42 幕政改革と社会の変動


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幕藩体制の動揺

 17世紀後半以降の、商品経済のめざましい発展のなかで、農村の構造にも大きな変化がみられるようになってきた。土地を質入れして没落する農民が多数生じる一方で、豪農層が奉公人などを雇ってみずから経営する地主手作に加えて、田畑を小作人に貸して高率の小作料をとる地主もあらわれ、小農経営を基本とする本百姓体制が危機を迎えることになった。

 また、都市での商品需要の増大は、諸物価の上昇をまねき、幕府や藩の出費は増えるいっぽうであった。ところが、米価は他の商品に比べそれほど上昇しなかったため、年貢米を売って必要物資の購入にあてていた幕府や藩の財政はますます悪化し、藩は大坂の豪商などからの借金にたよらざるをえなくなった。支給される蔵米によって生計をたてていた旗本・御家人や藩士たちの生活も窮乏化していった。

 新田開発の成果もあって1715年頃には、石高は400万石に達していた。しかし、年貢収納率は低下していたのです。年貢率は検見法といって、


徳川吉宗の享保の改革


享保の改革

封建制度の基盤は土地経済だ!農民を自給自足の原始的な生活のなかに閉じ込めておいて、わずかに彼らを生きすぎぬように殺さぬようにして、余分が出たらそっくり召し上げる経済組織だ。

胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」(勘定奉行:神尾春央)というように、救われないのは百姓だ!

 将軍や大名を頂点とする武士社会が、土地を独り占めし、そこに農奴としての百姓を縛りつけて苛斂誅求をほしいままにし、少しでも反抗すれば容赦なく酷刑をもってのぞみ、士農工商穢多非人という厳重な身分制度を勝手に定め、武士が政権をにぎって社会の秩序維持にあたったのが、江戸時代だった。

上米の実施

諸大名に1万石あたり100石の米を上納させた。その代わりに、参勤交代を江戸半年・国元1年半とした。

「御恥辱を顧みられず」と吉宗が自戒しているように、主君たる将軍が従者である大名に物乞いをこうことになり、重大な問題を内包していると言わざるをえない。

足高の制

役職にたいして最低の禄高を決め、在職中だけ原録の上に役料を加給するが、役職をしりぞいたら、もとの原録だけにすることに決めたものだ。

定免法の採用

過去数年間の収穫量の平均を基礎として豊凶にかかわらず一定の年貢を賦課する方法。豊作のとき、上層農民は剰余分を蓄積可能なため、同時に、年貢率の引上げが図られた。一方で下層農民には不利となり、農民の階層分化をいっそう助長した。

④新田開発の奨励

 

質素倹約だけでは、出るものを押さえることはできても、入るものが増えてくれはしない。財源を確保し増徴をはかるために、貢租率は四公六民から五公五民と引き上げられ、割当て方法もこれまでの検見取(毎年の実際の収穫によって租率を決める方法)をやめて

 

 44 江戸⑥ 正徳の治                    

家宣(家綱の甥、もと甲府藩主)

甲府藩主時代は綱豊、3年で病没。柳沢吉保を退け朱子学者で侍講の新井白石の登場。

正徳の治始まる。

家継5歳のため側用人間部詮房

 

 

受験の極意 正徳の治

 中心人物:侍講新井白石と側用人間部詮房が中心

 目標新井白石の儒学思想に裏打ちされた政策

 朝廷政策朝暮間の融和を図るために天皇家を分家として、幕府が特例で費用を献じ

閑院宮を創設。⇒皇位継承を確実にさせようとした

対外政策朝鮮通信使の待遇簡素化 

     将軍呼称の大君から国王への変化 

朝鮮通信使の来日時の国書が将軍をこれまで通り「日本大君」と呼んだことにクレームをつけた。「大君」とは朝鮮では王子の嫡子をさす呼称で、寛永以前の国王に戻すよう指示し、通信使への派手な接待を改めさせた。

