江戸時代初期にかけての文化を桃山文化といい、秀吉が晩年居城にした伏見城の地名に由来する。伏見城跡地に桃が植えられたから。
城郭建築
軍事的な建造物から平和と繁栄の象徴として
権力を誇示する役割を果たすこととなった。安土城・大坂城・伏見城など。
姫路城は、関ヶ原の戦い後城主となった池田輝政が大工事を実施して竣工させた。
山城→平山城→平城への変化
聚楽第=大徳寺唐門(京都府)
西本願寺飛雲閣(京都府)
二条城二の丸御殿
障壁画:城郭や寺院の内部を飾る襖や屏風などで特に金地に濃い色彩の装飾画を濃絵という。下剋上に勝利した大名の権威を高める効果を発揮した。
狩野山楽:『松鷹図』(大徳寺正殿にある)
長谷川等伯:『智積院襖絵』(智積院)
感動して思わず息を飲む、絵だ!等伯恐るべし。
狩野永徳:『唐獅子図屏風』
海北友松:『山水図屏風』朝廷では(土佐派)が重要。図版も出るのでそれぞれの特徴をつかんでおきたい。蒔絵は家具調度品に使用される技法で
高台寺蒔絵をおさえよう。
早稲田大文学部成澤准教授が北高に出張講義に来校。ゼミ生と最初に見に行くのが、智積院襖絵だそうだ。なお早稲田文学部は必ず美術史が出ることを記憶したい。
朝鮮印刷術
朝鮮侵略により朝鮮から印刷術が伝えられた。
木 製活字で、後陽成天皇の勅命で➡ 慶長勅版 が出版された。
町衆の生活
茶道:茶道は、 村田珠光 ➡ 武野紹鷗
➡ 千利休 ➡ 侘び茶 を大成
秀吉、京都北野で茶会を開く。千利休・ 今井宗久 ・ 津田宗及 らの茶人を中心に貧富・身分の別なく。利休は大徳寺に自分の木像をおいたかどで秀吉に切腹命じられる。
陶芸:茶の湯の流行が背景となる。
出雲阿国 が京都でかぶき踊りを始めて人々にもてはやされ(阿国歌舞伎)やがて、
女歌舞伎 が生まれた。女歌舞伎は江戸幕府によって禁止され若衆歌舞伎が人気となったが、これも禁止され、成人男性だけの 野郎歌舞伎 となった。
人形浄瑠璃 三味線を取り入れる 三味線 は桃山文化が始まり(センター)が出た。
堺の商人高三隆達が小唄に節付けした 隆達 節も民衆の間に流行した。
日常生活の変化
衣服は 小袖 が一般化していく。食事は2回から 3 回へと変化。都市では二階建て住居が作られ 瓦 屋根も多くなった。
南蛮文化
活字印刷: ヴァリニャーニ が活字印刷機をもたらす➡ キリシタン 版を出版
天草版「 平家物語 」が図版で出た(センター)。
カステラ・カッパ・カルタ・コンペイトウ・シャボン・パンなどがポルトガル語だとわかればいい。
茶室建築 妙喜庵待庵 (千利休設計)京都府大山崎町の妙喜庵に設けられた二畳ほどの茶室で、侘び茶の精神が凝縮された最高傑作。
美術
「 南蛮屏風 」 「世界図屏風」「秦西王侯騎馬図屏風」
…日本人画家による油絵・銅版画の技法 ex 狩野内膳
☈コラム 早稲田大学出張講座で学ぶ南蛮屏風
美術作品を「見る」ことの重要性!解説を読むのではなく、作品を見ることが重要なのだ。この言葉は目から鱗でした。早稲田大学文学部学術院 成澤勝嗣准教授の講義が2011年10月30日社会科室で行なわれた。詳細は授業の中で解説したい。また千葉大入試で南蛮屏風が出題されているので、その解説もしたい。