3 邪馬台国への道 2017


ダウンロード
2017VER
3 小国の分立 .pdf
PDFファイル 554.8 KB

ダウンロード
3 小国の分立 生徒用.pdf
PDFファイル 511.8 KB

     弥生時代は、農業そのものが人々の集団化をうながした のに加えて、用水の確保や蓄積された余剰生産物の獲得をめぐる争いが激化し、ほどなく戦争の時代へと突入した。

この時代、戦争の過程で小国(「 クニ 」)が形成され、そのなかからより大きな政治的統合が生まれようとしたことは、中国の歴史書に記されている。

 

POINT

1 東アジア情勢

 冊封体制中国皇帝が、朝貢してきた周辺諸国の王に称号などを与えること(冊封)によって形成される国際秩序のこと。弥生時代の王も中国皇帝に使者を派遣していた。

論点

漢書」地理1世紀の日本史料

 倭は百余国の小国に分立

 朝鮮半島の楽浪郡へ定期的に遣使

☶史料研究1

漢書地理 

それ①楽浪海中に倭人あり。分れて百余国となる。歳時をもって来り献見すという。空欄補充

著者(班固キーワードは、漢書が楽浪、魏志が帯方!

紀元前108年=帝が楽浪郡設置〔現在の平壌(ピョンヤン)付近〕

Q1.02史料の出典は何か(新潟大) 漢書地理志

Q2.この史料は( )世紀の日本の様子を述べたものか(関西大)  紀元前1世紀

Q3.史料の著者は誰か(上智) 班固

Q4.下線部①を設置した中国王朝名とその皇帝は誰か(早稲田) 前漢・武帝

 
②『後漢書東夷伝12世紀の日本 著者氾皣史料

 57年…倭の奴国が後漢の光武帝から印綬を授かる 印綬1784福岡県志賀島から発見漢委奴国王の印

 107年…倭国王、帥升が生口160人を後漢に献上

史料研究

後漢書』東夷伝 

建武中元2年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人みずから大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬をもってす。

 安帝の永初元年、倭の国王帥升ら、生口160人を献じ、請見を願う。

桓霊の間倭国大いに乱れ、更々相攻伐して歴年主なし。

☶史料研2

Q1.この史料の出典は(後漢書東夷伝)である。北大 

Q2.建武中元二年は、西暦(57)年である。 中央

Q3.「印綬」の「綬」とは、(組み紐)のことである。 同志社

Q4.「安帝の永初元年」は西暦(107)年である。 早稲田

Q5.「桓霊の間」とは(2)世紀(前半・後半)のことである。 上智

魏志倭人伝著者:晋の陳寿 「三国志」の一部

邪馬台国を中心に30余国の連合体

女王卑弥呼鬼道(呪術)・男弟が補佐シャーマン的君主結婚していない、巫女だから

 景初3239年…鬼道通じ魏の都洛陽へ遣使➥「親魏倭王の称号、金印紫綬。

 卑弥呼の死国中混乱卑弥呼の宗女壱与が王へ

3世紀、日本には邪馬台国を中心とする30あまりの小国連合が形成されていた。

👉鬼道がキーワード。卑弥呼を立てて(ようやく戦乱はおさまり)、魏に使いを送ったことが重要。

👉「クニ」がいくつかあった。それは氏族の連合したようなものととらえられる。その中で一番大きいのが邪馬台国。

受験の極意

南北朝時代の晋の陳寿が編纂。成立が後漢書より古い。邪馬台国論争で位置が取りざたされているが、入試には位置問題はそれほど出ない。対立する国→狗奴国、一大率を置いた国→伊都国など周辺の国こそ注意。魏の都→洛陽・親魏倭王の称号を卑弥呼に与えた皇帝→明帝らを記憶したうえで史料中の穴埋めを確認しよう。

 

