⑴古墳の出現とヤマト政権 古墳前期
➀前方後円墳…3世紀中頃から4世紀初頭になると、西日本各地に前方後円墳を中心とする巨大な古墳が出現してきます。各地の首長たちは共通の墓制で結ばれつつあったのです。この時期の古墳の中で最大の規模をもつのが、奈良県の箸墓古墳である。この時期には近畿地方を中心とする広域な政治連合=ヤマト政権が形成されていたといえよう。
②埴輪…特殊器台(弥生時代後期吉備地方で有力な首長墓に供えられた特殊壺を載せるもの)に起源をもつ。センターで出た難問の一つ。要チェック24㌻。
⑵前期・中期の古墳
①副葬品…前期の三角縁神獣鏡等銅鏡や腕輪型石製品等の多い副葬品が、中期の鉄製武器・武具の占める割合が高くなり、馬具等も加わるという変化は、被葬者の司祭射的性格から武人的性格へと変化を示す。
⑶前期古墳〜後期古墳の差異
古墳時代は前期・中期・後期の区別を整理することがカギ!
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前期 |
3C末~4C |
各地に 【前方後円墳】 |
【竪穴式石室】 副葬品 鏡・玉 被葬者:【司祭者的】性格 |
箸墓古墳(奈良)…前期最大273m 最古の前方後円墳 卑弥呼の墓? |
中期 |
4C末~5C |
各地に 【前方後円墳】 |
【竪穴式石室】 副葬品:武具【馬具】 被葬者:【武人的】性格 |
【大仙陵古墳】 【誉田御廟山古墳】(大阪) 【作山古墳】(岡山) |
後期 |
6C~ |
【群集墳】 後期→群集墳 |
【横穴式石室】 (玄室・羨道) 藤ノ木古墳 副葬品: 【土師器・須恵器】 |
新沢千塚(奈良) 岩橋千塚(和歌山) 吉見百穴(埼玉) |
終末 |
7C |
前方後円墳の消滅 【八角墳】 |
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論点①4世紀頃の中国情勢
中国は南北朝時代で混乱。4世紀とその前後150年のあいだ、中国の歴史書に倭の記述なし。周辺諸民族に対する中国の支配力は減退。東アジアの国々は次々に国家形成を進めた。
②4世紀頃の朝鮮半島
高句麗が朝鮮半島北部に領土拡大→313年楽浪郡を滅ぼした。一方、朝鮮半島南部ではそれぞれ小国の連合である馬韓・弁韓・辰韓が形成されていたが、4世紀馬韓から百済が、辰韓から新羅が生まれた。
ア 石上神宮七支刀
百済は高句麗の南下を受けて倭国と同盟を結ぶ。そのとき百済から倭国に贈られたのが、
石上神宮所蔵の七支刀。
イ 高句麗好太王碑…朝鮮半島へ軍事侵攻➡高句麗と交戦(4世紀末~5世紀初)
⒜百済と連合・高句麗と交戦した記録が残されている。
(391・好太王碑の碑文)
高句麗は南下政策をとり、倭(ヤマト政権)は半島南部の鉄資源の確保を狙った。
⒝半島南部の加耶諸国と密接な関係を形成
③中国南朝への朝貢 (『宋書倭国伝』)…5世紀
ア 倭の五王…(讃・珍・済・興・武)が中国南朝に朝貢
☶史料研究5 「高句麗好太王碑文」
百残(=百済)というフレーズは好太王独特。百済は高句麗にとっての敵、「残」という悪い表記になった。
Q1.この史料の出典は★★★である。(上智)高句麗好太王碑文
Q2.「辛卯の年」は、西暦★★★である。(立命館)391
Q3.「王」とは★★★の王である。(早稲田)高句麗
高句麗と交戦したのは倭国であることに注意しよう。
➡子の長寿王が都だった丸都城に建立(現在、中国吉林省集安市)
【興】死して弟【武】立ち、自ら使持節都督倭・【百済】・新羅・【任那】・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、【安東大将軍】倭国王と称す。
[順帝]の昇明二年、使を遣わして表を上る。「封国は偏遠にして、藩を外になす。昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉して寧処に遑あらず。東は[毛人]を征すること五十五国、西は[衆夷]を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。・・」と。詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に除す。
史料の内容に関わる問題、「ワカタケル大王」時代が古代国家形成過程でもつ意味が東大で出題された。「武」の名「ワカタケル」が「稲荷山古墳鉄剣」と「江田船山古墳鉄刀」の銘文に出てくることと関連した問題が多い。「安東大将軍」という称号も注意。
POINT
①倭王武➡『宋書』の記述
②ワカタケル大王 武の名「ワカタケル」が「稲荷山古墳鉄剣」(埼玉県)と
「江田船山古墳鉄刀」の銘文に出てくる。「ワカタケル大王」時代が古代国家形成過程でもつ意味が東大で出題された。
③倭国王は、「安東大将軍」と倭王上表文で自称している。
史料研究 倭王武の上表文
