大陸政策の開始1870年代
朝鮮問題が浮上した背景には、日本の国防姿勢が密接に関係していた。日本は、主権線(国境ライン)の安全を維持するためには、その外側に利益線(日本の権益などがある勢力範囲)を確保することが必要だ、という国防姿勢をとった。当初、列国の影響がなお本格化していない朝鮮半島が、利益線として設定された。一方、当時の朝鮮は、伝統的な東アジアの国際秩序(冊封体制)のなかにあって、清国とのあいだに形式的な君臣関係を築いていた。このため清国は、朝鮮に対して宗主権を主張することになった。
1870年代 日清戦争までの流れ
年代 |
朝鮮 |
清(中国) |
1870年代 後半 |
①征韓論敗北1873 ②江華島事件1875 朝鮮を挑発(ペリーの真似) ③日朝修好条規1876 釜山・元山・仁川開港 ➡朝鮮政府内で親日派台頭 |
➡朝鮮は清の属国 |
会津人の呟き
密航を企てた無名のテロリスト吉田松陰。松陰を師と崇め出したのは、御一新が成立して日本軍閥の祖、山県有朋である。山県始め伊藤博文らの出身塾、松下村塾の師「吉田松陰」。
1858年日米修好通商条約が締結されると、松陰は老中間部の詮勝暗殺を計画、藩は再び松陰を捕獲、投獄。翌年、幕府は松陰の江戸への送致を命令、松陰は伝馬町の獄舎にて斬首、享年三十であった。斬殺、暗殺と喚く。これが久坂や前原といった松陰同様の跳ね上がり連中には受けたようだ。井伊直弼は松陰の処刑について、長州藩に意向を聞いている。「暴発」とし「斬首やむなし」の回答であった。不逞の輩の死をことさら崇め出したのが山県なのだ。そして松陰が最初に言い出したのが、「北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州、台湾、フィリピンを領有するべきだ」というのである。これを実行するのが「大和魂」なのだ。長州・薩摩世になったその後の日本が、長州閥の支配する帝国陸軍を核として松陰の主張した通り朝鮮半島から満州を侵略し、カムチャッカから南方に至る広大なエリアに軍事進出して日本を滅ぼすのである。これから近代史を学ぶ北高生諸君!長州・薩摩の藩閥政府の動きを冷静に見て行ってほしい。
年代 |
朝鮮 |
清(中国) |
1880年代前半 |
1880年代になると、朝鮮半島は大きな変化を経験。まず日本で軍人勅諭が発布された1882年 👉 ①✖︎壬午軍乱at漢城で発生 (親日派)閔妃VS これは開国路線をとる閔妃政権の転覆と日本の影響力排除を狙った反乱で、軍乱の結果、日本は済物浦条約を締結して朝鮮から賠償金・駐兵権などを獲得した。一方軍隊を派遣して混乱を収束させた清国も朝鮮に対する内政干渉と経済進出を図り朝鮮に対する清の宗主権が強化されていった。 さらに1884年には明治維新をモデルに朝鮮の近代化を図ろうとした改革勢力(金玉近ら独立党)によるクーデター ②1884✖︎甲申事変at漢城 日本公使館は独立党を援助したが、清国軍の介入でクーデタは失敗に終わり日本は朝鮮半島での影響力を後退させた。 甲申事変によって日清関係の悪化がもたらされ、その事後処理のために、1885年天津条約が結ばれた。 ③1885天津条約 伊藤博文と李鴻章(清) ⅰ日清両国の朝鮮からの撤退 ⅱ今後出兵する際は➡相互に事前通告する。 ⅲ両国軍事顧問の派遣停止
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(親清派)大院君 日本の指導する新軍隊に旧軍隊反感 日本人商人の米の買占めが反日機運をもたらしていた。 朝鮮政府は清に依存
背景 清の朝鮮に対する内政干渉 (宗主権の強化) VS(親清派)閔妃
←早稲田(文)で出た。 |
1880年代後半 |
①1885天津条約 伊藤博文と李鴻章(清) ⅰ日清両国の朝鮮からの撤退 ⅱ今後出兵する際は➡相互に事前通告する。 ⅲ両国軍事顧問の派遣停止 |
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☵福沢諭吉の批判
独立党の支援者であった福沢諭吉は甲申事変以後、みずからの新聞「時事新報」に「亜細亜の悪友を謝絶」せよと説く「脱亜論」などの論説を掲載し、対清強硬論を煽った。このため政府は同紙を発行停止にした。また民権派も強硬論を唱えた。
福沢諭吉の「脱亜論」
