NO13 近代産業の発展
1 金本位制の確立
当時、国際社会では、金に対する銀貨の下落が進行(幕末には金1対銀15、1890年には金1対銀20だったのに対し、1897年には金1対銀34)していたため、日本が採用していた銀本位制は、円為替相場を下落させ(=円安)、輸出を促進(日本の輸出品が安いのでよく売れる)・輸入抑制というプラス効果を持っていた。
それでも金本位制を採用したのは何故か!
⑴ 国際的信用 …円の国際的信用
⑵ 貿易の安定 …銀本位制のままでは、金銀相場の変動により貿易が不均衡になる。
⑶ 輸入品価格 …銀本位制のままでは、金本位制諸国からの機械・鉄鋼・綿花などの
輸入が不利になる。
POINT
①金本位制の確立:1897年、第2次松方正義内閣時に、貨幣法を制定して金本位制
を確立した。
②正貨準備:日清戦争で得た賠償金(ポンド)をもとに、正貨準備とした。
③平価:平価とは、金本位制国の発行する銀行券と金との交換基準のこと。法定平価ともいう。日本は、 100円=金75g (=49.85ドル)とした。
日本はなぜ金本位制の確立をめざしたか,それをいかに達成したかについて,100字程度で説明しなさい。(1993慶応-経済)
NOTE 産業革命とは何か
産業革命とは,蒸気機関を採用した機械技術の普及を基礎として,資本主義的な生産様式が支配的になっていく過程のことである。
企業勃興
1886〜89鉄道や紡績を中心に会社設立ブーム。1890年恐慌で挫折。
貨幣法
1897年➡貨幣法を制定し、日清戦争で得た賠償金をもとに金本位制を確立。この時の内閣が松方正義内閣で大隈重信が外相だったことを記憶せよ。
特殊銀行…特定分野に資金を貸し出す
⦿横浜正金銀行…貿易業務➡現在の三菱UFJ銀行。後に多くの内閣で大蔵大臣を務めた高橋是清が頭取だったこともある。
⦿日本勧業銀行…産業界に貸付➡現在のみずほ銀行
⦿日本興業銀行…産業界に貸付➡現在の新生銀行
⦿台湾銀行…台湾での中央銀行の役割
海運業奨励策
1896年造船奨励法・航海奨励法公布。戦時の輸送力確保と平時の外貨節約をねらう。鉄鋼船の建造をと外国航路への就航に奨励金を交付。
海運業大手の(日本郵船会社)は1885年に
(三菱会社)と半官半民の(共同運輸会社)が合併して設立され、1893年に➡ボンベイ航路(綿花輸入のため)、1896年には➡ヨーロッパ➡アメリカ➡オーストラリアへの各航路を開いた。
紡績業
大阪紡績会社は、①1883年に渋沢栄一らにより設立、②政府の推奨する2000錘紡績は不振であったが、1万錘を超える大規模経営に成功、③イギリス製のミュール紡績機を使用④電灯を使って昼夜2交代制、⑤動力は蒸気力、等が特徴である。そうした反面ガラ紡による生産が衰退していった。
これを発明したのは臥雲辰致で第1回内国勧業博覧会で最高賞をとった。
センター問題で、大阪紡績会社は国産の紡績機を使用した。➡✖︎になるね。
⑤輸出産業化…原料綿花は(中国・インド・アメリカ)から主に輸入に依存しつつ、まず国内市場を掌握して(1890年に綿糸生産量>綿糸輸入量)
日清戦争後には輸出産業へと成長していった(1897年に綿糸輸出量>綿糸輸入量)。
⑥波及効果…日本が初めて参加したウィーン万国博覧会を機に、ジョン=ケイが発明した飛び杼が日本に普及し、一時は壊滅状態になった綿織物の問屋制家内工業が復活した。大阪紡績会社の成功によって輸入綿花を使った国産綿糸が主流となった。日露戦争後は輸入大型力織機も使用される反面、豊田佐吉が発明した国産力織機によって、小工場でも盛んになった。
綿糸輸入と輸出
左記の円グラフは重要。
1899年の輸出額1位=綿花、輸出額2位=綿糸の出題あり。
製糸業
繭から生糸を生産する産業
国産の繭を原料とする最大の外貨獲得産業。
外貨は、原料・機械・艦船の輸入資金となり、紡績業を中心とする産業革命の達成や重工業など未熟な産業部門の育成、軍備の充実をうながした。また国際収支の急激な悪化を抑制し、養蚕業の拡大・定着による農家収入の安定などにも寄与した。
政府も1872年に官営模範工場として富岡製糸場(群馬県、フランスの技術《ブリューナ》)を設けるなど生糸生産の拡大を図り、幕末以来、欧米向けの輸出産業として急速に発達。養蚕地帯のある長野・山梨県などに中小工場が次々に建設された。日露戦争後、アメリカ向けの生糸輸出がさらに伸長し、1909年輸出規模は最大となった。
鉄道業
1881年設立。華族の金禄公債を資金として設立された日本初の民営鉄道【私鉄】。
第1区線は、上野−熊谷間で開業、富岡製糸場が関係している。
東海道線全線開通
いや拍手!1889年憲法公布同じ年。民間の五大幹線会社は、日本鉄道、山陽鉄道、九州鉄道、関西鉄道、北海道炭礦鉄道である。
