258万年前に始まった【 A 】世は地球全体で気候寒冷化がおこり、氷期・間氷期の交代が繰り返される環境変動期であった。こうした気候に適応して狩猟採集生活をしていたのが旧石器時代の人類である。a日本列島の後期石器時代の遺跡から狩猟具であるナイフ形石器や尖頭器などが見つかっているが、住居はテントのような遊動生活に適したものだった。
約1万1000年前に【 A 】世は終わり、気候が温暖になった。陸氷が融けたため、縄文時代前期には現在より5mほど海水面が高くなった。漁労や貝の採取も盛んでその残滓が捨てられて貝塚が形成された。また、落葉広葉樹や照葉樹林が拡大し、中・小型獣の狩猟が主となり弓矢が発達した。また、木の実やヤマイモなどを採集する以外に、マメ類、エゴマなどの栽培やbクリ林の管理も行われたようだ。植物性食料を煮炊きする縄文土器やc竪穴住居の存在は、定住型の生活になったことを示している。
紀元前1000年前頃から朝鮮半島経由で流入した大陸系文化と、縄文文化とが融合して北部九州を中心にして弥生文化が生成され、d弥生時代の前期には西日本に広まった。弥生社会は水稲農耕を基盤としたe食料生産社会であり、竪穴住居と倉庫で構成される集落が営まれた。
〔問〕
1 文中の空欄Aにあてはまる語句を、漢字2字で記しなさい。
2 下線aに関する記述として、正しいものを1つ選びなさい。
ア 百人以上の集団で生活し、動物を追って列島内を縦横に移動していた。
イ 寒冷乾燥な気候であったため、主としてイノシシなどを狩猟の対象としていた。
ウ 日本列島全体が針葉樹林で覆われ、きわめて豊かな植物性食料に恵まれた。
エ 狩猟には弓矢を用いるのが一般的であり、追い込み漁なども行われた。
オ ナイフ型石器などの打製石器とともに、刃部を磨いた局部磨製石斧が出土することが
ある。
3 下線bについて、クリ林の管理が明らかになったのは、青森市に所在する縄文時代前期から中期の大集落遺跡である。この遺跡の名前を、漢字4字で記せ。
4 下線cに関する記述として、正しいものを1つ選びなさい。
5 下線dに関する記述として、正しいものを1つ選びなさい。
ア 九州北部の支石墓は弥生時代後期には全国的に広がった。
イ 弥生社会は農耕共同体的な社会であり、墓の規模や副葬品に差がなかった。
ウ 弥生時代末まで、鉄はきわめて貴重であり、農工具に用いられることはなかった。
エ 弥生社会の共同体祭祀の祭器が銅鏡であり、集落内で銅鏡を数多く生産していた。
オ 青森県砂沢遺跡では弥生時代前期の水田跡がみつかっている。
6 下線eに関する記述として、誤っているものを1つ選びなさい。
ア 食料生産社会では余剰生産物が蓄積され、やがてこれをめぐって戦いも起こった。
イ 食料生産を行うようになっても、祭礼や儀礼には変化がなく縄文時代と変わりはなか
った。
ウ 乾田は、湿田よりも食料生産性が高かった。
エ 食料生産社会となった弥生時代にも動物の狩猟や貝の採取などが行われた。
オ 弥生時代と同時代の北海道では、水田稲作農耕は行われなかった。
原始・古代の文化 商学部2011(Ⅰ)
今からイおよそ2万年前を過ぎたあたりから地球は徐々に暖かくなり、約1万年前には、大陸から離れた弧状の日本列島が形成され、自然環境も現在に近い状態となった。この新しい自然環境に対応して生まれたのが縄文文化である。縄文時代の人々はロ狩猟、漁労、採集、栽培などにより食料を確保し、土器を作り、竪穴住居に住み、暮らした。また、新潟県姫川流域で産出する〔 ハ 〕の出土分布からは当時の人々が広範囲にわたり
交易をおこなっていたことがわかるが、その社会にはいまだ身分差はなかったと考えられている。
縄文時代末期になると、佐賀県〔 二 〕遺跡で検出された水田跡などにみられるように、北部九州に新しい文化がはじまり、それは瞬く間に西日本に広がった。朝鮮半島より伝わったこの新しい文化は、その後、さまざまな要素を含みながら日本の各地に伝わっていった。これをホ弥生文化という。この時代は、農耕社会を生み、富の配分から争いが繰り返され、その結果、身分差が生じ、権力をもつ王の存在する階級社会が形成された時代で、その様子は中国の歴史書へ『魏志』倭人伝にくわしく記されている。
