隋書と考古学の語る飛鳥時代

      甘樫丘から見る明日香村
      甘樫丘から見る明日香村

飛鳥時代はどのような時代だったのか!

聖徳太子の時代ではない。蘇我氏の時代だったのだ!

 甘樫丘に登って眺めてみよう!飛鳥に行けば一目瞭然、当時の主要な遺跡はすべて蘇我氏のものである。「奈良県最大の見瀬丸山古墳の被葬者は通説では蘇我稲目。その南の欽明陵は稲目の娘堅塩媛との合葬。二つの巨大古墳の東方にある飛鳥寺・嶋宮・石舞台古墳はいずれも蘇我馬子のものである。近くには蝦夷・入鹿の邸宅と墓も作られた。こう考えると、飛鳥の支配者が蘇我氏であったことが明白であろう。この時代に大和盆地を南北に貫く下ツ道、東西には横大路が開通しているが、その中心は飛鳥である。すべて、蘇我馬子の権力を象徴している。

これに対し、用明、推古、聖徳太子など『書記』の主人公たちの墓は遠く河内磯長で飛鳥ではない。とすれば、『隋書』の倭王は蘇我馬子と考えるしかあるまい。飛鳥時代は蘇我王権の時代だったのである。

聖徳太子という虚像 大山誠一論文から

乙巳の変と大化の改新

改新の内容として確認しうるのは、難波宮の造営である。王権の確立と中央集権の整備が想定できる。また、地方では、国造の数を半分程度の60個にし、その下に評を置き、さらに戸口調査により五十戸制を実現し、統一的税制と徴兵制を実施している。壮大な中央集権国家が実現したのである。

 大山論文は、ここでこの改革の主体は中大兄皇子と鎌足ではなく、蘇我氏にあると主張する。なるほどこれだけの改革最低でも20年を要する。やはり中大兄皇子らは、蘇我王権の改革の最終段階で、唐の高句麗攻撃から始まる東アジアの激動に乗じて権力を奪ったに過ぎなかったのだろう!

藤原不比等の構想=天皇制

天武天皇より不比等が偉大なり!