武断政治から文治政治への転換
家康・秀忠・家光の時代を通じて体制の確立に成功した江戸幕府は、反面で、多数の牢人の発生や「かぶき者」の横行など、新しい社会問題に直面することになった。
「かぶき者」とは、自力救済の精神や集団的な武力行使を正当だと考える中世的な意識をもち、異様な風体で市中を歩きまわって自己を誇示した一群のことをいう。
徳川家綱が将軍となった1651年、兵学者由井正雪はその例である。
儒教的徳治主義
将軍 |
実力者 |
政治 |
事件 |
4代 家綱 |
会津藩主 保科正之 松平信綱 晩年大老 酒井忠清 下馬将軍 |
文治政治
②末期養子の禁を緩和 →藩主が死亡前後に急に願い出た養子のこと。大名が改易されると家臣たちは失業して、牢人となる。 この増加が社会不安。 ③殉死の禁止と人質の廃止 殉死の禁止によって、主従関係が個人的なものでなく、大名家と家臣とのあいだで永続するものであることが明示された。
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文治政治転換の契機 ✖︎①慶安事件1651 由井正雪→牢人の不満結集→幕府転覆を謀る未遂 共謀:丸橋忠弥
④明暦の大火1657 振袖火事とも呼ばれる。翌年幕府直属の定火消が組織。 |
41 江戸④ 文治政治への転換
♔家綱(11歳で就任)何を聞かれても左様にせい!
彼の前半の治世を支えたのが、家光の弟で会津藩主➡保科正之(家光の異母弟)である。この時には、老中の体制が整っており、大老酒井忠清や島原の乱鎮圧に辣腕をふるった老中松平信綱らが集団体制で将軍を補佐をした。家綱は、これまでの武断政治を改め、➡文治政治を展開した。文治政治とは、法律によって秩序を維持し、学問によって幕藩体制を合理化して、将軍の権威を高めようとするものである。
由井正雪の乱をうけ、末期養子の禁が緩和される。
50歳未満の大名には認める。
☈入試の極意 藩政改革
藩主 |
藩名 |
内容 |
保科正之 |
会津 |
秀忠の子で家光の弟。4代家綱を補佐。南学派の儒学者 山崎闇斎を招き、朱子学を学ぶ。 |
池田光政 |
岡山 |
郷学➡閑谷学校創設。庶民のため。 陽明学者熊沢蕃山私塾➡花畠教場を拓く。 |
徳川光圀 |
水戸 |
明の学者朱舜水を招き、江戸に彰考館を建て、歴史書➡『大日本史』編纂。 |
前田綱紀 |
加賀 |
朱子学者➡木下順庵を招く。 |
1654 明より来日の禅僧 隠元隆琦 が長崎に来航し黄檗宗を伝える。
1657 明暦の大火(振袖火事)1657で江戸の55%焼失
☈明暦三年10万2千人の死者を出し、大名屋敷160が燃えた。それほどの大火になったのに、火元の寺は処罰されることもなく、その後も老中から付け届けがあった。これを機会に江戸は新たな都市計画を実現したので、再開発のための火事との説もある。
文化1662 古学の➡伊藤仁斎京都・堀川に私塾➡古義堂を開く
1663 幕府、殉死・仇討ちを禁じる(寛文の二大美事)➡殉死の禁止でそれまでの「二君に仕えない」という考え方は否定され、主君が亡くなっても跡継ぎに仕えることになり、人ではなく「家に仕えること」が徹底されました。
武家諸法度寛文令出される
☶史料研究
『不孝ノ輩之アルニ於テハ、罪科に処スベキ事。耶蘇宗門(=キリスト教)ノ儀、国々所々ニ於テ堅ク停止スベキ事』
1664 家綱、全大名より領地宛行状を回収し、再発行する。将軍権威の高揚。
1665 大名の人質制度廃止(寛文の二大美事)
幕府、宗門改帳を諸藩に作成させる。
幕府、諸宗寺院法度、諸社禰宜神主法度を出す
👉神仏習合でない唯一神道→吉田神道
👉日蓮宗不受不施派への弾圧(
5代将軍綱吉の登場
5代将軍綱吉の登場
将軍 |
実力者 |
政治 |
事件 |
5代 綱吉 |
大老 堀田正俊 松平信綱 側用人 柳沢吉保
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元 館林 藩主 学問奨励 木下順庵 に師事 ①孔子廟を湯島に移し聖堂とし➡ 湯島聖堂 とし、林家の家塾を 聖堂学問所 として整備した。 大学頭: 林信篤 天文方: 渋川春海 歌学方: 北村季吟 暦を 貞享暦 に (従来の宣明暦に誤差) ②生類憐みの令1685 ⅰ捨て犬捨て 牛馬 の禁止 ⅱ犬小屋の設置 ⅲ綱吉は 戌 年 Ⅳ綱吉の母桂昌院の影響強し=真言宗 隆光 に帰依した影響で出した。