3世紀後半ごろ、大和を中心として瀬戸内海沿岸から近畿にかけて巨大な墳墓が出現し、ここに新しい文化が生まれた。この文化は古墳文化とよばれ、ト立地、墳形、埋葬施設、副葬品などに共通性が見られることから、その成立の背景にはヤマト王権の存在が想定されている。その後、ヤマト王権は、国内の諸勢力を取り込みながら、激動するチ東アジア世界の中で積極的に外交を展開し、その過程で、リ仏教をはじめ多くの文物を受容して、ついに、7世紀末から8世紀初めにヌ律令に基づく中央集権国家を完成させた。
問A 下線部イに関連して、日本の旧石器文化・時代について述べた文として正しいものは
どれか。
1.当時は地質年代でいう新生代第四紀完新世の時代である。
2.直良信夫が群馬県の岩宿遺跡を発見して、初めて日本の旧石器文化の存在が明らかになった。
3.沖縄県港川で出土した化石人骨は寒冷地適応をとげた新モンゴロイドと考えられる。
4.長野県野尻湖の人々はナウマンゾウを狩猟の対象にしていたと考えられる。
5.狩猟には細石刃により作られた鋭利な握槌が使われた。
問B 下線部ロの内容として誤っているものはどれか。
1.狩猟には落し穴がさかんに使われた。
2.動きの早い動物を獲るために弓矢が使われた。
3.石錘、土錘を用いて網による漁法もおこなわれた。
4.根茎類を掘りおこす道具としてもっぱら石棒が使われた。
5.クリ林の管理、マメ類やエゴマなどの栽培もおこなわれたと考えられる。
問C 空欄ハに入る語はどれか。
1.イモガイ 2.黒曜石 3.コハク 4.サヌカイト 5.ヒスイ
問D 空欄ニに入る地名はどれか。
1.菜畑 2.登呂 3.荒神谷 4.百間川 5.砂沢
問E 下線部ホの内容として誤っているものはどれか。
1.北海道や南西諸島には弥生文化は伝わらなかった。
2.弥生文化は石器と金属器が併用された文化である。
3.柱状方刃の磨製石斧はおもに水田を耕す道具として使われた。
4.農耕とともに漁労、狩猟もおこなわれ、ブタを飼育することもあった。
5.機織りの技術も伝わり、平織りがおこなわれた。
問F 下線部ヘの記述内容と異なるものはどれか。
1.租税が納められ、それを収める倉庫があった。
2.国々には市があり、産物を交易し、一大率という役人に監督させていた。
3.下戸は大人と道で出会うと、後ずさりして、草の中に入った。
4.卑弥呼は呪術にたくみで、よく人民の心をひきつけていた。
5.女王卑弥呼が死ぬと大きな墳丘がつくられ、殉葬者は奴婢100人を超えた。
問G 下線部トに関連して、古墳文化はふつう前・中・後の3期に分けられるが、前期の内容として正しいものはどれか。
1.墳丘の長さ400メートルを超す巨大な前方後円墳が平野部に多く築かれた。
2.墳丘には人物・動物埴輪がもっぱら並べられた。
3.埋葬施設の構造は横穴式石室が一般的であった。
4.追葬のため、玄室に通じる羨道が設けられた。
5.朝鮮半島の影響により、馬具、金銅製装身具とともに須恵器が多量に副葬された。
問H 下線部チにおける4世紀代の政治状況として誤っているものはどれか。
1.中国は南北朝の時代に入り、周辺諸地域への影響力を弱めた。
2.中国東北部の高句麗は朝鮮半島北部に領土を広げ、楽浪郡を滅ぼした。
3.馬韓地域には百済国、辰韓地域には新羅国が成立した。
4.弁韓地域は加耶よよばれ、いくつかの小国が分立した。
5.倭は朝鮮半島での軍事的優位を求めて積極的に中国南朝の宋に朝貢した。
問I 下線部リに関連して、聖徳太子が秦河勝に授けた朝鮮渡来の仏像と伝えられるものはどれか。
1.飛鳥寺釈迦如来像 2.法隆寺夢殿救世観音像 3.広隆寺半跏思惟像
4.法隆寺阿弥陀如来像 5.中宮寺半跏思惟像
問J 下線部ヌに関連して、日本の律令制度の説明として誤っているものはどれか。
1.神祇官と太政官が並置されたが、神祇官の方が下位とされた。
2.弾正台は太政官の指揮の下、官人の監察、非法の取り締まりなどをおこなった。
3.太政大臣は適任者がいなければ、欠員とされた。
4.諸王、諸臣の位階は30階にわかれた。
5.官人は位階に相当する官職に任じられた。
問A
解答1 誤文。2万年前は更新世の時代。1万年前余り前を境に更新世と完新世がキーワー
ドとなる(山川8㌻)。
解答2 誤文。「直良伸夫」を「相沢忠洋」にすれば正文。
解答3 誤文。港川人は古モンゴロイドで新人である。沖縄で出土したのに寒冷適応は日本
語として成り立たない。寒冷適応をとげたのは北東アジア人。南方系の古モンゴロイド
が日本の北方、南方から流入し縄文人を形成した。古モンゴロイドの子孫=新モンゴロ
イドが弥生時代に大量に渡来してきた。
解答4 正文。更新世は氷河時代、野尻湖はナウマン象が闊歩していただろう。