【興】死して弟【武】立ち、自ら使持節都督倭・【百済】・新羅・【任那】・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、【安東大将軍】倭国王と称す。
[順帝]の昇明二年、使を遣わして表を上る。「封国は偏遠にして、藩を外になす。昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉して寧処に遑あらず。
東は[毛人]を征すること五十五国、西は[衆夷]を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。・・」と。詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に除す。
発展
これは、ヤマト政権の王が、 中国皇帝の権威を借りて、朝鮮諸国に対する政治的優位を確保する とともに、この地域の鉄資源を確保することを目的としたと考えられる。また、国内的には、その支配が九州から関東に及んで統治権者としての大王の地位が確立し、朝貢の目的の一端が達成された。しかし、百済への軍事指揮権など半島南部における優越的地位はついに認められず、使節の派遣は打ち切られることになる。
4 氏姓制度
5世紀後半ヤマト政権の支配は、九州から関東地方にまで及ぶようになり、氏姓制度と呼ばれる支配体制がつくりあげられていった。「氏」とはヤマト政権を構成する豪族のことをいい、ヤマト政権が大王を中心とする諸豪族の連合体だったことを示している。
一方、「姓」の氏に与えられた称号で➡臣(近畿の葛城・平群・蘇我氏などの地名を氏とした有力豪族)で、(大伴・物部等の職掌を氏とした有力豪族には)➡連が(祭祀を司る【中臣氏】が連だったことが出た)、地方の有力豪族には➡君が授与された。
POINT
①大王 ヤマト政権の首長。7世紀後半ごろに天皇号が用いられはじめたと考えられる。
②大臣・大連 臣・連の最高実力者が大臣・大連に任じられ、国政を担当した。
③伴造 伴造は、品部(韓鍛冶部・陶作部など専門的技術で朝廷に奉仕する集団)などを統率して朝廷(大王を中心とする政府)内の職務を分担した。
④国造・県主 国造・県主はいずれも、ヤマト政権の地方官をいう。
5 ヤマト政権による土地支配
各豪族の農業経営の私有地を田荘、各豪族の私有民を➡部曲といい、大王家の直轄地は➡屯倉、その耕作者は➡田部と呼ばれていた。さらに大王家は、服属した地方豪族の支配する私有民の一部を➡名代・子代の部という直轄民として組織し、大王家を維持するための労働に従事させた。また、諸豪族は奴隷的な人々も所有し、彼らは
➡ヤツコ(奴婢)と呼ばれた。
6 ヤマト政権の動向
6世紀、ヤマト政権は地方支配の拡大を進展させる一方で、深刻な危機・混乱にも直面した。① 朝鮮半島からの撤退 があげられる。ヤマト政権が半島南部の 加耶諸国に保持していたと考えられる影響力は、百済・新羅の圧迫を受け、新羅が加耶諸国を併合した562年には完全に失われることになった。
②半島情勢に刺激されて 豪族間の対立・抗争が高まった。
POINT
①筑紫国磐井の乱 527年、九州北部の国造磐井が新羅と結んで反乱(磐井の乱)をおこしたが、ヤマト政権(物部の麤鹿火)によって鎮圧された。
②大伴氏の後退 朝鮮政策の失敗(加耶西部の地域に対する百済の支配権が確立した事態をさす)を非難された大連の大伴金村が、540年に失脚した。
③物部氏と蘇我氏の対立 公式伝来以前から司馬達等らの渡来人が信仰(仏教私伝)していとこと、公式伝来は聖明王が百済から欽明天皇へもたらされた。
また538年説の根拠が『上宮聖徳法王帝説』であり、もう一つが『元興寺縁起』
552年説、出典は日本書紀までわかれば完璧。仏教受け入れの賛成は➡蘇我稲目で反対は物部尾興で決まり。
7 大陸文化の受容
①渡来人文化 王仁 →西文氏の祖…論語を日本に伝えた。 阿知使主 →東漢氏の祖…医博士・暦博士 弓月君 →秦氏の祖先…秦河勝
② 儒教の伝来 五経博士 により医・易・暦がもたらされる。
8 古墳時代の人々の生活 頻出事項
農耕に関する祭祀… 祈年祭 ➡(豊作を祈る)、 新嘗祭 ➡(収穫を感謝)地域ごとに神々の祭祀が行われ、祭祀の共有を通じて共同体としてまとまりを確保していた。
神社 盲点になるので注意。社会常識でもあるね。
天照大神を祀る➡ 伊勢神宮 玄界灘の沖ノ島を神として祀る➡ 宗像大社の沖津宮
大国主命を祀る➡ 出雲大社 三輪山を御神体とする 大神神社
大和三山が天香久山・畝傍山・耳成山で三輪山は入っていない。
遺跡
黒井峯遺跡と三井寺遺跡が図版にある。特に三井寺遺
跡Ⅰは豪族が村落から離れた場所に環濠や柵列をめぐら
せた居館に住んでいた例として出る。立命館大出題。古墳
時代の集落は環濠が見られず、竪穴住居と平地住居が併存
していた。竪穴住居には カマド がともなうようになって
いた。