3 幕府の滅亡と新政府の発足


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N03 江戸幕府の滅亡・尊皇攘夷運動の高揚2018.pdf
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1.公武合体と尊王攘夷

A.安政の大獄(1858~59

  ✖桜田門外 の変(1860.3.3

井伊直弼(南紀派)の下で老中 間部詮勝 が一橋派などの大名・武士・公家らを弾圧

大名…徳川斉昭(水戸)・一橋慶喜・松平慶永 (越前)ら隠居・謹慎

武士…吉田松陰(松下村塾)・橋本左内(越前藩士で適塾に学ぶ)

頼三樹三郎(頼山陽の子)ら刑死 梅田雲浜(若狭小浜藩士)獄死

尊攘派志士らが大老 伊直を暗殺(水戸浪士17名 薩摩藩士1名)

    →幕府独裁制→事実上崩壊

B.公武合体運動
安藤信正(老中)

和宮(孝明天皇の妹)と14代将軍家茂の婚姻を推進→公武合体の象徴

  ✖坂下門外の変(1862.1.15) 水戸浪士らが安藤信正らを襲撃し、幕府主導の公武合体運動挫折 *テロリスト集団水戸藩の暗礁

島津久光の登場(薩摩藩主忠義の父)藩兵1,000人率いて入京(1862.4.16

→朝廷に幕政改革と過激派浪士取締りを説く、あえて薩摩藩の過激派を鎮静

寺田屋騒動(4.23)破約攘夷派の有馬新七らを粛清

→勅使 大原重徳 を擁して江戸に下向(5.22)幕政改革を要求    

○文久の改革

一橋慶喜…将軍後見職・松平慶永…政事総裁職(大老にあたる)

松平容保(会津藩主)…京都守護職(京都所司代の上・京の治安維持を担当)

参勤交代の緩和→三年一勤へ(妻子のみ帰国許可)

西洋式軍制の採用・大型船建造

→容保が京都守護職についたことで、会津藩の運命は決まったのである。

  後藤象二郎 土佐藩士
  後藤象二郎 土佐藩士

将軍

幕府

雄藩・朝廷

15

慶喜

1867.10坂本龍馬の船中八策に基づき前土佐藩主【山内容堂】が藩士【後藤象二郎】に命じ、大政奉還の建白を慶喜に上表する。慶喜なりの計算があって受諾。


しかし、朝廷に大政を奉還しても政権担当能力はない。引き続き幕府が政権を担当したのだ。

 

 

会津人の呟き

徳川慶喜が意図していた公儀政体ともいえる徳川主体の新政府の芽は完全に抹殺されたのだ。

宮廷内を薩摩藩が闊歩している姿が目に浮かぶ。薩摩藩邸は御所の北側、現在の同志社大学だ!

 

論述研究 大政奉還と王政復古を対比せよ60字)類題(東大2014

大政奉還は、朝廷のもとで徳川将軍家中心の公議政体を作る構想だったのに対し、王政復古は、徳川将軍家を排除した公議政体をめざした。

 

薩長両藩に(倒幕の密勅)を偽造、偽造したのは

岩倉具視大久保利通

倒幕する前に慶喜が大政奉還してしまった。ここで倒幕の大義名分が消滅したのである。これは困った薩長!

 

会津人の呟き

天皇の政治的意思を表明する「勅許」を、己の政治的野心を遂げるために「偽造」したのである。これほどの悪業・大罪はない。

情勢不利と見た岩倉具視と大久保利通のクーデター

王政復古の大号1967.12.8

薩摩藩をはじめとする五藩の藩兵が御所を封鎖、公家衆の参内を阻止した上で、岩倉具視が参内、明治天皇を臨席させ「王政復古の大号令」を発した。幼い天皇を人質にした軍事クーデターである。

この大号令によって将軍だけでなく

摂政関白が廃止された点が出た。そのうえで(総裁)有栖川宮(議定)公家と雄藩大名参与)雄藩の武士の三職が置かれた。

最初の三職の【小御所】会議で徳川慶喜の【辞官納地】が決められた。

幕末の科学技術と文化 P259-260

砲台建設

高島秋帆が砲術を江川英龍に教えた。伊豆韮山反射炉横須賀に【製鉄所】を建設した。

蕃書調所は後に洋書調所開成所となり、明治政府のもとで開成学校 

東京大学となっていく。長崎製鉄所は、はじめ海軍伝習所の付属施設として設置され、後に明治政府に接収され長崎造船所となり、官業払い下げで三菱長崎造船所となった。

鳥羽・伏見の戦い1868

小御所会議の結論に反発【慶喜】は大阪城に引き上げた。

会津人の呟き 短刀一本あれば片がつく
小御所会議メンバー➡15歳の明治天皇、公卿、徳川慶勝(尾張)、松平慶永(福井)山内容堂(土佐)島津忠義(薩摩)浅野茂勲(広島)陪席➡大久保利通(薩摩藩士)後藤象二郎(土佐藩士)

