明治の芸術
歌舞伎が民衆に親しまれた。(河竹黙阿弥)の脚本で新作が生まれた。
「団菊左時代」の出現で社会的地位が向上した。団菊左とは、9代目(市川団十郎)5代目(尾上菊五郎)初代(市川左団次)である。
【歌舞伎座】は、1889年(福地源一郎)が開設した。
新派劇は、オッペケペー節で名を馳せた(川上音二郎)らの壮士芝居【民権運動の壮士らによる素人が演じる芝居】が日清戦争前後から通俗小説の劇化を加えて発展したもの。
論述研究 自由民権と欧化主義批判 一橋大2014
次の史料は,「オッペケペ一節」の一節である(一部の表記を改めている)。これを読んで,下記の問いに答えなさい。(問1から問4まですべてで400字以内)
権利幸福きらいな人に 自由湯をば飲ましたい
オッペケペ オッペケペッポーペッポーポー
⒜堅い上下(かみしも)角とれて マンテルズボンに人力車 いきな束髪ボンネット
⒝貴女に紳士のいでたちで うわべの飾りはよいけれど 政治の思想が欠乏だ
天地の真理が解らない 心に自由の種を蒔け
オッペケペ オッペケペッポーペッポーポー
問1 「自由童子」とも名のり,「オッペケペ一節」を歌って大流行させた人物の氏名をあげなさい。川上音二郎。
問2 下線部⒜は,どのようなことを象徴的に表現していると考えられるか,具体的かつ簡潔に説明しなさい。
文明開化が進み,武士の服装が江戸時代以来の伝統的なものから洋装へと変化した
問3 下線部⒝は,当時のある政策への直接的な批判がこめられていると考えられるが,それは何を目的としたどのような政策か,説明しなさい。
3江戸幕府が欧米諸国と結んだ安政の五カ国条約は,欧米諸国に領事裁判権を認めるなど不平等な内容をもっていた。明治政府はそうした不平等条約の改正をめざし,1880年代には井上馨を責任者として交渉が進められた。井上は改正の重点を領事裁判権の撤廃におき,欧米にならった法典を編纂すること,外国人を被告とする裁判では外国人判事を採用すること,日本国内を外国人に開放することを条件とし,列国の代表をあつめて一括交渉を行った。そして,この交渉を有利に進めるため,欧米の外交官を接待するための社交場として鹿鳴館を建設し,舞踏会や夜会を頻繁に開く欧化政策をとった。
問4 「オッペケペ一節」を大流行させた人物の一座は,1900年のパリ万国博覧会をはじめとした欧米での公演によって,より広く知られるようになる。「壮士芝居」などとも称される,こうした演劇が登場してくる政治的な背景と意味について説明しなさい。また,あわせて演劇史上における意味についても説明しなさい。
4壮士芝居は自由民権運動の高まりを背景とし,民権思想を広める手段として登場した。日清戦争などの時事や小説を題材とする庶民演劇へ発展し,歌舞伎に対して新派劇と呼ばれた。
(総計400字)
しかし、アメリカ人(フェノロサ)と東京美術学校長となった(岡倉天心)の活躍によって日本の伝統美が再評価された【フェノロサは薬師寺東塔の(水煙)を高く評価したことでも知られる】。そこで活躍の場を得たのが、「悲母観音」を描いた
(狩野芳崖)と「龍虎図」の➡(橋本雅邦)である。その生徒が(菱田春草)で「黒き猫」などを描いている。以後、工部美術学校は閉鎖され、1887年に西洋美術を排除した(東京美術学校)が設立された。その他、「無我」の(横山大観)
「大原御幸」の(下村観山)らが出た。 その後、岡倉天心らが中心となって(日本美術院)が創設された。
西洋画の興隆
工部美術学校で西洋美術の導入が図られ、明治中期、フランスから帰国した(黒田清輝)が印象派の明るい画風をもたらし【外光派】、(白馬会)を組織した。黒田の代表的作品に「湖畔」がある。
文展
1907年から文部省は伝統美術と西洋美術の共栄をはかり、【文部省美術博覧会(文展)】を開設した【文部大臣:
牧野伸顕(大久保利通の孫)】。
彫刻
伝統的な木彫で作成した(高村光雲)の「老猿」とアメリカやフランスで学んだ(萩原守衛)の「坑夫」とが対立・競合しながら発達した。
建築
西洋建築が建てられるようになり、明治末期には鉄筋コンクリートを使用した建物も作られ始めた。東京・御茶ノ水のニコライ堂は【コンドル】、日本銀行本店は(辰野金吾)、赤坂離宮【現迎賓館】は(片山東熊)である。P316以外ではコンドルの(鹿鳴館)辰野金吾の(東京駅)、片山東熊の(京都国立博物館)等がある。
生活様式の近代化
明治初期のガス灯から1880年代には(電灯)が大都市の中心部で実用化された。1880年代は鉄道馬車が走り、1890年代には(路面電車)も開通した。大都市の大手呉服店がデパート型小売を開始した。