20 戦後恐慌から金融恐慌へ


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20 戦後恐慌から金融恐慌へ                

 欧州経済の第一次世界大戦からの復興→アジア市場における国際競争の復活 →1919年日本の貿易が( 輸入超過 )(1920 )年の株大暴落→( 戦後恐慌 )というのが理解のポイント。このとき発生する回収不能の債権【 不良債権 】が、震災恐慌の不良債権に潜り込んだ。
震災恐慌

 1923年の関東大震災により、東京や京浜工業地帯の企業が大打撃。結果、銀行が割り引いていた手形が現金化できず、不良債権化した【震災手形と呼ばれる】。震災の翌日発足した第2(山本権兵衛 )内閣は1カ月の(モラトリアム)を実施し、同時に( 震災手形割引損失補償令 )に基づいて、日本銀行の銀行に対する(43082)円の特別融資を実施させた。これが金融恐慌の引き金となっていく         
約束手形とは、将来のある時点での支払いを約束した文書のことをいいます。

「今からXヶ月後の○月△日に□□万円支払います。」という約い。約束手形は、主に支払いを引き延ばす手段として使われます。

欧州経済の第一次大戦からの復興➡アジア市場における国際競争の復活➡1919年日本の貿易が 輸入超過 ➡1920年株価大暴落=戦後恐慌 という流れが理解のポイント。

若槻礼次郎内閣(憲政会

与党が過半数に満たない弱体内閣

 

1926.12 大正天皇崩御し昭和に改元、裕仁親王(=昭和天皇)が即位する。

1927.3 戦後恐慌や関東大震災がきっかけで生じた大量の不良債権が、個人経営同然の中小銀行が多かった金融界に重くのしかかっていた。震災手形の処理から銀行・会社の倒産が相次ぐ中、蔵相片岡直温東京渡辺銀行が倒産しました)の失言から取付け騒ぎが起こり、これをきっかけに金融恐慌が起こる。【大臣や銀行の名前がよく出る】昭和恐慌の発生である。

台湾銀行をどうする?主要な融資先➡鈴木商店があった。【倒産】第一次若槻内閣は、台湾銀行の重要性をふまえ、日本銀行からの緊急融資によって台湾銀行を救済しようとした。そのためには法律の制定が必要だったが、議会閉会直後のため、緊急勅令という手段を使うことにした。緊急勅令を出す場合は枢密院での審査が必要だったが

 清浦奎吾
 清浦奎吾

27 第二次護憲運動                

清浦奎吾内閣(貴族院中心)=政友本党の支持

1924.1 枢密院議長清浦奎吾貴族院を基盤として内閣を組織した。元老西園寺公望は,総選挙を目前にひかえ,選挙管理のために政党を超越した内閣を組織させようと考えていたのだが....
 清浦奎吾内閣の成立に対して,
憲政会の加藤高明立憲政友会の高橋是清・革新倶楽部の犬養毅が 護憲三派を結び,民意を無視した特権内閣だとして倒閣運動を展開した(第二次護憲運動)。その過程で政友会は分裂し,内閣を支持する床次竹二郎ら政友会多数派が脱党して,政友本党を結成した。

主張

政党内閣の実現普選断行・貴族院改革・行財政整理」をスローガン

第二次護憲運動とは!

彼らは、労働運動など階級闘争の激化、社会主義の浸透(虎の門事件がその象徴的な出来事)に危機感を抱き、特権内閣がかえって階級闘争の激化を助長させると考えた。そして、男子普通選挙法を導入して民衆の政治参加を実現させることにより、その政治的不満を解消するとともに、民衆を既成政党のもとに統合し、政治・社会秩序を安定させることをねらった。ところが、首相選定にあたった元老西園寺は、選挙管理のために政党を超越した内閣を組織させようと企図していたのであり、2次護憲運動は元老の判断を否定し、新たな立憲政治のあり方を求める政治改革運動であったと言える。