朝幕協調 大嘗祭 復活 賀茂葵祭 復活 禁裏御料 増加 財政悪化 明暦 の大火1657後の江戸城再建・市街地復興が原因で財政悪化 寺社造営費用で財政悪化 上野【 寛永寺 】建立 【 護国寺 】建立 綱吉時代後半は、インフレと悪政で重大な危機を招く。 |
1701✖︎ 赤穂 事件 殿(浅野長矩)の御乱心のおかげで家臣が大迷惑を被って、挙げ句の果てに地元では名君の誉れ高く、農民たちから慕われていた吉良上野介(高家)を惨殺した赤穂事件がおこったのも綱吉の時だった。 |
1669 蝦夷地で✖シャクシャインが蜂起し、松前氏が鎮圧。以後、アイヌは松前氏に服属。
1671 ➡河村瑞賢により東回り航路が整備される。
翌年には西回り航路も
文化1673 ➩市川団十郎江戸で荒事を上演する。
1673 田畑の相続の際の分割を制限する分地制限令が出される。
☈受験の極意 農業・農民史Part1
「百姓は生きぬ様に、死なぬ様に」徳川家康 「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出ずるものなり」神尾春央
村の組織
⑴村役人…名主(村の長、肝煎、庄屋とも)組頭(名主の補佐)・百姓代(村民代表)の村方三役が中心となって運営。
⑵本百姓…田畑や屋敷を所有している農民で自作農。検地帳に記載あり。
⑶水呑百姓…土地を持たない小作農。検地帳に記載なし。
⑷隷属農民…名子・被官・家抱といった農民は本百姓の隷属農民。
⑸五人組…幕府は連帯責任による年貢の完納 や、相互監視による犯罪防止を目的として五人組を結成させた。
⑹共同労働…農民同士で行なった共同労働を結・もやいといった。
農民負担
⑴ 負担…本途物成➡田畑に対する主たる税、四公六民(4が税6が取り分)が普通であり物納。それ以外の税を小物成といい、主に金納。
・高掛物➡村高にかかる付加税
・国役➡治水工事などの負担義務
・助郷役➡人馬を提供する(伝馬役の一つ)
⑵ 規制…慶安の触書(農民生活の細部の規制)や、一連の土地に対する法令(田畑永代売買禁令)によって、年貢確保・本百姓体制解体防止などの側面があった。
☵論述研究 百姓は農民ではないのか? 一橋大2013 第1問
次の文章を読んで下記の問いに答えなさい。(問1から問3まですべてで400字以内)近世は,身分制を骨格として成り立っている社会である。近世の身分制は,中世から近世に移行する過程で,徐々に形成されていった。豊臣秀吉は,1591(天正19)年に出した[ ]などによって,諸身分の確定を進めた。 近世においては,政治と軍事を担う武士,村に住む百姓,⑴都市に住む町人などが中心的な身分となった。近世の人々は,人一般としてではなく,特定の身分に属する者として,社会的に存在していたのである。このうち,⑵百姓は農民と重なる部分が多いが,近世の百姓と農民は完全に同義ではなかった。
問1 [ ]に入る語を記し,その内容を説明しなさい。
人掃い令。
問2 下線部⑴に関して,町人は,どのような要件を満たせば町人身分として認められたか。町人身分の決定要件を2つあげて説明しなさい。
問3 下線部⑵に関して,百姓と農民の重ならない点(不一致点)を2つあげて,百姓と農民の関係について説明しなさい。
野澤先生(愛媛)の解答例
1人掃令。武家奉公人が町人・百姓になることや、百姓が商人・職人になることなどを禁じた。2一つは、町内に町屋敷を持つ家持であること。二つめは、上下水道の整備、城郭や堀の清掃、防水・防災など都市機能を維持する役割を、夫役である町人人足や貨幣を支払うことであった。彼らは町政に参加できたが、商家の奉公人や地借、店借など地主の町人に地代や店賃を支払う者は、町に居住していても町人とは認められなかった。3一つは、検地帳に登録されて高請地となった田・畑・家屋敷を持ち、年貢・諸役をつとめ、村政に参加する農民である本百姓が本来の百姓であり、村に住んでいても田・畑を持たず、地主のもとで小作を営んだり、日用仕事に従事する水呑や、有力な本百姓と主従制のような隷属関係にある名子・被官などは農民ではあっても正式な百姓とは認められていなかった。二つめは、百姓は農民だけではなく、林業・漁業に従事する者も百姓であった。(399字)
封建的身分制度
支配的身分である武士(天皇家・公家・上層の僧侶・神官を含む)に対して被支配身分としての百姓(農民だけでなく林業・漁業に従事するものを含む)そして町人(手工業者である諸職人、商業を営む商人を中心とする都市の家持)に分けられていた。