36 身分・村・町・農業の発達


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36 身分・村・町・農業の発達

身分秩序と農民

 幕藩制社会の根幹を支えたのは、苗字帯刀を許された武士(支配身分)と、百姓職人家持町人など(被支配身分)で構成される、世襲的で厳しい身分秩序だった。武士の家などでは 戸主権が強く、長子相続が原則とされた。

支配身分:武士・天皇・公家・上層の僧侶・神職。

被支配身分:百姓、職人…大工・左官・木挽・鍛治など。

     :家持町人…主に都市に住み、商業・金融・流通・運輸等を担う。

 また、人口のおよそ80%を占める農民は、財政基盤である年貢の負担者としてもっとも重要視され、私生活にまでおよぶ綿密な政策が実行されていった。

 幕府や諸藩による農民統制策の基調は、本百姓(検地帳に記載され田畑・屋敷を持つ農民のこと)を維持して小農経営を安定させ、確実に年貢・諸役を徴収するものだった。

 農村支配にあたっても文書行政を徹底した幕府や諸藩は、自治的な共同体であり、かつ検地を通じて石高によって統一的に把握された村を行政単位として、年貢や諸役の徴収にあたった(村請制)。👉本百姓と村請制をしっかりおさえること!

 したがって、幕府権力側の発する法度(基本法令)・触書(命令禁止の旨を簡明に記した法令)などを理解するためにも(文書行政)、また、村請制のもとで、年貢計算など村に委任された業務を遂行していくためにも、村内には識字・計算能力に秀でた人物(村役人層などの豪農)が必要不可欠だった。

POINT

①【村の様子】

村の数

17世紀末、五代将軍綱吉の頃で63000

村の境界を確定する村切や新田開発を背景に増大。

村には、名主(庄屋・肝煎)や組頭百姓代からなる村役人(村方三役)を中心とする本百姓によって村法(村掟)にもとづいて運営され、村内には、本百姓以外に、小作や日用(日雇)仕事に従事する水呑(無高)や、有力な本百姓に隷属する名子・被官・譜代と呼ばれる人々が存在した。また、田植え・稲刈り・屋根葺きなど農業や日常生活で多くの人手が必要とされる際には、村人たちは共同でこれにあたり(・もやい)統治・支配面では、村請制のもとで五人組と呼ばれる年貢納入・治安維持の連帯責任単位に編成された。👉村方三役絶対だ!

 

②【年貢と諸役】農民が負担する税には、石高を基準に徴収される本途物成(田畑屋敷への課税)に加え、山野河海の利用や農業以外の副業にかけられる⒝小物成

大規模土木工事のために臨時に課された国役、⒟街道近辺の村々が公用交通のために人馬を提供する伝馬役、などがあった。伝馬役は宿場居住者の労役負担。東海道で100人、馬100匹。屋敷間口に応じて負担義務を課された。

助郷役はこの伝馬役だけでは足りない場合に周辺農民に対して課した労役。

③【田畑永代売買禁止令1643

1634年頃から不作が始まり、1642年にピークを迎えていた。寛永の飢饉という。これは島原の乱の原因にもなっていった。

飢饉で没落する農民が出始めたため、小農の保護のために出したものだった。富農に土地が集中するということ。

江戸時代の初期においては、実際には土地を買っても耕す労働力に事欠くため、儲からなかった。したがって、ほとんど売買はなかったらしい。廃止は地租改正直前の1872年。

 

④【分地制限令】(1673年)

分地とは田畑の分割相続をさし、これを制限する分地制限令で農民の零細化を防ごうとした。

⑤【田畑勝手作りの禁1643

商品作物の作付けを制限し、商品経済の農村への浸透を防止しようとした。農民がお金を使うようになると封建制は崩れるのが原則である。五穀【米・麦・栗・黍・豆】以外の作付けが禁止された。主な制限作物は、タバコ木綿・菜種・桑。しかし17世紀後半には行われなくなった。

1643年。寛永の飢饉を受けて米を確保するため、田での木綿作、田畑での油菜作を 禁止。その後、本田畑に五穀以外のものを植え付けることを禁止する。

③【田畑永代売買禁止令1643

1634年頃から不作が始まり、1642年にピークを迎えていた。寛永の飢饉という。これは島原の乱の原因にもなっていった。

飢饉で没落する農民が出始めたため、小農の保護のために出したものだった。富農に土地が集中するということ。

江戸時代の初期においては、実際には土地を買っても耕す労働力に事欠くため、儲からなかった。したがって、ほとんど売買はなかったらしい。廃止は地租改正直前の1872年。

 

④【分地制限令】(1673年)

分地とは田畑の分割相続をさし、これを制限する分地制限令で農民の零細化を防ごうとした。

⑤【田畑勝手作りの禁1643

商品作物の作付けを制限し、商品経済の農村への浸透を防止しようとした。農民がお金を使うようになると封建制は崩れるのが原則である。五穀【米・麦・栗・黍・豆】以外の作付けが禁止された。主な制限作物は、タバコ木綿・菜種・桑。しかし17世紀後半には行われなくなった。

1643年。寛永の飢饉を受けて米を確保するため、田での木綿作、田畑での油菜作を 禁止。その後、本田畑に五穀以外のものを植え付けることを禁止する。

⑥【「百姓」と「農民」


近世身分制社会において、(狭義には)検地帳に田畑・家屋敷を登録されて年貢・諸役を負担する者を百姓といい、林業・漁業などに携わって小経営を営む者も含まれた。一方、身分や出自、あるいは支配体制・時代・経営規模・性別・地域などにかかわらず、農業に従事する者を農民と総称する。

 

城下町

在地領主として農村部に住んでいた武士が、各戦国大名・秀吉・幕府の兵農分離政策によって主君の城下に移住を強制され形成された。17世紀末多くの藩で俸禄制がとられたので、消費者である武士に対し商人手工業者が、地子免除の特権を受けて定着した。その結果、武家地、町人地、寺社地などが出現した。

下記の写真は豊臣秀次の八幡城下(現在の滋賀県近江八幡市)の商家群である。