山内容堂VS岩倉具視

外で警備していた西郷「短刀一本あれば片がつく

これを出席者に吹聴させ山内容堂を黙らせる。

 

1868幕府軍➡鳥羽・伏見で新政府軍と衝突、圧倒的戦力の新政府軍勝利

【慶喜】を朝敵として東征開始

東征大総督【有栖川宮熾仁】親王、大総督府参謀は【西郷隆盛

東征軍の中にあった【相楽総三】率いる赤報隊は、幕僚での年貢半減を掲げて東山道を進み農民の支持を得たが、新政府は後に彼らを偽官軍として処刑した。

会津人の呟き

哀しき赤報隊。西郷は岩倉具視の了解を得て赤報隊を組織した。任務は江戸において、旗本・御家人など幕臣や佐幕派諸藩の挑発である。放火・略奪・強姦・強殺である。ついに庄内藩酒井忠篤に江戸市中取締を命じた。度重なるテロの激化に庄内藩と幕府の堪忍袋の緒が切れた。赤報隊が逃げ込む薩摩藩を砲撃、薩摩藩邸焼討ちである。京にいた西郷は喜んだ。倒幕の大義名分ができたからである。薩摩藩の挑発がさらなる悲劇を生み出すのである。


江戸無血開城 1868.4

会談:勝海舟(幕府)VS西郷隆盛(新政府)

イギリスの【パークス】が貿易等への混乱を恐れ、その実現に尽力した。

上野戦争:➡彰義隊(慶喜擁護の有志の隊)が新政府軍と戦い敗れた。

徳川宗家相続人を徳川家達と新政府軍が決定した。

奥羽越列藩同盟

会津藩が中心となって結成。会津【鶴ヶ城】は落城し降伏。【白虎隊】の悲劇、藩士らは不毛・極寒の地斗南藩に流される。1868.9


五稜郭の戦い 1869.5

箱館開港にともなう軍備強化の一環で建設された。立て籠もったのは、榎本武揚・大鳥圭介らである。

新選組副長=土方歳三死す。

鳥羽・伏見の戦いに始まり、五稜郭の戦いで終わった一連の戦いを【戊辰戦争】と呼ぶ。👉戊辰は漢字で書けるように!

1868.3五箇条の誓文公布(新政府の基本方針)と五榜の掲示(人民の心得)が出される。

  原案起草者:由利公正修正福岡孝弟 加筆修正:木戸孝允 


  内容公議世論の尊重・開国和親 

一、広ク会議ヲ興シ、【万機公論】ニ決スヘシ

一、上下心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行フヘシ

一、官武一途[庶民]ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス

一、旧来ノ陋習】ヲ破リ、天地ノ[公道]ニ基クヘシ

一、智識ヲ【世界】ニ求メ、大ニ[皇基]ヲ振起スヘシ

史料問題の研究 ★★★
Q1.「広ク会議」は最初は★★と記されていた。列候会議

Q2.「広ク会議」と加筆修正した人物は★★である。

               木戸孝允

Q3.「旧来ノ陋習」とは★を意味する。攘夷運動

Q4.この史料の名称は★★である。五箇条のご誓文

Q5.これを発布したのは★★天皇である。明治

Q6.この史料の原案起草は★★、原案修正は★★である。

              由利公正福岡孝弟

また、 木戸孝允が第1条を修正し、形式を整える等で関わっている。

👉列侯を廃した木戸孝允が「広く会議を興し万機公論に決すべし」とした意図は、内外政の実権が諸侯に帰さぬように画策したのである。よくやるよ、テロリスト集団が。

政体書

アメリカの制度を参考に政体書制定。

福沢諭吉の「西洋事情」を参考に作成された。…府藩県三治制、形式的な三権分立がみられる。

➡史料【太政官】【貢士】の空欄補充に注意。

史料研究 政体書
 政体…
 一、天下ノ権力、総テコレヲ【
太政官ニ帰ス、…太政官ノ権力ヲ分ツテ

  立法、行法、司法ノ三権トス、…
 一、立法官ハ行法官ヲ兼ヌルヲ得ス、行法官ハ立法官ヲ兼ヌルヲ得ス…
 一、各府・各藩・各県・皆【
貢士】ヲ出シ、議員トス、議事ノ制ヲ立ツルハ、

