弥生時代は、農業そのものが人々の集団化をうながした のに加えて、用水の確保や蓄積された余剰生産物の獲得をめぐる争いが激化し、ほどなく戦争の時代へと突入した。
この時代、戦争の過程で小国(「 クニ 」)が形成され、そのなかからより大きな政治的統合が生まれようとしたことは、中国の歴史書に記されている。
POINT
1 東アジア情勢
冊封体制➡中国皇帝が、朝貢してきた周辺諸国の王に称号などを与えること(冊封)によって形成される国際秩序のこと。弥生時代の王も中国皇帝に使者を派遣していた。
論点
ⓐ倭は百余国の小国に分立
ⓑ朝鮮半島の楽浪郡へ定期的に遣使
☶史料研究1
『漢書』地理志
それ①楽浪海中に倭人あり。分れて百余国となる。歳時をもって来り献見すという。空欄補充
著者(班固)☈キーワードは、漢書が楽浪、魏志が帯方!
紀元前108年=武帝が楽浪郡設置〔現在の平壌(ピョンヤン)付近〕
Q1.02史料の出典は何か(新潟大) 漢書地理志
Q2.この史料は( )世紀の日本の様子を述べたものか(関西大) 紀元前1世紀
Q3.史料の著者は誰か(上智) 班固
Q4.下線部①を設置した中国王朝名とその皇帝は誰か(早稲田) 前漢・武帝
②『後漢書』東夷伝1~2世紀の日本 著者➡氾皣☛史料
ⓐ57年…倭の奴国が後漢の光武帝から印綬を授かる 印綬=1784➡福岡県志賀島から発見(漢委奴国王)の印
ⓑ107年…倭国王、帥升が生口160人を後漢に献上
史料研究
『後漢書』東夷伝
建武中元2年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人みずから大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬をもってす。
安帝の永初元年、倭の国王帥升ら、生口160人を献じ、請見を願う。
桓霊の間、倭国大いに乱れ、更々相攻伐して歴年主なし。
☶史料研究2
Q1.この史料の出典は(後漢書東夷伝)である。北大
Q2.建武中元二年は、西暦(57)年である。 中央
Q3.「印綬」の「綬」とは、(組み紐)のことである。 同志社
Q4.「安帝の永初元年」は西暦(107)年である。 早稲田
Q5.「桓霊の間」とは(2)世紀(前半・後半)のことである。 上智
③『魏志』倭人伝➡著者:晋の陳寿 「三国志」の一部
ⓐ邪馬台国を中心に30余国の連合体
ⓑ女王卑弥呼➡鬼道(呪術)・男弟が補佐シャーマン的君主結婚していない、巫女だから
ⓒ景初3(239)年…鬼道を通じ➡魏の都洛陽へ遣使➥「親魏倭王」の称号、金印紫綬。
ⓓ卑弥呼の死➡国中混乱➡卑弥呼の宗女壱与が王へ
3世紀、日本には邪馬台国を中心とする30あまりの小国連合が形成されていた。
👉鬼道がキーワード。卑弥呼を立てて(ようやく戦乱はおさまり)、魏に使いを送ったことが重要。
👉「クニ」がいくつかあった。それは氏族の連合したようなものととらえられる。その中で一番大きいのが邪馬台国。
受験の極意
南北朝時代の晋の陳寿が編纂。成立が後漢書より古い。邪馬台国論争で位置が取りざたされているが、入試には位置問題はそれほど出ない。対立する国→狗奴国、一大率を置いた国→伊都国など周辺の国こそ注意。魏の都→洛陽・親魏倭王の称号を卑弥呼に与えた皇帝→明帝らを記憶したうえで史料中の穴埋めを確認しよう。
一支国…現在の隠岐、弥生時代の原の辻遺跡は「一支国」の中心にあたる。
伊都国…外交の拠点ともなった重要な国。「一大率」もこの国に常駐した。
大倭…国々の「市」に置かれた監督官の名称。
一大率…「女王国(邪馬台国)より以北」を監視するためにおかれた官名。
狗奴国…邪馬台国と戦争状態にあった男王の支配する国。卑弥呼はその戦争の状態を魏に報告し、激励されている。
『 魏志 』倭人伝
倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。…旧百余国、漢の時朝見する者有り。
今使訳通ずる所三十国。郡より倭に至るには海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、