 経済政策家宣の時代の時代に家康時代の慶長金銀と同じ純度の乾字金を発行

   1714      ➘➘

   乾字金への交換する動きが活発化せず失敗

         ➘➘

 悪貨の元禄金銀や乾字金などで混乱した貨幣流通の回復と、物価騰貴を抑える目的で、慶長金銀と同じ純度の正徳金銀を発行するが再度の貨幣改鋳でまたも社会に混乱を引き起こす。

 貿易統制1715

  海舶互市新(長崎新)の発布国内の金銀流出防止のため、船は銀高6000貫匁・船数30隻、オランダ船は銀高3000貫匁・船数2隻とする以後幕末まで維持される。

史料研究

一、人(=中国人)方商売の法、凡そ一年の船数、口船、奥船合わせて三拾艘(=30)、すべて高六千貫目(=6000)に限り、其内銅三百万斤を相渡すべき事。…

一、阿蘭陀人(=オランダ人)商売の法、凡そ一年の船数弐艘(=2)凡て銀高三千貫目(=3000)限り、其内銅五拾万斤を渡すべき事。…『徳川禁令考』

   1673年の分地制限令を1713年に改正 

 ★結果儒学的理想主義を重視するあまり現実の状況に対応しきれず、混乱を招く(特に貨幣改鋳)

受験の極意 江戸時代の経済Part1

A商品の流通

経由の商品を蔵物というが、諸藩で徴収した年貢米(これを蔵米という)や特産物は、いったんは大坂にある各藩の蔵屋敷に納められる。そして問屋を経由して商品として流通した。蔵屋敷で蔵物の出納や売却管理を扱った商人を蔵元といい、売却代金の管理をしたのが掛屋である。掛屋には蔵元兼任も多かった。

また江戸で、蔵米取りの旗本・御家人の代理をして蔵米の取引や金融を扱う商人は札差(蔵宿)と呼ばれた。一方、蔵物に対し、蔵屋敷を経由せずに民間の手を経由した物は納屋物と呼ばれた。

流通は、問屋仲買小売消費者

 

 札差につい武士のふところ具合が苦しくなったのは、将軍のお膝元の旗本・御家人といえども例外ではなかった。それどころか、巨大な消費都市江戸に生活しているだけに、深刻になるスピードもいっそう早かった。知行取はその知行地の年貢をあげたりして、まだやりくり算段もいくらかつくが、決まった俸禄しかない蔵米取の頼みの綱は「札差」だけということになる。蔵米取は浅草にあった幕府の米蔵からきまった時期に禄米をもらうのだが、その米蔵の前に発生したのが「札差」という商人で、彼らが旗本の金融をやってくれたわけだ。旗本・御家人は蔵米を春夏冬の三季にわけて受け取るわけだが、ときに米や一部を金で渡すこともあった。しかし米の価格は大坂の堂島の相場が有力になってくるのである。

 

 とにかく、武士が江戸や城下町などの都市に住んで、禄米を金にかえて生活しなければならなくなったとき、すでに彼らの運命はきまったといえる。米相場の上げ下げは商人の手中にある。武士はいつも米の値段の安いときに手放さねばならないように、うまく米商人どもにシテやられた。武士が困ってくると、彼らは年貢の税率をあげて、農民からますます搾りとろうとする。また一方では、貨幣経済の農村への浸透が農民層を分解させて、少数の富農ができるかわり、たくさんの貧しい農民が生まれるのだ。

 

 『幕末の動乱』松本清張著

 

 受験の極意 江戸時代の経済Part2

 

市場 青物市江戸神田 魚市江戸日本 

大坂天満    大坂雑喉場

商人 三井高利 (松坂)  江戸に出て呉服屋越後屋開業

   住友友芳 (大坂)  1691年伊予別子銅山開業、札差業も

 淀屋辰五郎(大坂)奢侈のため全財産没収

紀伊国屋文左衛門(紀伊)みかん・材木で巨富

奈良屋茂左衛門(江戸)材木商、初代は日光東照宮修理で巨富

鴻池宗利 (大坂)海運・両替・掛屋

 

