1870年代 日清戦争までの流れ
年代 |
朝鮮 |
清(中国) |
1870年代 後半 |
①征韓論敗北1873 ②江華島事件1875 朝鮮を挑発、砲艦外交だ (ペリーの真似) ③日朝修好条規1876 釜山・元山・仁川開港 ➡朝鮮政府内で親日派台頭 |
➡朝鮮は清の属国 |
ロシアは、極東ロシア領の安全確保のために朝鮮の現状維持(独立と中立の確保)をはかることを極東政策の主眼としていたため、日本の遼東半島領有は朝鮮の独立を阻害するものと主張し、フランス・ドイツとともに遼東半島の清への返還を要求した。➡承諾…“臥薪嘗胆”の気運3000万両賠償。
台湾征服戦争の遂行
軍隊派遣で抵抗を鎮圧して領有(※旅順での虐殺)
➡台湾総督府設置1895 初代総督…樺山資紀
2代目児玉源太郎台湾総督のもと後藤新平民政局長(のち民政長官)のもと、武断政治を廃し、旧慣温存策や土地調査事業などが進められ、植民地統治が軌道にのった。
日清戦争後の政局
日清戦争後二つの選択肢
藩閥の一部(伊藤博文)と政党とが提携する路線と政党とが提携する路線である
民党を取り込む1890年代後半
内閣 |
藩閥・政治 |
民党・その他 |
第2次 伊藤博文
1896 |
日清戦争は政府と民党の対立様相を変えた。 文官任用令制定 (政党の人間が高級官吏になれる) |
内相(板垣退助) 【自由党】 |
第2次 松方正義 |
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外相(大隈重信) 【進歩党】 |
第3次 伊藤博文 1898 |
👉地租を上げなくれは政府のお金がないのだ!
伊藤退陣 |
自由党・進歩党が連携して否決 ➡【憲政党】結成 どうして議員になれたのか? 25歳以上の男子で直接国税15円以上納めた者なのだ! 👉だから地租上げるのは反対。俺たちだけが税金払っているんだぜ! |
日本初の政党内閣
内閣 |
藩閥・政治 |
民党・その他 |
第1次 大隈重信 |
日本初の政党内閣誕生 ①憲政党内閣 (陸海軍両大臣を除く全ての閣僚を憲政党員で占めた) 旧自由党と旧進歩党の対立激化 (地租で結束しただけ政策が違う) ✖共和演説事件 文相:尾崎行雄辞任 ➡金権政治を批判(三井・三菱) 4カ月で退陣 |
首相・外相:大隈重信 内相 :板垣退助 隈板(わいはん)内閣
憲政党(旧自由党)と憲政本党(旧進歩党)に分裂 |
第2次 山県有朋 1898
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①憲政党の支持を受ける 政策 ②地租増徴案の成立1898 (2.5➯3.3%) ③文官任用令の改正1899 ④軍部大臣現役武官制定める 現役の大将・中将以外は陸・海軍大臣になれない。 ⑤治安警察法公布1900 山県内閣の政策は今後の政治に重要なので絶対記憶しておく。頻出!
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➡伊藤博文に接近伊藤を総裁に立憲政友会を!