  輿論公議ヲ執ル所以ナリ
 一、諸官四年ヲ以テ交代ス、公撰入札ノ法ヲ用フヘシ…    

 


東京遷都1868.7
 首都を決めないと新しい国家づくりは難しい、そういう議論がはじまった時に東北諸藩が同盟を結んで反抗の動きを見せました。そこであの連中を抑えるには東の方がいいという案が出て突然決まります。首都ではなく、あくまで東の京である。

五榜の掲示

徒党・強訴・逃散の禁止とともにキリスト教の禁止が引き継がれた・1873年禁教令が廃された。

神道国教化を図るため神仏分離令発布

各地で廃仏毀釈が吹き荒れる。

長州・薩摩という新権力による千年以上の永きにわたって創り上げられた固有の伝統文化の破壊活動である。長州・薩摩下層階級が最初にかぶれた思想は平田派国学を旗印に掲げ、神道国教・祭政一致を唱えたのである。

廃藩置県

版籍奉還:木戸と大久保らの画策で(薩摩長州土佐肥前)の4藩主が版籍奉還を願い出た。版とは各藩の領地、籍とは領民を指す。藩の領地と領民を天皇に返すわけだ。

藩主を知藩事=地方長官に任命。(元藩主が知藩事という役職に任命されて今まで通り藩政を続けた。)

中央集権になっていない。だから2年後に。

①【薩摩】【長州】【土佐】より➡御親兵を徴集した上で【廃藩置県】を断行。

②藩はすべて廃止されて、東京大阪京都】とになった。③中央政府が派遣する【府知事】【県令】が地方行政にあたった。④知藩事は罷免されて【東京】居住を命じられた。府県の数が3302県も出た。

政府組織

太政官を正院(最高機関)・左院(立法機関)・右院(各省間の連絡機関)を置くが、立法と行政の関係は明瞭ではなかった

徴兵告諭

史料研究

『我ガ朝上古ノ制、海内挙テ兵ナラザルハナシ(律令制下の軍団制のこと)。然ルニ大政維新列藩【版図を奉還】し、辛未ノ歳(=1871年)に及び遠ク【郡県ノ古ニ復ス(=廃藩置県)世襲坐食ノ士ハ、其ノ禄ヲ滅ジ、刀剣ヲ脱スルヲ許シ、四民漸ク自由ノ権ヲ得セシメントス。然ラバ則チ人タルモノ固ヨリ心力ヲ尽シ、国ニ報ゼラルベカラズ。西人レヲ称シテ①血税ト云フ。』

Q1.「列藩版図ヲ奉還」とは★★のことである。(日本女子)版籍奉還

Q2.「辛未ノ歳」とは西暦★★のことである。(日大)1871

Q3.「遠ク郡県ニ復ス」とは★★のことである。(日本女子)廃藩置県

Q4.この史料の名称は★★である。(同志社)徴兵告諭

 Q5. ①に入る語句を記せ。 血税

徴兵令

国民皆兵制に基づく近代軍の創設は(大村益次郎)【長州】完成は(山県有朋)【長州】山県は1869年長州藩主、毛利敬親の命で欧米視察をしている。

鎮台】設置:東京・大阪・熊本・仙台(のち名古屋・広島)

徴兵告諭では、①家督相続人②洋行者③代人料270円以上納入者④官立学生を免除とした。国民皆兵には程遠かった。

内務省は全国の警察制度を統括し、1874年には首都の東京に【警視庁】 を置いた。あらたに配属された邏卒は巡査と改称された。なお初代内務省を設立したのは【大久保利通】道は✖だよ、通だ。

 

論述研究 版籍奉還と廃藩置県を対比せよ60字)塚原【駿台】

版籍奉還では旧来の藩制が実質的に残ったものの、廃藩置県により租税・軍事の両権が中央政府に集中し、中央集権化の基礎が整った。

江戸幕府を倒した若輩の薩摩や長州

律令国家