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古代から近世の貨幣制度史 一橋大 20021

 

次の文章を読み,下記の問いに答えよ。

 日本における貨幣の歴史は,一般に七〇八(和銅元)年の和同開珎の鋳造・発行に始まるとされている。その後も律令政府は,皇朝十二銭と呼ばれる貨幣を次々と発行したが,一〇世紀中頃には途絶えてしまった。一二世紀中頃より宋銭が輸入され,商品経済の発達とともに使用範囲を広げ,後に輸入された明銭とともに中世社会における基本的貨幣の役割を果たした。一六世紀にはいると撰銭問題が深刻化し,室町幕府や戦国大名は撰銭令を発布して対応したが,一七世紀には徳川幕府が寛永通宝の発行などを通じて日本独自の貨幣制度を整備し,全国的な商品流通の発展を支えた。

問1 律令政府が貨幣を発行した目的と,その使用の実態について説明せよ。
問2 日宋貿易と日明貿易との性格の相違について説明せよ。
問3 宋銭や明銭の使途・機能について説明せよ。
問4 徳川幕府が整備した貨幣制度の特徴を説明せよ。

貨幣史を古代から近世のスパンで整理すること、明治時代から昭和戦前までのスパンで整理すること。この二つが一橋対策になる。今回貨幣史を作成するにあたり過去問を探るとありました2002年第1問。

 

1唐を模倣して律令国家の体裁を整えること,歳入不足を補って都の造営費などの経費を調達することが目的とされた。政府は流通促進のため蓄銭叙位令を出したが,京・畿内以外ではあまり流通しなかった。
2日宋貿易は正式な国交に基づかない私貿易であり,民間商船が往来した。一方,日明貿易は正式な国交に基づいた公貿易であり,明が海禁政策をとったため,中国商人の海外渡航は禁じられ,日本の遣明船は勘合所持を義務づけられるなどの制限が加えられた。
3商品の交換手段として機能しただけでなく,年貢の代銭納のように支払手段として,また蓄財や貸付のための手段としても使われた。
4貨幣鋳造権を独占する江戸幕府のもと,規格の統一された三貨が全国的に通用した。しかし,江戸の金遣い・上方の銀遣いと地域的な相違があったうえ,金貨・銭貨は計数貨幣,銀貨は秤量貨幣であり,三貨に共通する貨幣単位も存在せず,統一的な貨幣制度は整備されなかった。
(総計400字)

 

まずは、貨幣史として考えてみよう。

奈良時代

唐にならい律令国家の体制をととのえることと、宮都造営費用の支払いや造営に雇われた人々への支払いが目的であり。蓄銭叙位令を発したものの、京・畿内を中心とした地域の外では流通しなかった。(山川39㌻)。教科書に書いてあるとおりの答えである。稲や布を持った地方の人々が現在の奈良市内、東大寺南大門あたりは人で溢れていたんだろうな!と思う。

■鎌倉時代

中国大陸では貨幣経済が沸騰し、宋人商人が貨幣を携えて日本に出没し始める。新進気鋭の日本史評論家の輿那覇潤(愛知県立大准教授)が言うところの「中国銭」の時代中世が始まったのである。農業の物々交換に立脚していた古代経済に怒涛の如く入ってきたのが宋銭だった。対中貿易を通じて宋銭をどんどん流入させ、農業と物々交換に立脚した古代経済を一新し、かつ荘園制に立脚した既存の貴族から実権を奪い取っていく。この科挙以外の部分で、宋朝中国のしくみを日本に導入した革新勢力が、後白河法皇と平清盛の強力タッグ、西日本中心の平氏政権だ(「中国化する日本」輿那覇潤)。こうした勢力に対し果敢に挑んだのが、荘園制度のアガリで食っていた貴族や寺社勢力と国際競争に適した主要な産品がなく、没落必至の関東地方の坂東武者である。源氏登場というわけである。しかしこうした対立構図はある程度当てはまるが、学問的論拠はない。イメージ程度でいい。

12世紀中ごろ、宋銭の輸入始まり13世紀拡大

背景農業生産力の拡大(これは農業の集約化です。技術や労働力を投入して、単位面積あたり収穫高の増加を図るということ)や手工業の発達により寺社の門前や交通の要地などに定期市(三斎市)が開かれるとともに、年貢の銭納化も進んで、交換手段としての貨幣の需要が高まっていた。さらに遠隔地間の取引には、膨大な量の銅銭の授受に代えて手形で代用する為替も使われるようになり、鎌倉時代には金融機関としての借上もあらわれた。

 こうした生産や流通の拡大にともなう貨幣経済の発展は、分割相続による所領の細分化に加え、蒙古襲来の多大な軍事負担を強いられていた武士の窮乏化をさらに進めていった。1297(永仁5)年、幕府の御家人の救済を目的に永仁の徳政令を発し、その第2条で質入れや売却した御家人の所領の無償取り戻しを認め、さらに第3条では、御家人の金銭貸借に関する訴訟は受理しないと規定した。徳政とは仁政とか善政を意味するもので、為政者が天変地異などが起こる原因を自らの不徳と認識し、受刑者の減刑や生活困窮者の債務免除などを実施することであり、古代以来日本でも度々おこなわれてきた。この永仁の徳政令が発布されて以降、徳政といえば債務の放棄を意味するようになり、高利貸たちの社会への進出は、あらゆる階層の人々から徳政を求める声が高まっていった

荘園農地をがっちり押さえているのは鎌倉幕府の公的御家人に対し、北条得宗家の私的使用人だった御内人は貨幣と商業を基盤に急速に勢力を拡大し、両者の内紛で鎌倉幕府はガタガタになっていく。

そこで登場したのが後醍醐天皇である。

 

続く...中世には全国を一元的に支配する権力は存在しなかった。鎌倉時代は公武二元支配、室町幕府は混乱に明け暮れ弱体であった。国内で銭貨を発行できる