桓武天皇
光仁天皇と渡来系氏族の血を引く高野新笠の子である。👉早稲田法2016高野新笠を漢字で書かせる問題が出た!
長岡京は桓武天皇によって造営開始。長岡京造営の建議をし、造営の中心となったのが藤原種継【式家】であったこと、種継が暗殺されて➡早良親王が退けられたこと、和気清麻呂の建議により平安京が開かれたことが出た。長岡京遷都が784年、10年後平安京遷都794年
①寺社の権力を嫌った
②水陸交通の便を求めた
③天皇権力の強化を求めた
教科書の平安京図を見ながら、朱雀大路が中央に東西に市がある。
羅城門を挟んで東西に二寺があり、鴻臚館が東西にあり渤海使の接待に使われた。
794年、和気清麻呂の提案で山城国葛野郡の地に遷都し、平安楽土の地として平安京と名づけられた。
遷都にともなって山背を山城と改めた。平安は400年長いなーが実感。
桓武天皇
光仁天皇と渡来系氏族の血を引く高野新笠の子である。
長岡京は桓武天皇によって造営開始。長岡京造営の建議をし、造営の中心となったのが藤原種継【式家】であったこと、種継が暗殺されて➡早良親王が退けられたこと、和気清麻呂の建議により平安京が開かれたことが出た。長岡京遷都➡78410年後平安遷都
平安遷都の意義
①寺社の権力を嫌った
②水陸交通の便を求めた
③天皇権力の強化を求めた
教科書の平安京図を見ながら
羅城門を挟んで東西に二寺があり、鴻臚館が東西にあり渤海使の接待に使われた。
794年、和気清麻呂の提案で山城国葛野郡の地に遷都し、平安楽土の地として平安京と名づけられた。
蝦夷征討
780年陸奥国蝦夷の族長
伊治呰麻呂の反乱によって、多賀城が奪い取られる。
789年、征東大使の➡紀古佐美が東北に派遣、蝦夷の族長
➡阿弖流為これを撃退。
797年桓武天皇の命で坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、蝦夷の族長阿弖流為を降伏させた。
蝦夷は帰順すると俘囚になる。
802年胆沢城を築き鎮守府を多賀城からここに写した。さらに803年には北上川上流に志波城を建設した。平安期最後の征夷大将軍は文室綿麻呂であり、彼が最後の城柵徳丹城を築いた。
蝦夷征討
「7世紀から8世紀にかけて、古代大和朝廷は東北の「まつろわぬ民」を制圧するために何度にもわたって、蝦夷に攻撃をしかけていた。東北に「道奥国」の名がつけられたのが斉明天皇の659年で、しれが天武天皇676年までに「陸奥国」になった。これが「みちのく」の発生だ。
ついで「大宝律令」「養老律令」が制定されると、8世紀には鎮守将軍や按察使などが派遣されるようになった。このとき東北は律令の用語でいう「化外」「蕃族」とされた。大和朝廷が辺境の東北経営に乗り出したわけである。」『日本』とにっぽん 松岡正剛著
780年陸奥国蝦夷の族長伊治呰麻呂の反乱によって、多賀城が奪い取られる。
789年、征東大使の➡紀古佐美が東北に派遣、蝦夷の族長➡阿弖流為(阿弖流為は反逆者なのか!リンク貼りました)これを撃退。
797年桓武天皇の命で坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、蝦夷の族長阿弖流為を降伏させた。
蝦夷は帰順すると俘囚になる。
802年胆沢城を築き鎮守府を多賀城からここに写した。さらに803年には北上川上流に志波城を建設した。平安期最後の征夷大将軍は文室綿麻呂であり、彼が最後の城柵徳丹城を築いた。
徳政論争
二大事業【蝦夷征討・平安京造営】の停止を建議した藤原緒嗣は式家出身。
論争に敗れた菅野真道は【続日本紀】の編著者でもある。史料が出たら【軍事】と【造作】が蝦夷征討と平安京造営とわかれば十分。
平安時代の政治改革
健児
漢字で書けるのは当たり前、郡司の子弟や有力農民の志願者を採用し軍団と兵士を廃止した。東北と九州が除かれている点が出題される。
勘解由使 漢字で書いてみよう➡
薬子の変
平城太上天皇の変とも呼ぶ。ハット驚く薬子ちゃんで810年。内容は平城太上天皇が平城京に移って再遷都を狙い嵯峨天皇と対立【二所朝廷】。天皇方は挙兵して鎮圧。これにより藤原式家が衰退していく。薬子の兄仲成も記憶したい。
蔵人頭
任命されたのが、嵯峨天皇の信頼を得た藤原冬嗣。教科書で、らが任命されたとあるが、巨勢野足である。
入試に出る令外官(平安時代)
・征夷大将軍蝦夷征討のための臨時の将軍
・勘解由使 国司交代の際の事務引継文書(これを解由状といい、後任者が前任者に発給)を審査し、不正や争いを防止した。
・蔵人頭天皇に近侍し、詔勅・宣司・機密事務を扱った。その役所が蔵人所で長官が蔵人頭。
・検非違使主として京都の治安維持。
・摂政天皇幼少時・女帝時に補佐役として
・押領使地方に置かれ暴徒の鎮圧にあたった。
・関白天皇の補佐として、天皇より先に奏上を一覧した。藤原基経が皇族以外で初めて就任。
・追捕使地方に置かれ暴徒の鎮圧にあたった。
検非違使
三代格式
格は律令規定の補足・修正、式は施行細則。