一支国…現在の隠岐、弥生時代の原の辻遺跡は「一支国」の中心にあたる。

伊都国…外交の拠点ともなった重要な国。「一大率」もこの国に常駐した。

大倭国々の「市」に置かれた監督官の名称。

一大率「女王国(邪馬台国)より以北」を監視するためにおかれた官名。

狗奴国…邪馬台国と戦争状態にあった男王の支配する国。卑弥呼はその戦争の状態を魏に報告し、激励されている。

魏志 』倭人伝

倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。…旧百余国、漢の時朝見する者有り。

今使訳通ずる所三十国より倭に至るには海岸に循って水行し韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、

その北岸狗邪韓國に至る七千余里。・・・・始めて一海を度る千余里対馬国に至る。・・・・・・南、邪馬台国に至る。女王の都する所なり。

 

其の国、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼といふ。鬼道に事え、能く衆を惑はす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて国を治む……」

 

景初二年六月、倭の女王大夫難升米等を遣はし、に詣り、天子に詣りて朝献せむことを求む。・・・詔書して倭の女王に報じて曰く、「……今汝を以て【親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮授せしむ。……」


受験の極意1

南北朝時代の晋の陳寿が編纂。成立が後漢書より古い。邪馬台国論争で位置が取りざたされているが、入試には位置問題はそれほど出ない。対立する国→狗奴国、一大率を置いた国→伊都国など周辺の国こそ注意。魏の都→洛陽・親魏倭王の称号を卑弥呼に与えた皇帝→明帝らを記憶したうえで史料中の穴埋めを確認しよう。

 

一支国…現在の隠岐、弥生時代の原の辻遺跡は「一支国」の中心にあたる。

伊都国…外交の拠点ともなった重要な国。「一大率」もこの国に常駐した。

大倭国々の「市」に置かれた監督官の名称。

一大率「女王国(邪馬台国)より以北」を監視するためにおかれた官名。

狗奴国…邪馬台国と戦争状態にあった男王の支配する国。卑弥呼はその戦争の状態を魏に報告し、激励されている。

受験の極意2


邪馬台国が資料問題で出たとき、「親魏倭王」は最も問われる用語である。銅鏡に関する「魏志」倭人伝の叙述は、教科書にも史料集にもあまり載らないが、入試では非常に重要で出題例が多い。この銅鏡が、(三角縁神獣鏡)ではないかということ。その鏡と思われるもの【景初三年銘のもの】が島根県雲南市(神原神社)古墳【加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡に近い】から出土していることが出ている。

 奈良県桜井市にある纒向遺跡は、関東から九州にまでの土器が集まる都市的大規模集落で、卑弥呼の墓ではないかとの説もある箸墓古墳にも近いことから、ここが邪馬台国の中心地ではないかとの説もある。官名大倭一大率が出る。租税制度があり、身分の差があったことも要注意です。

壱与…壱与は、に代わったの都洛陽に、266年に使者を送ったといわれるが肝心。

■邪馬台国論争

 名称=倭人伝では「邪馬壹(壱)国」 萱(台)の誤字とみるのが通説

 位置 ➡次ページ図参照

 畿内説3世紀すでに畿内政権の勢力が西日本に及ぶ

 

 九州説3世紀、まだ畿内と九州は別勢力。連合の一国、伊都国に一大率という機関?を置いて諸国を監察していた。

 

☶史料研究


…租税を徴収し、それを納める倉庫がある。国々に市があってそこで交易を行い、大倭(官名)にこれを監督させている。

 女王国から北には、特に一大率(官名)を置き、諸国を検索させている。諸国はこれを畏れはばかっている。…

 下戸が大人と道路ですれ違うと、しりごみしながら草むらへ入り、話をする場合は、うずくまったり跪いたりし、両手を地につけ、恭順の態度を示す。

壱与【壹与】は、()に代わった()の都(洛陽)に、266年、使者を送ったといわれるが、このことが比較的出る。

 

魏志倭人伝

ac.其の法を犯すや軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸及び宗族を滅す。尊卑各々差序あり。・・・・・租賦を収むるに邸閣あり。国々に市あり、有無を交易し、大倭をして之を監せしむ。

d.女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。常に伊都国に治す。諸国之を畏憚す。・・・・・・・・

下戸、⑤大人道路に相逢へば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲りあるいは跪き、両手地に拠り之が恭敬をなす。