1927年から28年にかけて陸軍の佐官級将校(大佐・中佐・少佐)は「木曜会」という名の定期会合を行っている。メンバーは永田鉄山大佐・東条英機中佐・石原莞爾少佐らである。「我が国防方針、石原少佐。(中略)将来戦の予想。国家総動員に依る消耗戦略にあらずして
浜口雄幸内閣【立憲民政党】初めての(土佐)出身
外相(幣原喜重郎)蔵相👉井上準之助
金輸出解禁
金輸出解禁(金解禁)は、第一次世界大戦中の(1917)年以来続いていた(金輸出禁止)を解除する措置であり、1930年、実施された。
旧平価解禁が与えた影響について出題された。復帰にあたっては、為替レートを大戦前に戻すか、【金解禁当時の実質為替レートは1㌦=(2円25銭)程度】。現状の為替レートに合わせるかが議論となったが、浜口内閣は大戦前に戻すことを選んだ。【解禁は旧平価で行われたので1㌦=(2円)程度。】今と比較すると随分円安だ。そうすると、ドルとの関係では(円高ドル安)となる。企業にとっては輸出しても収入が減るが、政府は日本の(国際競争力をつけるためには、)それでも生き残れる企業だけが残ればよいと判断したのである。
1929年10月には、アメリカを震源とする(世界恐慌)【ニューヨーク・ウォール街での株価大暴落】が始まっていたが、浜口首相と井上準之助蔵相は、その影響は少ないとみて、1930年1月に金解禁を予定通り実施した。その直後、浜口内閣は、衆議院での過半数獲得をめざして解散総選挙を実施した。民政党は憲政会の政策を引き継ぎ、軍縮も含めて政府の支出を極力減らし、(減税)によって民間活力を伸ばそうという(緊縮)政策を主張、国民の支持を得て過半数を獲得した。
しかし、世界経済に組み込まれていた日本は世界恐慌の影響を大きく受けはじめた。輸出の半分を占める対米輸出は激減し、(生糸)の原料を作る養蚕農家は大打撃を受けた。また(正貨)が海外へ流出したこと、すでに(植民地米)の移入で低迷していた米価が暴落したこと、(都市失業者)の帰農が東北農村の窮状を激しくしたこと、飯を食えない(欠食児童)が生じ、女子の身売りが続出した。こうした生活の困窮から労働運動・農民運動が激化した。鐘淵紡績争議などの大争議が各地で発生,労働争議は 1931年第2次世界大戦前の最高件数を記録。小作争議も激増した 。
こうした恐慌が農村出身の軍人の心を痛めていく!しかし民政党は緊縮財政を掲げていたため、恐慌対策は自力更生が原則とされ、恐慌に対する救済はきわめて不十分だった。
☈入試の極意 井上財政と昭和恐慌
【円為替相場の推移グラフ】
たとえば,日本がアメリカに対して
輸入超過(貿易赤字)のときには,
円を売ってドルを購入しようとする動きが強くなるのでドル高・円安となる。当時の日本経済は,工業の国際競争力が不足し,さらに恐慌の際の過剰な特別融資によって国内物価が
にあったため,輸出が伸びず,そのうえ震災後の復興事業のために輸入が増えたこともあって,貿易収支は輸入超過だったのだ。
こうした経済状態のなか,井上蔵相は旧平価(1917年の金輸出禁止より以前の相場:1ドル≒2円)で金解禁(金輸出解禁)を断行しようとした。つまり,国際金本位制に復帰する際に
円を実質的に切り上げようとしたのだ。円為替相場とは日本経済の国際的な信用を示す指標だから,国際信用をなんとしてでも維持しておきたかったわけだ。
しかし,円高は輸出に不利。そこで,井上蔵相は緊縮財政により物価を引下げ,各企業に産業合理化をおこなわせて,国際競争力をつけていった。こうした準備を済ませてから,1930年1月金解禁を断行した。
こうして国際金本位制のもとでの自由貿易システムに復帰したことによって,かえって産業合理化をさらに推進させる環境が整った。浜口内閣は,1931年重要産業統制法を制定してカルテル結成を助長し,経済界の整理を進めた。
財閥などのドル買い
世界恐慌のなかでイギリスが金本位制から離脱すると、遅かれ早かれ日本も金本位制離脱に追い込まれることが予想されたため、三井などの財閥や外国銀行は(ドル買い)という為替投機に走った。
協調外交の挫折
日中関税協定 1930年成立。条件付きではあるが、日本は中国の(関税自主権)を認めた。ここまでは協調外交は成功していたのだ。
協調外交以外に道はなかったのか!
