♘石橋湛山内閣 〔自由民主党〕病気のため短命に終わる。
➾軍部の圧力にもめげず対峙した人物。ロンドン海軍軍縮条約において、政府代表が海軍の削減に合意したのは統帥権干犯だと主張したことだ。これに対し石橋は「統帥権なるものは今日に時世において許すべからざる怪物である」と書き、堂々と軍部を批判した。(早稲田卒)戦前、(小日本主義)を主張し、朝鮮・満州などの植民地の放棄等を提言した人物である。雑誌『東洋経済新報』の記者、後に社長となったこととともに記憶せよ。」
♘岸信介内閣 〔自由民主党〕昭和の妖怪 東大卒
岸は農商務省官僚から(満州国)産業部次長となる。満州で当時関東軍参謀長であった(東条英機)や、日産の(鮎川義介)と知り合い、鮎川とともに満州重工業開発株式会社の設立に参画。東条内閣では商工大臣、次いで国務大臣兼軍需省次官となる。1945年にA級戦犯容疑者として逮捕。不起訴釈放後、1957年に組閣。安倍晋三の母方の祖父にあたる。
岸内閣は,1958年、教員の(勤務評定)を全国で実施し、日本教職員組合の激しい抵抗を受けた。また、(警察官職務執行法)を改正して警察官の権限を拡大しようとしたが、反対運動が激しく起こって改正は断念された(デートもできない警職法)。岸内閣の外交方針が「(国際連合)中心主義」「(アジア)外交重視」「対米外交見直し」であり、
(インドネシア)との平和条約を締結した。
事実上の軍事同盟である新安保条約
旧安保条約の不備な点
⑴アメリカは自国の基地として日本の基地を使うのに、日本を防衛する義務は明記されなていない片務的条約。
⑵期限も不明確
⑶駐留米軍に対する日本の発言権もはっきりしない。
☈受験の極意 新安保条約
アメリカの防衛義務が明記され、さらにアメリカと日本と極東での軍事行動に関する
事前協議制が定められたという2点が最も重要。その他に日本の(防衛力増強義務)と条約期限(10)年が定められた。
事前協議制は「実行可能なときはいつでも協議する」という性格のものであったうえ、
(核兵器を搭載した)艦船・航空機の進入・飛来は事前協議の対象から除外され、朝鮮・台湾・ヴェトナム有事の際には全ての基地を事前協議なしに使用できるとの了解が成立していた。
☶史料研究 新安保条約(日本外交主要文書・年表)
締約国は、この条約の実施に関して随時協議し、また、日本国の安全又は極東における国際の平和及び安全に対する脅威が生じたときはいつでも、いずれか一方の締約国の要請により協議する。(第4条)
各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。…(第5条)
日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。(第6条)
安保闘争
このように日米安保条約の改定は日本をアメリカのアジア軍事戦略に深く組み込むものだったため,日本が戦争に巻き込まれる危険性があると懸念され,総評・社会党や共産党などが安保改定阻止国民会議を結成して反対運動
(安保闘争)を展開した。そして,1960年5月岸内閣が衆議院に警官隊を導入して新安保条約の批准を強行採決すると,自民党内部からも批判が高まり,それまで新安保条約に中立的だった人びとまでもが参加して反対運動が急速に盛り上がっていく。
樺美智子の死
東大生の樺さんは機動隊との衝突で胸部圧迫・頭部内出血で死亡します。彼女の死去以降、それまでまったくデモに参加しなかった無数の人たちが運動に参加していきます。6月18日には、日本政治史上最大のデモが国会・首相官邸付近をとりまきます。総数50万人の労働者が参加し、それとほぼ同数の市民団体が加わっていました。学生だけでも5万人を超えていました(この時岸首相が「後楽園は満員だ!」の話は有名です)。
こうした安保闘争の全国的な高まりに対し,岸内閣は自衛隊出動による鎮圧も考慮したが断念し,予定されていたアイゼンハワー米大統領の訪日も延期した。とはいえ,参議院での審議・議決を経ないまま,6月に新安保条約が自然成立し,それにともなって岸内閣が退陣すると,安保闘争は退潮にむかった。
♘池田勇人内閣 〔自由民主党〕
スローガンは「寛容と忍耐」