⑥立憲政友会の成立1900 看板政策は積極政策➡公共事業 この行動を批判した幸徳秋水は「自由党を祭る文」を書いた。 出典は『万朝報』 (黒岩涙香)創刊者も出る。 |
中国分割と日英同盟
日本 |
清(中国) |
列強の中国分割 ①地図で確認 ドイツ…膠州湾 【1898山東半島】 ロシア…旅順・大連 【1898遼東半島】 イギリス…香港 【1842九龍半島南部】 威海衛【1898山東半島】 フランス…広州湾【1899】 日本…福建省【台湾の対岸】他国への不割譲を清に認めさせた。 |
②✖義和団事件1900 清で、排外主義団体義和団が「扶清滅洋」を唱えて、外国人襲撃や列国公使館包囲を実行した。清はこの機会を捉えて列国に宣戦布告したが、列国は連合軍を派遣し清を降伏させ(北京議定書)を締結した。 これを日本では(北清事変)と呼ぶ。 北京議定書の中身 ①賠償金②北京の公使館所在区域の治外法権③公使館守備隊の駐留権等を獲得した。 |
1899.9 アメリカ国務長官ジョン=ヘイが、これまでの他国不干渉主義であるモンロー主義を捨て、中国の三原則を提唱する。機会均等・領土保全・門戸開放。意味するところは各国の勢力範囲内でも通商の自由を確保しようとするものである。中国以外では、1898年(ハワイ)を正式に併合し、米西戦争の結果(フィリピン)(グアム)を獲得した。
閔妃殺害事件
日本軍の朝鮮王宮占拠【日清戦争開戦の契機となった】➡日本軍が閔妃政権を倒して王宮占拠で成立した(大院君)の親日政権は、まもなく閔妃らの親露派に倒された。日清戦争後の三国干渉後に親露派(閔氏)勢力が大院君政権を倒す➡
(三浦梧楼)公使が公使館守備隊を使って朝鮮王宮を占拠し(閔妃)を殺害
➡(高宗)はロシア公使館に逃れ、親露政権誕生。1897年、日本との対抗上国名を【大韓帝国】とする。日本がロシアに警戒感を持ったのは、ロシアが北清事変を機に中国東北部【満州】を事実上占領状態において、清に同地域の独占的権益を認めさせており、それが韓国と隣接する地域だったからである。シベリア鉄道の支線である
➡東清鉄道でハルビンから旅順までの支線が建設されたことを記憶したい。
☈日露戦争の原因
1901年、清と列強との間で外国軍の駐留権などを認めた北京議定書が結ばれる。連合軍の主力となった日本の軍事力は「極東の憲兵」として列強に評価された一方で、ロシアが1896年の露清密約で得た東清鉄道の保護を名目に満州を軍事占領したため、日露間に緊張が高まり、日露戦争の直接的な原因となる。
日露協商か日英同盟か
日露協商➡ロシアに満州経営の自由を認め、代わりに日本の韓国への優越権を認めさせようという【満韓交換論】=(伊藤博文・井上馨)
【日英同盟】➡ロシアと対立するイギリスと結んで実力で韓国権益を守ろうとする立場=(桂太郎)首相。
1902年、桂内閣は日英同盟を締結。桂らはロシアと交渉しつつ開戦準備を進めていく。
日露戦争の世論
主戦論(近衛篤麿・頭山満)=【対露同志会】
(戸水寛人・小野塚喜平次ら)=【東大七博士】
満州という巨大な市場をロシアに渡したくないのだ!
非【反】戦論
内村鑑三が日清戦争を義のための戦争と評価していたが日露開戦前夜、戦争廃止論を『万朝報』に掲載した。『万朝報』=(黒岩涙香)頻出。
『国民新聞』=(徳富蘇峰)
主戦論に傾く「万朝報」を退社して(平民社)を起こし、『平民新聞』を発行した(幸徳秋水・堺利彦)も出る。
(与謝野晶子)の「君死にたまふこと勿れ」の史料にある堺や旅順の地名と雑誌『明星』も記憶したい。もう一人の女性反戦詩『お百度詣』(大塚楠緒子)も出た。
死にたまふことなかれ (「明星」)1904年9月号
旅順口包囲軍の中にある弟を嘆きて 与謝野晶子
ああをとうとよ君を泣く 君死にたまふことなかれ 末に生れし君なれば 親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて 人を殺せとをしへしや 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや
堺の街のあきびとの 旧家をほこるあるじにて 親の名を継ぐ君なれば 君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事ぞ 君知るべきやあきびとの 家のおきてになかりけり
君死にたまふことなかれ すめらみことは戦ひに おほみずからは出でまさね
かたみに人の血を流し 獣の道に死ねよとは 死ぬるを人の誉とは 大みこころの深ければ
もとよりいかで思されむ
ああをとうとよ戦ひに 君死にたまふことなかれ