解答5 誤文。狩猟に使われたのはナイフ型石器や尖頭器などの石器を棒の先端につけた石
槍である。細石器は旧石器時代の終わり頃である。
問B解答
1 正文。狩猟には弓矢が利用され、落し穴などもさかんに利用され(教科書13㌻)と
記載がある。
2 正文。上記1参照。
3 正文。
4 石棒は呪術的風習をもつ遺物であって掘りおこす道具ではない。
5 正文。(山川12㌻参照)
問C解答
新潟県姫川流域は、ヒスイの産地である。山川に「ひすい」の記載はあるが分布図の記載はないので、注意しなくてはいけない。
問D解答
佐賀県の水田跡は菜畑遺跡である(教科書15㌻脚注❶)。
問E解答
1.正文。弥生文化は北海道や南西諸島には及ばず、北海道では続縄文文化、南西諸島では貝塚文化と呼ばれる食料採取文化が続いた(山川15㌻脚注❷)。
2.正文。弥生文化は、磨製石器(石包丁など)と金属器が併用された。
3.誤文。柱状片刃は伐採用である(教科書17㌻弥生時代の農具)
問F解答
魏志倭人伝の史料を読んでいるかが試される。どれも基本事項である。2が誤文。
邪馬台国の支配キーワード
卑弥呼は鬼道で統治に成功。実際の政治は男弟が助力、同盟国には一大率という監督官が派遣。国々には市(市場)があり、そこには大倭という役人が監督していた。その社会には「下戸」(一般の庶民または奴隷)と大人(支配者や上級の身分の者)という厳しい身分の差があった。
問G解答 古墳時代は前期・中期・後期ごとに整理するのがカギ。
1 誤文。墳丘の長さ400メートルは、大阪の大仙陵古墳であるが古墳中期のものである。
2 誤文。
期 |
世紀 |
古墳 |
|
|
前期 |
3C末~4C |
各地に 【前方後円墳】 |
【 竪穴式石室 】 副葬品 鏡・玉 被葬者:【 司祭者的 】性格 |
箸墓古墳(奈良)…前期最大273m 最古の前方後円墳 卑弥呼の墓? |
中期 |
4C末~5C |
各地に 【前方後円墳】 |
【 竪穴式石室 】 副葬品:武具・【 馬具 】 被葬者:【 武人的 】性格 |
【 大仙陵古墳 】 【誉田御廟山古墳 】(大阪) |
後期 |
6C~ |
【群集墳】 |
【 横穴式石室 】 (玄室・羨道) 副葬品: 【 土師器 ・ 須恵器 】 |
|
終末 |
7C |
前方後円墳の消滅 |
|
|
須恵器は5世紀
原始〜近世の東国と西国(原始)法学部2011
本州の中央を境とし、日本列島を大きく二つに分けて考察することにより見えてくる歴史がある。a縄文時代、その遺跡・遺物は日本列島に広く分布するが、【 A 】から東北にかけて、大規模な遺跡があり、遺物も深鉢の土器など豪壮なものが多い。これに対して、九州など西の地方から出土される縄文土器は精徵ではあるが、概して小さく、量的にも多いとは言えない。逆に弥生時代になると、b九州地方には多くの遺跡がみられるようになり、遺物も大量に出土し、中国大陸や朝鮮半島との交流の跡もみられるようになる。
古墳時代には、ヤマト政権の成長によって、近畿中央部に大規模な古墳がみられるようになり、上毛野と呼ばれた今の群馬県や京都府北部(丹後)、c岡山県(吉備)、宮崎県(日向)などにも大規模な墳丘を有する古墳がみられ、中央政権とそれを支える地方豪族の姿が明瞭に見えてくる。
〔問〕
1 空欄【A】に入る2字を記しなさい。
2 下線aについて。この時代の生活と文化を解説した文として正しいものはどれか。1つ
選びなさい。
あ 地球が温暖化し、日本列島は照葉樹林で覆われ、人々はシイの実などの採集によって
生活することができた。
い 縄文土器は、高温で焼かれたため、丈夫で大型化し、また様々な装飾を付することが
可能となった。
う 神津島の黒曜石は、伊豆半島と島嶼部に分布するが東京湾岸で使用されることはなか
った。
え この時代の人々は丸木舟を使用していたので、外洋航海をすることはなかった。
お この時代の葬法としては、被葬者の体を強く折り曲げる屈葬が一般的であった。
3 下線bについて。この時代には、水田耕作が本格的に行われるようになり、それを基盤として文化が花開いたといえる。次の遺跡のうち、水田跡・水田関連施設が発見されていることにより、著名になったものはどれか。2つ選びなさい。
あ 上野原遺跡(鹿児島県) い 菜畑遺跡(佐賀県) う 泉福寺洞穴遺跡(長崎県)
え 板付遺跡 お 早水台遺跡
4 下線cについて。この地方に存在し、墳丘の長さが360メートルあり、日本列島の中で第4位の規模を有するものは何か。漢字2字で記しなさい。