その北岸狗邪韓國に至る七千余里。・・・・始めて一海を度る千余里、対馬国に至る。・・・・・・南、邪馬台国に至る。女王の都する所なり。
「其の国、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名を【卑弥呼】といふ。【鬼道】に事え、能く衆を惑はす。年已に長大なるも、夫婿なく、【男弟】あり、佐けて国を治む……」
「景初二年六月、倭の女王、大夫【難升米】等を遣はし、郡に詣り、天子に詣りて朝献せむことを求む。・・・詔書して倭の女王に報じて曰く、「……今汝を以て【親魏倭王】となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮授せしむ。……」
受験の極意1
南北朝時代の晋の陳寿が編纂。成立が後漢書より古い。邪馬台国論争で位置が取りざたされているが、入試には位置問題はそれほど出ない。対立する国→狗奴国、一大率を置いた国→伊都国など周辺の国こそ注意。魏の都→洛陽・親魏倭王の称号を卑弥呼に与えた皇帝→明帝らを記憶したうえで史料中の穴埋めを確認しよう。
一支国…現在の隠岐、弥生時代の原の辻遺跡は「一支国」の中心にあたる。
伊都国…外交の拠点ともなった重要な国。「一大率」もこの国に常駐した。
大倭…国々の「市」に置かれた監督官の名称。
一大率…「女王国(邪馬台国)より以北」を監視するためにおかれた官名。
狗奴国…邪馬台国と戦争状態にあった男王の支配する国。卑弥呼はその戦争の状態を魏に報告し、激励されている。
受験の極意2
邪馬台国が資料問題で出たとき、「親魏倭王」は最も問われる用語である。銅鏡に関する「魏志」倭人伝の叙述は、教科書にも史料集にもあまり載らないが、入試では非常に重要で出題例が多い。この銅鏡が、(三角縁神獣鏡)ではないかということ。その鏡と思われるもの【景初三年銘のもの】が島根県雲南市(神原神社)古墳【加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡に近い】から出土していることが出ている。
奈良県桜井市にある纒向遺跡は、関東から九州にまでの土器が集まる都市的大規模集落で、卑弥呼の墓ではないかとの説もある箸墓古墳にも近いことから、ここが邪馬台国の中心地ではないかとの説もある。官名大倭と一大率が出る。租税制度があり、身分の差があったことも要注意です。
壱与…壱与は、魏に代わった晋の都洛陽に、266年に使者を送ったといわれるが肝心。
■邪馬台国論争
名称=倭人伝では「邪馬壹(壱)国」 萱(台)の誤字とみるのが通説
位置 ➡次ページ図参照
畿内説➡3世紀すでに畿内政権の勢力が西日本に及ぶ
九州説➡3世紀、まだ畿内と九州は別勢力。連合の一国、伊都国に一大率という機関?を置いて諸国を監察していた。
☶史料研究
…租税を徴収し、それを納める倉庫がある。国々に市があってそこで交易を行い、大倭(官名)にこれを監督させている。
女王国から北には、特に一大率(官名)を置き、諸国を検索させている。諸国はこれを畏れはばかっている。…
下戸が大人と道路ですれ違うと、しりごみしながら草むらへ入り、話をする場合は、うずくまったり跪いたりし、両手を地につけ、恭順の態度を示す。
壱与【壹与】は、(魏)に代わった(晋)の都(洛陽)に、266年、使者を送ったといわれるが、このことが比較的出る。
魏志倭人伝
ac.其の法を犯すや軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸及び宗族を滅す。尊卑各々差序あり。・・・・・租賦を収むるに邸閣あり。国々に市あり、有無を交易し、大倭をして之を監せしむ。
d.女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。常に伊都国に治す。諸国之を畏憚す。・・・・・・・・
④下戸、⑤大人と道路に相逢へば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲りあるいは跪き、両手地に拠り之が恭敬をなす。