 ☆…旗本・御家人の蔵米の受け取り・売却  金融

 

C.その他    行商人の活躍  ex.近江商人、富山の売薬商人

市場の繁栄  ex.大坂:堂島米市場雑喉魚市場天満青物市場

   江戸:日本橋魚市場神田青物市場

 

■貨幣と金融

(1)貨幣の呼び方

 ・幕府が発行する金貨・銀貨・銭貨を三貨と総称。諸藩が発行する紙幣を藩札という(最初の発行 福井 藩)幕府鋳造権を独占

(2)金貨

・大判、小判、一分金、一朱金などの種類があり、で鋳造

 長官=後藤庄三郎 ex.慶長金銀が最初1601

1両=4分=16朱で4進法で数える。小判1枚を1両と数える 計数 貨幣

(3)銀貨

 

寛永通宝 ・なまこ形の  銀や豆板銀などの種類があり、で鋳造

 

  1貫(3.75kg)=1000匁

 

銀… 銀座 (長官=大黒(じょう)())、貨幣  1貫目=1000匁  金1両≒銀50(変動)

 

 ex.丁銀(40匁前後)、豆板銀の鋳造   ※のち計数貨幣も登場

 

 銭…銭座(民間請負)、計数貨幣  1貫文=1000文  金1両=銭4貫文

 

      ex.寛永通宝(1文、のち4文も)、天保通宝(100文)

 

   三貨…統一貨幣 度量衡も統一…秤座・枡座

 

  • 藩札 …一定地域に限定して流通した紙幣 

    藩財政の窮乏を補う最初の発行=福井

       私札…民間(商人)発行の紙幣

    吉宗の米、田沼の金

    江戸時代の貨幣制度を説明しよう。まず、貨幣にまで身分があったというと驚かれる向きも多かろう。幕府がきめた通貨は「三貨」というが、実は金銀銅鉄の四種である。さて、この地金の貴賤がそのまま人間に当てはめられている。幕府があたえた手当てや褒美をみると、一番はっきりしている。金貨はお目見え以上の旗本、銀貨は御家人以下、百姓町人になると銭ということになる。 

    B.両替商の活躍…三貨間の両替・秤量、預金・貸付・為替、公金の出納

      要因:銀貨は秤量貨幣(東日本)・(西日本)の相場変動  

    東日本の金遣い西日本の銀遣い

    江戸では取引や決済に金貨、京・大坂では銀貨を使っていた。金遣い・銀遣い(金建て・銀建て)という。この理由は、鉱山開発にあり、西日本では銀を多く産出していたため、銀遣いの慣行があった。東日本では、東北地方の金山開発にともなって、江戸幕府が金貨本位策を採ったためである。

      種別:本両替…金銀の交換 蔵元・掛屋を兼業 

    十人両替大坂の本両替から進出

     ex.大坂の鴻池・三都の三井

        銭両替(銭屋)…金銀と銭との交換  庶民対象

    ■豪商の登場

      初期…材木商・などで巨利、早く没落

       ex.紀伊国屋文左衛門(江戸)、材木商…紀伊熊野みかん

    奈良屋左衛門(江戸)材木(日光東照宮で巨利 豪遊)

            淀屋辰五郎(大坂)…蔵元 慶應

    贅沢を理由に財産没収(大名の救済ともいう)

      中期以降  →近代の財閥へ

        ex.・三井家(松坂)…呉服店、両替商、大名貸 創業者三井高利 

                        越後屋…「現金掛値なし」の新商法  →現在の三越

             ・住友家(大坂)…屋号は泉屋 両替商、蔵元、別子銅山

     鴻池(大坂)…酒造(伊丹)、海運、両替、大名貸、掛屋、新田開発