格式名 |
天皇名 |
特徴 |
弘仁 格式 |
嵯峨 |
藤原冬嗣らが編集 |
貞観 格式 |
清和 |
清和天皇の命で編集→藤原氏宗 |
延喜 格式 |
醍醐 |
醍醐天皇の命で藤原時平らが編集 |
三代格式の格のみを編集したものが『類聚三代格』と式では『延喜式』がある。
注釈書のポイント
また9世紀に編纂された、養老令の官撰注釈書である「令義解」と、私撰注釈書である「令集解」も基本。令義解を編纂した清原夏野は、実は810年に任命された蔵人の一人だった。令集解の編者惟宗直本(これむねのなおもと)は難問。
地方と貴族社会の変貌 63〜64
偽籍
この実態を伝えるものとして阿波国・周防国の戸籍が現存している。
桓武
班田収授法 6年1班から➡12年1班へ。雑徭期間60日→30日。
公出挙利率5割→3割で決まり。
直営方式がよく出る。
823年公営田を設置→太宰府で絶対。879年官田を設置→畿内で。
中央の各官庁も→諸司田を設置した。
平安時代初期、天皇家の財源として勅旨田と呼ばれる田地が設置された。
皇族にも天皇から賜田が与えられた。
天皇と親近な関係にある少数の皇族や貴族は院宮王臣家と呼ばれて私的に多くの土地を集積し、国家財政を圧迫した。
唐風文化と平安仏教
平安遷都から9世紀末頃までの文化を弘仁・貞観文化という。貴族を中心に唐風の文化が発展し、国家の隆盛をめざす文章経国の思想が広まった。つまり、すぐれた漢詩をつくることは国家にとって後世に残る大事業だね。
勅撰漢詩集
凌雲集(嵯峨天皇時代)
文華秀麗集(嵯峨天皇時代)
経国集(淳和天皇時代)
日本霊異記
景戒著、現存する日本最古の仏教説話集である。
類聚国史
菅原道真 編纂により六国史を分類編纂したもの。道真の著作としては『菅家文草』がある。
性霊集
空海の著作・空海の詩・書簡などから編まれ、空海の人となりや、9世紀の仏教を知る上で貴重な書物。綜芸種智院…空海の設立 庶民教育 仏教・道教も教える。
空海の著作頻出。能筆を示す書簡の『風信帖』。性霊集は、空海の著作・空海の詩・書簡などから編まれ、空海の人となりや、9世紀の仏教を知る上で貴重な書物。漢詩論である『文鏡秘府論』で完璧といきたい。
大学別曹…大学で学ぶ子弟ための施設 寄宿舎・書籍など
✩大学別曹は全て覚えないとダメ!
ex.弘文院(和気氏)、勧学院(藤原氏)、学館院(橘氏)、奨学院 (在原氏・皇族)➾勧学院は藤原冬嗣が子弟の勉学に便宜を図るために設けた。
貴族の出世は、漢詩や中国に関する知識に左右されたのだ。従来、官僚には律令法の背景となった儒教の知識が主に要求されたが、幅広い教養が求められたこの時期、紀伝道が大学の中心科目になり、律令の研究は明経道である。
■新しい宗教
2つの新仏教 (1)入唐僧による輸入・発展 (2)中心は 鎮護国家+個人救済
特色 (3)密教色が濃い
(4)山岳仏教的要素
大日如来の重視 加持祈禱の儀式(手で印を結び呪文を唱える)
◉現世利益(病気平癒、立身出世など)をかなえる
➡即身成仏(現世で仏になる)ことも可能
○天台宗=最澄(伝教大師):近江出身 入唐804~805.➥著書 『顕戒論』(南都の批判)『山家学生式』他
桓武の保護 →比叡山に 延暦寺を開く
『法華経』の重視 南都と対立 万人の平等な救済を主張
→比叡山に大乗戒壇を要求
山門派…円仁を祖 延暦寺
密教化→のち分裂 慈覚大師 入唐838~847. 『入唐求法巡礼行記』
「台密」 寺門派…円珍を祖 園城寺(三井寺)
智証大師 入唐 853~858.
○真言宗 空海( 弘法大師):讃岐出身 入唐804~806
➥著書 『三教指帰』『十住心論』他
➡儒教・仏教・道教の優越を比較した著作
➥嵯峨天皇の保護→東寺(教王護国寺)・ 高野山金剛峯寺を開く
本格的な密教を伝える(「東密」)…大日如来の真実の言葉の呪力で即身成仏 文筆家 社会事業にも貢献例…満濃池 [讃岐]
修験道
密教と山岳信仰が結びついて修験道がおこった、
役行者役小角が祖である。
密教芸術
女人高野と呼ばれた室生寺は山岳寺院に特有の伽藍配置になっている。寺院では、霊場や修行場は修行の妨げになるとして女性の立ち入りを禁じた。室生寺は女性の参詣や修行を認めたので「女人高野」と呼ばれるようになった。
仏像
制作形式の一木造は山岳修行と関係深い。衣文の形式翻波式(ひだを細かく彫る)等を特徴として記憶せよ。薬師寺鎮守休丘八幡宮の神体僧形八幡神像はよく出る。日本の神様が坊主頭にされた挙げ句にお寺のガードマンにされてしまったのだ。
観心寺如意輪観音像も出る。
絵画
園城寺不動明王像【黄不動】や神護寺の『両界曼荼羅』が著名である。空海が唐から持ち帰ったものを模写したといわれる。曼荼羅とは大日如来を中心とする仏の宇宙観を形に表したもの。
三筆
唐風の能書家として知られる空海は嵯峨天皇、橘逸勢とともに三筆と称されている。空海が最澄に宛てた、「風信雲書」という書き出しで始まる手紙は、『風信帖』と呼ばれている。