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1930.4 ☒ロンドン海軍軍縮会議(英首相マグドナルド提唱)開催
目的は①(ワシントン)海軍軍縮条約で締結された主力艦制限を(5)年間延長すること。②補助艦保有量を取り決めること、であった。日本の要求のうち、補助艦総トン数の対(アメリカ)(イギリス)7割は認められたが、補助艦艇保有量は英米10(日➡6.975)で対米7割を下回る。これに対し、(立憲政友会)、軍令部、右翼は海軍(軍令部長)【加藤寛治:艦隊派】の反対を押し切って条約を調印したことは、天皇の(統帥権)を干犯するものであると浜口内閣や海軍大臣【財部彪:条約派】を攻撃した。浜口首相は、
(枢密院)の同意を取り付け条約批准に成功したが、東京駅で右翼【佐郷屋留雄】に狙撃され重傷を負う。退陣後まもなく死亡した。『男子の本懐』と狙撃後、つぶやいたのは有名。加藤寛治海軍大将は単独で天皇に(帷幄)上奏して辞任。狙撃された首相の臨時代理は(幣原喜重郎)だった。
軍部の台頭
国権回復運動
張作霖爆殺事件で父を殺害された(張学良)は、国民政府に合流し抗日を推進、南満州鉄道に併設する(満鉄並行線)敷設、日本の鉄道独占を打破しようとした。この行為が日本の南満州鉄道の利益を妨害するものだ!と、軍や右翼は「満蒙の危機」を喧伝。
♞第二次若槻礼次郎内閣(立憲民政党)
柳条湖事件の前後
張学良らの権益回収をはかる民族運動が高まるなか、日本の満蒙権益は維持するのが困難になり、さらに1931年には中村大尉事件(日本人立入禁止区域でスパイ活動中の陸軍の参謀本部員中村真太郎大尉が中国兵に殺害された)や万宝山事件(吉林省の長春郊外の万宝山で起きた紛争。日本の支援による朝鮮人入植者の水路工事開始に中国人農民が反発して朝鮮人農民と衝突した。これが朝鮮に報道されると、朝鮮で中国人襲撃、焼打ちなどの暴動が起き、100人以上が殺害された。)これを関東軍は大々的に宣伝することで治安維持のため満洲を占領せよと煽っていった。
平頂山事件…
1931.9 ✖柳条湖事件が勃発。➡奉天郊外の柳条湖で満鉄線路を自ら爆破し、これを中国軍の仕業として奉天における張学良軍の本拠を攻撃し、満鉄沿線の主要都市を一斉に占領した。
第二次若槻内閣の不拡大方針を無視して軍事行動を拡大し、日本の権益がない北満洲までも侵攻して満洲全土を占領した。
(マスコミ)が軍部を支持したことが出た。
☈関東軍の目指したもの
将来におけるソ連やアメリカとの戦争にそなえて戦略拠点を確保し、同時に国内における国家改造運動の橋頭堡とすることだった。関東軍にとって満洲占領は、南満州の既得権益を確保するための手段ではなく、日本の国防体制(軍事的・経済的)の樹立に向けた一つのプロセスだったのだ。この思想を確立し実行していったのが、関東軍作戦参謀石原莞爾であった。
石原らが事変を起こした理由は明快でした。ソ連がいまだ軍事的に弱体なうちに、日本とソ連が対峙する防衛ラインを、山脈など天然の要害で区切られた中国とソ連の国境線まで北に上げることで楽にしておくということです。左の地図で見ると、ソ連との国境線沿いにアムール川と、その南に小興安嶺山脈があります。これを天然の防衛線とすれば、鉄道が通っているような穀倉地帯の正面で戦うより有利になると考えられました。
そして、満州を、将来的に予想されるアメリカとの最終戦争を支える兵站基地にしてしまおうと考えた、まさに石原莞爾の最終戦争論である。
1931.10 ✖十月事件勃発
満洲事変に呼応して、軍事政権を樹立しようとするクーデターが計画されるが未遂に終わる。若槻内閣は心労と閣内不一致で総辞職。
満州事変という不正がまか通ってしまった背景には、軍部の暴走を止めにくい国家制度、国家の言うことに
♞犬養毅内閣(立憲政友会)最後の政党内閣
1931.12 世界恐慌で金解禁後輸出不振・金流出が激しくなったため、蔵相➡高橋是清の主導で➡金輸出再禁止を断行する。
金本位制を離脱。恐慌克服のため政府が積極的に財政支出をする姿勢を示した。32年2月の選挙は政友会が300議席を超える大勝利は、積極主義が功をそうした。
1932.1 ✖第一次上海事変起こる。満州から目をそらすための謀略である。
中国上海において、日本人僧侶殺害事件を契機に日中両軍が衝突。
1932.2 満洲事変の調査のため国際連盟がリットン調査団を派遣。
1932年5月のことだ!右翼の血盟団員が政治家や財閥の幹部を暗殺する事件が起こり、また5月15日には、海軍将校らが犬養毅首相を官邸に襲い暗殺した。
👉国民は理想とかけ離れた政党政治の現実に幻滅し、利権や党利党略を優先する政治家よりも軍人のほうが身ぎれいで、国のために尽くしてくれるのではないか!と感じるようになったのです。