1960.12 内閣、「所得倍増」・高度成長政策を発表し、10年後の1970年までに国民総生産と一人当たりの国民所得を2倍にする「国民所得倍増計画」をうちたてる。この目標は1967年に早期達成された。以上のことが池田内閣の基本事項として出る。この計画は、官庁エコノミスト(下村治)の理論が基礎にあった。その他ケネディ米大統領の暗殺とジョンソン大統領の就任も池田内閣時であった。
LT貿易
1962年、池田内閣は国交のない(中華人民共和国)との準政府間貿易の取り決めを結んだ。交渉に当たった中国の(廖承志)【りょうしょうし】=L、日本の(高碕達之助)=Tの頭文字を取りLT貿易と名付けられた。
1964年の(東京オリンピック)の開催や(東海道新幹線)の開通が池田内閣である。
♘佐藤栄作内閣 1964.11~1972.7 与党:自由民主党
※岸信介の実弟 のちノーベル平和賞受賞
1964.11 公明党が結成される。創価学会を母体とする。
1965.2 ✖ベトナム戦争始まる。~1975
ホーチミンの抗日運動
インドシナ戦争
仏VSホーチミン
1954 インドシナ休戦協定
➡アメリカ認めず(ドミノ理論)
北ベトナムと南ベトナムに分断
1960南ベトナム民族解放戦線
トンキン湾事件➡1965北爆 アメリカ軍地上軍54万 1968テト攻勢➡ソンミ村虐殺504人➡反戦盛り上がる➡べトコンのゲリラ戦➡アメリカの敗北
犯人は南ベトナムの国家警察長官グエン・ゴク・ロアン、撃たれたのはベトコンのバイ・ロップ。
1965.6 韓国との間に日韓基本条約を結び国交正常化←アメリカがベトナム戦争に本格的に介入 韓国側全権:李承晩
➡韓国併合に至る諸条約を「もはや無効」と規定するととるに、韓国政府を「朝鮮にある唯一合法の政府」と確認した。そして、日本が経済援助を行う代わりに韓国が賠償請求権を放棄した。 韓国大統領➡朴正熙 ➾日本の陸軍士官学校出身(日本の植民地支配に協力した朝鮮人をアメリカは使ったのだ)岸信介と盟友。
1965 市民運動としてベトナム戦争反対運動が盛り上がり、小田実、鶴見俊輔、開高健らによる(べ平連)結成が出た。小田実の【テニアン島の村長さんの話は授業で】
➡いざなぎ景気始まる
1965.8 「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、わが国にとっての戦後が終わっていない」佐藤栄作首相声明
1967.8
1968 国際反戦デー
1968~69 東大闘争、日大闘争など
沖縄返還
日本全体の面積の約0.6%が沖縄ですが、その小さな沖縄に日本国内の米軍基地の約75%が集中している現実!さあ、沖縄を考えていこう!
1968年、アメリカは(小笠原諸島)を返還。この年(核兵器拡散防止条約)が締結されたことが出た。また、同年、沖縄で琉球政府主席の公選が実施され、(屋良朝苗)が選出される。1969年日米首脳会談で沖縄返還を合意【ニクソン米大統領と佐藤栄作首相】。1971年(沖縄返還)協定調印→沖縄の日本復帰1972=膨大な基地は存続(沖縄の面積は日本全体の面積の約0.6%ですが、その小さな沖縄に日本国内の米軍基地の約75%を集中させていることが出た)。
世界各地でべトナム反戦運動が展開するなか、膨大な米軍基地を擁し、ベトナムへの最大の出撃拠点の1つであった沖縄では、日本への復帰を求める沖縄県祖国復帰運動の盛り上がりとも重なって反米感情が高まった。そこでアメリカは、佐藤内閣が求める沖縄の日本返還を認めることで、沖縄住民の反米感情を軽減して基地維持のためのコストを減らすことを狙った。
なお、沖縄返還をめぐる国会論議のなかで、佐藤栄作首相は非核三原則(核兵器を作らず・持たず・持ち込ませず)を表明し1967、さらに佐藤首相・ニクソン米大統領の会談1969では「核抜き・本土並み」返還が表明された。㊙核持込の密約あったことがはっきりし、これからも十分狙われるだろう。
多党化
1964年の(公明党)結成。創価学会が政党を結成。
IMF・GATT
1952年、IMF=(国際通貨基金)、1955年、GATT【ガット】=(関税及び貿易に関する一般協定)に加入した。加入の年が出た。IMFは、アメリカのドルを基軸通貨として為替レートの安定と国際決済の円滑化を目的とする組織。各加盟国はドルに対する平価を定める固定相場性である。