センター11 占領と戦後の民主化
✿東久邇宮内閣の時代
●占領の開始 2003本
連合国の進駐8.28…連合国軍最高司令官【マッカーサー】来日 降伏文書調印9.2…【重光葵】外相と梅津美治郎参謀総長、ミズーリ号で 連合国軍の日本に対する管理体制➡ここが頻出! 占領方式【間接統治】➡【連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)】の指令を日本政府が実行 【極東委員会】➡ワシントンに設置、11カ国、➾最高決定機関 【対日理事会】➡東京に設置、4カ国(米ソ中英)、GHQの諮問機関 沖縄は【直接軍政】 【プレス=コード】(新聞発行綱領)➡占領軍批判の禁止 |
センター過去問 正誤問題
アメリカは、マッカーサーを最高司令官として直接統治を行なった。
連合国は、占領政策の最高決定機関として対日理事会を設置した。
日本本土はアメリカが軍政をしき、沖縄は連合国軍が間接統治下に置いた。
社会主義者の政治犯は釈放されたが、特別高等警察の活動は続いた。
GHQは天皇制に関する言論の自由と政治犯の釈放などを要求したが、東久邇宮内閣はこれに対応できず総辞職した。
✿幣原喜重郎内閣の時代
●五大改革指令と日本国憲法の制定
【幣原喜重郎】内閣➡マッカーサーより【五大改革】と【改憲】の指令 |
1【女性参政権の付与】➡衆議院議員選挙法が改正され、満20歳以上の男女に選挙権が付与された。 |
2【労働組合の結成奨励】労働三法の制定と労働基本権の保障 |
3【経済の民主化】➡ 財閥解体 と農地改革 |
4【圧政的諸制度の廃止】治安警察法・治安維持法の撤廃 |
5【教育の自由主義的改革】教育基本法、学校教育法、教育委員公選制 |
圧制的諸制度の撤廃
1945治安警察法・治安維持法の廃止
プレス=コードやラジオ=コードによる出版・放送での占領軍批判の禁止
アメリカ映画の上映や民主的映画の製作は奨励、軍国主義的映画は禁止
天皇制批判の自由
1945➡神道指令(国家と神道の分離指令)の発令
神社神道(国家神道)に対する政府の援助・監督を廃止、神社は宗教法人となる。
1946.1.1➡天皇の人間宣言(新日本建設に関する詔書)
昭和天皇は自ら神格化を否定
天皇退位論や戦犯論をかわして象徴天皇制を受け入れ易くする素地を作った。
五箇条の誓文の精神による「民主化」で「新日本を建設すべし」と称した。
戦争指導勢力の追放
1945教職追放令の発令
教育関係の軍国主義者・超国家主義者の追放指令
1946公職追放令の発令
軍国主義者公職追放(公職とは政界・財界・官界・言論界など公共性のある職務)
財閥解体
財閥解体の意図
GHQは財閥を軍国主義の推進力と認識
➡海外市場を求めてアジア侵略を推進、低賃金で労働者を搾取して国内市場を狭隘にした
➡財閥による日本経済の独占的支配を排除して経済の民主化を図る
財閥解体の経過 経過は私大でも頻出★★★
➡1945.11財閥解体指令(持株会社の解体に関する覚書)により15財閥の資産凍結
1046.4➡持株会社整理委員会の設置
持株会社の所有する株式を譲渡させ、株式を公売して株式の民主化を図る
1947.4独占禁止法の制定
株式所有による他企業支配を目的とした持株会社・カルテル・トラストの禁止
➡公正取引委員会が監視
1947.12➡過度経済力集中排除法の制定
各産業部門の自由競争を創り出すために巨大企業の分割を図る法律
➡銀行を除く全産業が対象(財閥系 銀行 は温存)となり、325社を分割対象として指定
財閥解体の結果
➡冷戦による占領政策の転換で不徹底
1949年以降になると独占禁止法はしばしば改正され制限緩和