なお、政友会の多数派は清浦内閣を支持して脱党し、政友本党を結成した。

結果

1924年総選挙…護憲三派の勝利憲政会が第1党) 政友本党(清浦内閣支持派)の敗北清浦内閣総辞職

1924.1 中国において、反日の反帝国主義を唱え中国国民党(孫文)と中国共産党が連携する第一次国共合作が行われる。1927、蒋介石のクーデターで消滅する。

加藤高明内閣 護憲三派=(憲政会政友会革新倶楽部

憲政会総裁加藤高明を首相に推挙(推薦:最後の元老西園寺公望

加藤内閣から1932年の犬養毅内閣まで、衆議院の第1党が内閣を組織するという憲政の常道が維持される。

憲政の常道  

政党内閣制が慣例的な制度(慣行)として定着 衆議院の第1党が組閣

②内容…政党間の政権交代←元老 西園寺公望の調整のもと

これまでは複数の元老による協議で首相の選定が行われてきたが、元老が西園寺一人となり、さらに彼が政策調整能力を低下させるという状況のもと、元老西園寺は宮中官僚を代表する内大臣と協議しながら政党の党首を首相に選定し、政党間の政権交代を調整していった。総選挙にともなう政権交代、いいかえれば議会(衆議院)の趨勢にもとづく政権交代ではない点に注意が必要である。

1924.12 市川房枝らを中心とし婦人参政権獲得既成同盟会が結成される。

1925.1 日ソ基本条約調印

 シベリア出兵以後延引されていた日ソ間の国交が樹立される。東アジアの安定を図るもの。外務大臣幣原喜重郎 

1925.3 治安維持法と 普通選挙法が抱き合わせで成立する。

治安維持法は日ソ基本条約締結による国内の共産主義運動活発化の抑制をねらい公布され、無政府主義者・共産主義者の取締りを目的とした。はじめ最高刑で10年以下の懲役または禁錮だったが、のち田中義一内閣の時最高刑が死刑となる。

 普通選挙法という法はなく、正確には衆議院議員選挙法の改正法である。原内閣時代の小選挙区制を中選挙区に改めた。なお、婦人・朝鮮人・台湾人には選挙権はなかった

 

史料研究

第一条 [国体]ヲ変革シ又ハ【私有財産】制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ[  ]年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス・・・・・・

Q1.この法律の名称は★★★である。(早稲田) 治安維持法

Q2.この法律は西暦★★年に公布された。(日本女子大) 1925

Q3.この法律と同時に★★★が改正された。 普通選挙法 (衆議院議員選挙法)

 

1925.5 上海にある日本の在華紡工場でスト発生。

 この事件により北伐開始。

1925.7 閣内不一致(憲政会と政友会とが対立)により内閣総辞職。

論述研究 治安維持法 一橋大1999

[1] 治安維持法に関する次の設問に答えよ。
問1 治安維持法は1925年に制定されたが,この年に制定された背景にはいくつかの事実があった。政府が,この時期に,かかる法律を制定するにいたった背景として考えられる事実を,三つ記せ。
問2 治安維持法は,19283月に,本格的に発動された。この発動された事件とは何か。また,この法律が,この時期に本格的に発動された理由を具体的に述べよ。

解法

山川教科書310L5L9

この内閣のもとで、「国体」の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社の組織者と参加者を処罰することを定めた治安維持法が制定された。

制定当初の目的は、日ソ国交樹立(1925年)による共産主義思想の波及を防ぎ、普通選挙法の成立(同年)による労働者階級の政治的影響力の増大に備えることであった。

以上をまとめるのだが、図解するとイメージがわきやすい。

 

【解答例】1虎の門事件など社会運動の急進化への対処,ソ連との国交樹立による共産主義の浸透の阻止,普通選挙法制定により今後進出が予想された共産主義者の活動の取締まり。
2三・一五事件。第1回普通選挙で,非合法の日本共産党が労働農民党を通して立候補者をたて,天皇制廃止を掲げて公然活動を展開したため。