鉄道国有法
1906年、第1次西園寺公望内閣のときに公布。積極政策の立憲政友会のときに主要民営鉄道17社を国有化した。この法律の制定理由を説明させる問題が2006年東大で出た。
重工業の形成
長崎造船所➡(三菱)兵庫造船所➡(川崎)
深川セメント製造所➡(浅野)富岡製糸場➡(三井)
別子銅山はもともと住友の民営で払い下げではない。だから表にない。
財閥は(三井・三菱・住友)等の政商が銀行・商社・重工業等の分野に進出し、
コンツェルン形態で日本経済を独占的に支配するようになっていく。
304㌻注❷を見ると各財閥の持ち株会社名が出ている。
三井=(三井合名会社)三菱=(三菱合資会社)住友=(住友総本店)
安田=(安田保善社)
鉄鋼生産・工作機械
古来からの製鉄が(砂鉄)を原料とする、「もののけ姫」の(たたら吹き)【たたら製鉄】で、中心地は中国地方であると知っていると1880年代鉄鋼生産の中心道府県がわかる。1880年代➡島根、1890年代➡岩手、釜石があるからで、工部省による釜石高炉の近代化が挫折した後、1884年、田中長兵衛が木炭燃料の小型高炉で経営を軌道に乗せていった。
1900年代は、官営八幡製鉄所が、ドイツの技術を導入して筑豊炭田の石炭を燃料に操業を始め、福岡が1900年代以降の製鉄の中心になる。
その他、幕末の反射炉、1934年の日本製鉄会社設立、戦後の解体、1970年の合併で新日本製鉄の誕生。八幡製鉄所は、中国の(漢冶萍公司)【漢陽の製鉄所で➡大冶の鉄鋼山、➡萍郷の炭鉱を統合する会社である】に借款を与えた見返りに鉄鉱石を安価に入手した。筑豊炭田は(日清戦争)後に国内最大の採炭地となった。日本製鋼所、工作機械分野の池貝鉄鋼所についても出た。
農業と農民
商品作物生産
綿花・麻・菜種は輸入により衰えたが、生糸輸出の伸長を背景に➡養蚕と餌の➡桑栽培は伸びた。
寄生地主
意味が大事。地主が耕作から離れて小作料収入に依存し、それを企業経営に投下したり、公債や株式に投資するといったことが起こった。そうした一方、下層農民の小作人化がいっそう進んだ。
社会運動の発生 306〜308 足尾鉱毒事件
⦿足尾銅山鉱毒事件1891…
➡古河経営の足尾銅山から鉱毒が流出・流域の農業や漁業に被害、被害地:栃木県渡良瀬川流域 ㊟谷中村を流れる川は!(早稲田)田中正造が【立憲改進党】所属の衆議院議員だったことが早稲田で出た。
1900年には被害地の人々が警官隊と衝突
➥田中正造が明治天皇に直訴㊟直訴文を書いたのは誰幸徳秋水(早稲田05政経)で出題
政府の対応:遊水地建設による洪水対策のみ(谷中村の廃村・水没)㊟住民を北海道サロマベツ原野へ移住👉川俣事件も出た!
女工
高島炭鉱のルポ【1888】を松岡好一が雑誌『日本人』に書いた。
横山源之助の『日本之下層社会』【1899】
農商務省の『職工事情』【1903】 細井和喜蔵の『女工哀史』【1925】
ストライキについては1886年の雨宮製糸【山梨県】や1894年の天満紡績【大阪府】が著名である。
職工義友会
1890年(高野房太郎 + 片山潜)らがサンフランシスコで組織したのが始まり。アメリカで労働運動を体験した高野房太郎らが1897年➡労働組合期成会を結成した。この組織は『労働世界 』を刊行。労働組合期成会の指導のもと(鉄工組合)が結成されたり、日本鉄道会社の機関手を中心に結成された(日本鉄道矯正会)など男性熟練労働者の労働組合が誕生した。
治安警察法
1900年=治安警察法制定。この法律の実施によって労働組合期成会は弾圧され衰退していく。この法律に関しては、女性の政治運動を禁じた「左ニ掲クル者ハ政事上ノ結社ニ加入スルコトヲ得ス・・・・五条女子」ここから新婦人協会の運動へとつながることに注意。運動の主体が新婦人協会から(婦人参政権獲得期成同盟会)【p331】で、運動の結果、1922年に第5条が改正され、政治演説会への女性の参加が認められた。
幸徳秋水と大逆事件
1910年、天皇暗殺を企てたとして幸徳秋水ら26人の無政府主義者・社会主義者が逮捕・起訴された。翌年、全員が有罪とされ、幸徳秋水を含む12人が死刑となった。この事件の翌年、警視庁内に特別高等課が設置され、また事件の結果、多くの国民が社会主義思想を危険視するようになったため、社会主義者の活動は「冬の時代」となった。
ココアのひと匙 われは知るテロリストの かなしき心を 啄木
工場法
1911年、第2次桂太郎内閣時に制定。少年【最低年齢12歳】・女性の→ 12 時間労働制と深夜業禁止等が規定されたが、適用範囲は→ 15 人以上を使用する工場に限られ→製糸業では14時間労働、紡績業では深夜業も期限付きでも認められた。