室町幕府の確立
①守護による任国支配の確立→武力で国人層を抑圧
ア 成長過程
⒜室町幕府による権限強化…目的=地方武士の軍事動員・地域社会の秩序づけ1
ⅰ刈田狼藉は収穫前の稲を刈り取ること。人の土地を奪う時は、土地に線引きをして奪うことはできない。数年に渡って収穫前の稲を奪うことで、相手に耕作放棄をさせることでやる気をなくさせ、最終的に土地も取れる。
ⅱ使節遵行は裁判で決まったことの強制執行権。言うことを聞かなければ討つ。
→刈田狼藉検断と使節遵行権で取り締まりと裁判判決の強制執行権で国人を抑えることになった。さらに
ⅲ半済(1352)荘園公領年貢の半分を兵粮米として守護に与える
鎌倉時代は兵粮米は自前が原則だった。しかし、南北朝内乱期は遠隔地を転戦するため、兵粮米は現地調達にせざるを得ない。
➡観応の半済令(近江・美濃・尾張、1年限り、年貢半分の収納👉初めて出されたのは尊氏の時
→のち全国、永続化)➡南朝側との戦場に近いのでこの地域。👉3国は重要!半済令が出たら必ず出る地域である。
☶史料研究 ●半済観応令(『建武以来追加』)
『諸国擾乱により、寺社の荒廃、本所の牢籠、近年倍増す。・・・
一、寺社本所領の事 …次に近江・美濃・尾張三箇国、本所領半分の事、兵粮料所と為し、当年一作、軍勢に預け置くべきの由、守護人等に相触れおはんぬ(意味➡年貢の半分を兵糧料(軍費)として今年一年に限って(尊氏方の)軍勢に与えるように守護に命令が下った)。半分に於ては、宜しく本所に分け渡すべし(意味➡残り半分の年貢は荘園領主に納めよ)。若し預人事を左右に寄せ、去渡さざれば、一円本所に返付す可し。』
Q法令名→建武以来追加 擾乱とは→観応の擾乱 守護の新たな権限→
応安の半済令1368…下地半分の収納⇄天皇家領や寺社一円領などは反済禁止
兵粮の確保は軍勢を動員するのに不可欠であり、室町幕府は守護に対して兵粮確保を保障することにより国内の武士の動員・組織化を進めようとした。 なお、戦乱のなかで各地の国人たちが兵粮調達を口実として荘園・公領の年貢を横領する動きが広がっていたことを念頭におけば、半済令は、それを半ば追認して守護の統制下に置くことで、年貢横領を一定限度内に抑制し、荘園領主の権益を保障しようとする意図もあった。
⒝荘園領主との契約…守護請
➡荘園公領の年貢の貢進を守護が請負い、現地管理権獲得
守護請は、もっともうまく国人を家臣にする手段となった。年貢が来なくて困っている荘園領主と守護が契約し、確実に年貢を取ってやる代わりに現地支配権を獲得する。現地では、そこにいる→国人を代官にして、税を出せば土地支配を自由に認める。
室町の守護は土地に対しての権限を持っている。頼朝と同じ立場となったのである。このため、彼らは守護大名と呼ばれることになる。大名は大名主の意味であり、広い土地を持つ者のことである。(家臣を守護代に任命し、複数の国の領主として執政)
室町幕府の安定
①公家・武家・寺社をまたぐ政治権力を樹立
②確立過程
3代将軍足利義満(←義詮←尊氏)
京都室町の院の御所が焼失した後、ここに室町殿を建てる。
足利一門が守護として派遣され、おおむね国人を服属させるのに成功した。
義満は弱きを挫き、強きを助ける政治手法と、巧みに同族争いを誘発させることで守護大名を統制してゆく。👉義満うまいんだよ!
→有力守護大名の抑圧(将軍権威の確立目指す)
将軍 |
政治 |
戦乱 |
3代 義満 |
1367義満将軍就任 管領:細川頼之 後に斯波義将と対立し失脚 九州探題に今川了俊派遣 南朝勢力懷良親王らを没落させる ①室町幕府の政治機構確立 室町に花の御所造営 直属軍奉公衆整備
②1392南北朝の合一 南朝:後亀山天皇が 北朝:後小松天皇に譲位 ③1394 義満太政大臣就任 公家社会に君臨 |
南朝の懷良親王←今川了俊に敗れる
有力守護の排除 ⑴1390✖︎土岐康行の乱 ▶︎兄弟争いを挑発 ⑵1391✖︎明徳の乱 山名氏清VS足利義満 11カ国の守護:六分の一殿 ▶挑発し︎同族争いを仕掛ける |
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⑶1399✖︎応永の乱 外交権の独占を目指す義満と対立 大内義弘を討つ 長門、周防だけは残す(国人対策) |
室町幕府の構造
①基本法令…御成敗式目(貞永式目)
②室町幕府の性格
ア 公武融合
義満が築き上げた天皇・将軍の上に君臨する最高支配者としての地位とそのもとでの政務は、義満没後は継承されず、武家と公家が一体化しつつも役割を分担するという体制へ移る。
イ 将軍と有力守護の連合政権
⒜ 将軍(行政の最高責任者)cf)直属軍=奉公衆
直轄軍の奉公衆を充実させる。地頭は将軍に直接本領安堵を願い、将軍直属軍の奉公衆を形成した。奉公衆は3000騎。大守護が京都に置いている兵力は300騎くらいなので、将軍は大守護を圧倒できる。
⒝管領(←執事、将軍の補佐、斯波、細川、畠山氏が就任=三管領)
⒞侍所(京都の警備、長官(所司)山名、赤松、一色、京極氏就任 侍所の長官👉鎌倉幕府では別当、室町は所司
➡四職という。
⒟ 守護 (国ごとに任命=在京が一般的→任国には守護代を派遣)
政所、問注所
・政所は財政を管轄、問注所は記録の保管や詐欺などの訴訟を担当。
ウ 地方機関の強い独立性
鎌倉府(鎌倉公方=基氏(尊氏次男)の一族世襲、補佐=関東管領上杉氏)
鎌倉府の下には政所、侍所、問注所、評定衆を置き、関東幕府の色彩を帯びていた。
管轄は関東8カ国、伊豆、甲斐、陸奥、出羽の12カ国(陸奥と出羽は応永の頃のみ)。
奥州探題・羽州探題
九州探題
尊氏が九州に逃げたとき、一色氏を置いたのが始まり。九州は南朝勢力が強く、途中
までは苦戦し、九州に入れなかった九州探題もいる。今川了俊の時に九州を制圧。
③経済基盤の弱さ→貨幣収入に依存する割合高し
ア御料所(直轄地)少ない cf)200カ所
イ メリット➡京都制圧、都市特有の税収図る
⒜土倉役・酒屋役(営業税)
土倉は質屋で、倉庫に質物を保管した。酒屋は酒造の儲けで高利貸しをしていた。年6~7割の利息を取るもの。幕府はこの高利を取る営業を保証してやる代わりに財源とした。1399年には確立。さらに財源不足を補うために日明貿易を考える。
⒝関銭・津料(通行税)
京都には大量の物資が入り、人も入ってきたため、関銭や津料も有効だった。
⒞各種課税=段銭(土地税)、棟別銭(家屋税)、
段銭は土地の反別に応じて掛けた臨時税。即位、内裏造営、将軍就任などを名目に掛け、守護に徴収させた。棟別銭は反別ではなく家屋数に応じて掛けた同種のもの。
⒟京都五山からの物資・銭貨の献上や借銭