企業分割は最終的に三菱重工・日本製鉄など11社のみ行われた
財閥は解体されたが独占資本は存続
分割を免れた財閥系銀行を中心に株式持合などにより企業集団を形成
農地改革 難関私大に向け詳しく記した 早稲田対策
➊農地改革の目的
➀ 寄生地主制 の解体による経済の民主化
GHQは 寄生地主制 を軍国主義の温床ととらえた
農村の貧困➡低賃金労働力➡ 国内市場 狭隘➡ 海外市場 依存➡対外侵略
➁農業生産の向上による食糧増産
➂農村の 赤化 防止(農村が 社会主義運動 の拠点となることを阻止)
➋第一次農地改革
➀ 幣原喜重郎 内閣による農地改革
➁1945.12GHQにより農地改革に関する覚書が示される
➂1938年に制定された 農地調整法 を改正して翌1946年1月より実施
▣ 不在地主 の全小作地と在村地主の 5 町歩を超える小作地の解放
▣地主本位の改革で不徹底
▣ 農地委員会 (小作農5人・地主 5 人・自作農5人で構成)が農地の売買にあ
たる
対日理事会 の批判
▪イギリスとソ連の代表が厳しく批判し、GHQは徹底した改革と 幣原 内閣に指示
➌第二次農地改革
吉田茂 内閣による農地改革
1946.10 農地調整法 の再改正と 自作農創設特別措置法 の公布
▪ 不在地主 の全小作地と在村地主の 1 町歩( 北海道 は4町歩)を超える小
作地の解放
▪国家が 地主 から強制的に買収して 小作農 へ年賦で売却
▪山林・原野は除外されたため 山林地主 は残存した。
▪ 農地委員会 (小作農5人・地主 3 人・自作農2人で構成)が農地の売買にあたる
小作料
▪小作料は全て金納化され最高小作料を制限
➡田は25%・畑は15%(従来の平均的な小作料は収穫の50~60%であった)
➍農地改革の結果
寄生地主制の解体
▪全小作地(全耕地の約50%)の約 80 %を解放して自作地とする
➡戦前からの自作地(全耕地の約50%)を合わせ全耕地の約90%が自作地となる
▪小作地は約 10 %残存した
▪ 自作農 は大量に創出されたが、5反以下の零細自作農は戦前より増加
▣農民の購買力向上は 国内市場 の拡大に寄与した
農民の保守化と 農村赤化 の防止
▣ 自作農 となった農民は保守化して 農民運動 は衰退し、農村は保守政党の基盤
▣GHQの意図通りに 農村赤化 は阻止された
☛ センター過去問 正誤問題
戦前の代表的外交官であった幣原喜重郎は、敗戦後最初の首相となった。
吉田茂首相に対し、婦人参政権などの五大改革指令が指示された。
20歳以上の男女に選挙権が与えられ、はじめて婦人参政権が認められたのは、日本国憲法施行後のことだ。
マッカーサーは、国家と神道の分離令hを発したうえ、天皇の神格を否定する宣言を発表した。
軍国主義者とされた人々が公職から追放された。
1945~55年の時期には、財閥などによるカルテル・トラストが禁止されたが、財閥の中枢である持株会社は温存された。
過度経済力集中排除法にもとづいて傾斜生産方式が実施された。
財閥傘下の大銀行が、多数の中小銀行に分割された。
財閥本社の解体のために、持株会社整理委員会が作られた。
農地改革は、重要産業統制法や独占禁止法の制定などとともに、経済民主化の措置として実施された。
幣原喜重郎内閣は、農民の声を背景に、実施に消極的なGHQを説得して農地改革を推し進めた。
食糧管理法にもとづいて、大規模な農地改革が実施された。
食糧増産のために、地主の所有する土地がすべて小作人に売り渡された。
農地改革は、最終的に在村地主の小作地については5町歩に限って認めたので、中小地主は温存されることになった。
農地改革によって、不在地主の小作地は強制的に買収され、小作人に安く売り渡された。