我日本の国土は亜細亜の東辺に在りと雖ども、其の国民の精神は既に亜細亜の固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰に不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云ひ、一を朝鮮と云ふ。……我輩を以て此の二国を視れば、今の文明東漸の風潮に際し、迚も其独立を維持するの道ある可らず。……左れば今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶豫ある可らず。寧ろ其の伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其の【支那朝鮮に接するの法も】隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、【正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ】。悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我れは心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。
ポイント「脱亜論」は史料よりも、甲申事変にショックを受けて出されたことが重要。もし史料できたら、「・・・支那朝鮮に・・・、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ」で判断したい。
防穀令
1889〜90年、凶作のなかで朝鮮の地方官が日本に対する穀物の輸出を禁止したのが防穀令。日本は、それを廃止させた上で、禁輸中の損害賠償を要求し、1893年に最後通牒を突きつけて賠償金を獲得した。
1894✖︎甲午農民戦争
政府の悪政を許すな!朝鮮では、政府による租税増徴や日本への穀物輸出の増大などによって生活不安が強まるなか、平等と社会変革を説く民衆宗教東学の指導者(全琫準)《ぜんぼうじゅん》が農民軍を指揮した。乱は半島南部で起こり、一時はその地域を制圧する勢いであった。主張は①日本と西洋の排斥②増税等の政府の悪政反対、である。朝鮮政府は乱の鎮圧に失敗、朝鮮政府が清に出兵を要請すると、日本も公使館警備を名目に対抗して出兵し、さらに朝鮮政府に内政改革を要求。内容は、(清と朝鮮との宗属関係破棄)等、この時の内閣は第2次伊藤博文内閣だった。
また日本の出兵に批判的だったイギリスが、日清戦争開戦直前に(日英通商航海条約)を締結してから態度を変えて理解を示したこともよく出る。
両国軍が朝鮮で対峙する事態となった。1885年の天津条約において、朝鮮でなにか問題が起きて出兵するときには、事前に知らせますよ、というルールが出兵の理由である。
1894.7 ✾日英通商航海条約の調印
安政の五カ国条約の不公平を打破した条約。外相は陸奥宗光。これにより治外法権(領事裁判権)が撤廃され、関税自主権が一部回復する。1899年に施行され、各国とも相次いで改正条約を調印する。
☈陸奥宗光外相の覚悟
列強と条約改正を達成するには、日本の発展ぶりを鹿鳴館などで見せようと思ってもだめである。最終的には日本の進歩や日本の開花を欧米にわからせるには、日本が亜細亜のなかでも特別な文明、軍事力も備わった国であるとの実証を列強の目に具体的に見せなければだめなのだ。陸奥は周到である。外交においては、とにかく「朝鮮に反乱が起こり、中国がまずは出兵しました」というのを待とうと考えた。
☶史料研究
明治二十七年七月十三日付を以て、[青木]公使は余(=陸奥宗光)に電稟(ひん)して曰く。「本使は明日を以て新条約(=日英通商航海条約)に調印することを得べし」と。而して余が此電信に接したるは抑凝々如何なる日ぞ。雞林八道(けいりんはちどう)の危機方に迫り、余が大鳥公使に向ひ「今は断然たる処置を施すの必要あり、何等の口実を使用するも差支なし、実際の運動を始むべし」と訣別類似の電訓を発したる後僅かに二日を隔つるのみ。陸奥宗光の回顧録『蹇蹇録』㊟蹇蹇匪躬(けんけんひきゅう)(心身を労し、全力を尽くして君主に仕えるという意味)
1.「余」とは★★のことである。陸奥宗光
2.「新条約」とは★★である。日英通商航海条約
3.「雞林八道の危機」とは★★をさす。東学党の乱
4.この史料の出典は「★★ 」である 蹇蹇録
5.この史料の著者は★★である。陸奥宗光
☈当時の極東情勢
イギリスはロシアの南下を恐れていた。
伊藤Ⅱ内閣は、日英通商航海条約調印によりイギリスの好意的立場を確保したと判断した。そして、朝鮮に対して清との宗属関係破棄などを要求し、それを拒否されると朝鮮王宮を軍事占領して親日派政権を樹立させ、その上で朝鮮の独立確保を掲げて清との戦争に突入した。
1894.8 ✖日清戦争勃発
経過…豊島沖の海戦➡旅順・威海衛の占領
➡過熱する戦争報道、戦争美談(木口小平の英雄)芝居、軍歌そして挙国一致への動き
1895.4 下関条約結ばれる
ア 全権…伊藤博文首相・陸奥宗光 外相 ⇆李鴻章
イ 内容
⒜清・朝鮮間の宗属関係を清算(清の勢力を朝鮮から排除)
⒝遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲
⒞賠償金2億両➡金本位制の確立
⒟沙市・重慶・蘇州・杭州の開港
➡日清通商航海条約(不平等条約)
ウ 影響(外交面)
⒜三国干渉1895➡遼東半島を清へ返還