一橋大学では明治憲法の統帥権についての出題多し。2002年度、2009年度を以下に紹介する。
2002年 第3問
戦前日本の軍隊について,以下の問いに答えよ。
問1 明治憲法では,陸海軍に対する最高指揮権は,どのように規定され,どのように解釈されていたか,具体的に説明せよ。
問2 同じく明治憲法では,陸海軍の兵力量の決定権は,どのように規定されていたか,具体的に説明せよ。
問3 陸海軍は,内閣からの統制を阻む独特の制度によって,政治的にも保護されていた。その制度の内容と,その歴史的変遷について具体的に説明せよ。
問4 明治憲法は,その第20条で,「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」と定めていた。戦前日本の兵役制度について,植民地である朝鮮・台湾も含めて,具体的に説明せよ。
2009年 第3問
戦前期日本の陸海軍について,下記の問いに答えなさい。(問1から問3まですべてで400字以内)
問1 陸海軍のあり方を支えた制度の一つに「統帥権の独立」があった。この「統帥権の独立」について,参謀総長・軍令部長(1933年以降は軍令部総長)の果たす役割にも言及しながら,具体的に説明しなさい。
問2 「統帥権の独立」の解釈が政治的対立の重要な争点となった事件があった。解釈の相違に留意しながら,その事件の経緯を具体的に説明しなさい。
問3 アジア・太平洋戦争の敗戦後,ポツダム宣言に基づき陸海軍の武装解除と復員が行われた。これと並行して,GHQは,経済改革・教育改革など,広範囲な非軍事化・民主化政策を次々に実施したが,直接的な非軍事化政策の要となる政策を二つあげ,その内容を具体的に説明しなさい。
軍部の成立
日清・日露戦争までは国務にも統帥にも能力を発揮した明治の元勲たちがいた。山県有朋・伊藤博文、そしてそれらを支える藩閥が健在で、彼らが基本的な国家戦略を決定し、軍事官僚たちはそれに基づいて軍事戦略・作戦を構想した。しかし日露戦争後は、1900年の軍部大臣現役武官制によって統帥権は防御され、軍部大臣は国務大臣と統帥機関という二重の性格を有し、帷幄上奏権という特権を保持したことによって軍部は政治へと発言力を強化する。
1907年明治天皇は、陸海軍が上奏した「帝国国防方針」などを裁可した。これは、日本の軍事戦略の基本プランである。のちに首相となる参謀本部第一部の田中義一が作成した。ここで大事なのは政府でなく軍部が国家戦略を作成したということである。
天皇の軍隊における統帥権の独立
日本陸海軍の最高位の軍人である大元帥・天皇が、軍隊を指揮・統率する権限が統帥権(統帥大権)である。条文上はともに、天皇が直接行使する大権であるが、慣習的に統帥権は内閣の介入を許さず、天皇に直属する参謀本部や海軍軍令部などの軍令機関が輔翼するものとされた。統帥権の独立とは【内閣】からの独立という意味である。一方、編制権を含む天皇の国務大権は、内閣が【輔弼】するものとされた。
憲法の条文上
憲法第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第十二条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
これしか書いてない。
憲法の条文上は不明確な統帥権の独立は、憲法発布後に公布された内閣官制第七条に
陸海軍大臣が天皇に上奏し裁可を受けた事項は、のちに総理大臣へ報告すれば事足りるのである。政府と軍に圧倒的に影響力を持った明治の元勲たちが、基本的な国家戦略を決定し、軍事官僚たちはそれに基づいて軍事戦略・作戦を構想した。元勲が健在なうちはよかった。しかし、1910年代以降、元勲(とりわけ元老)たちが次々と死去し、国家戦略の決定そのものに軍の官僚組織が大きな影響力を持つようになると、元勲・藩閥という属人的要因によって抑制されてきた、統帥権の独立による国務と統帥の分裂は、実質的なものとなる。
ここでは軍がもちだした統帥権の独立とは、軍にたいする政府の介入を拒否するということである。国務と統帥の分裂である。内閣の言うことは統帥側が拒否できるのだ。
軍部大臣現役武官制の成立
1900年 第二次【山県有朋】内閣
❺ 軍部大臣現役武官制 1900
➡陸相・海相は現役の大将・中将から任用
➡政党の軍への介入を避ける。軍部が協力しないと内閣が成立しない。
軍部大臣現役武官制の制度化は、政党内閣が発足しても、議会・政党勢力が、軍政に影響力を行使できないようにするための方策だった。
この内閣は【文官任用令】の改正にもみられるように、政党勢力を官僚機構に浸透させないことに力を注ぐ。
帷幄上奏権
帷幄上奏とは統帥機関の長が、軍機軍令に関して行う上奏のことである。重要なのは統帥機関の長から、軍部大臣による帷幄上奏が容認されていったことである。軍部の軍令は天皇の親署・御璽に軍部大臣の副署のみで統帥事項の軍令が公示されるようになったのである。
統帥機関は政府の立ち入りできない絶対的な領域を制度化することに成功したのである。
政府から相対的に自立した戦略の保持
「帝国国防方針」の策定
日露戦争後の1907(明治40)年、明治天皇は、陸海軍が上奏した「帝国国防方針」を裁可した。これは、軍部が主導して仮想敵国と軍事戦略を決め、必要とする兵力量を定めた上で、政府のその承認を要求する方法である。日露戦争の勝利と韓国支配の実績が、陸軍に政府から相対的に自立した戦略をもたせる最大の要因となった。
例えば
「帝国ノ国防ハ攻勢ヲ以テ本領トス」とされ、先制・主動第一主義が定められた。「自衛」が、必ずしも「主権線」の防衛ではなく、その外側に設定した「利益線」の防衛であることは、この時代の国家・軍主導者に支配的な戦略発想である。また、日本の国力が不十分なので、短期決戦をめざす軍事戦略が採用されている。
16日露戦争と朝鮮植民地化プリントから
1907.4 ➡ 帝国国防方針 が出される
☈八・八艦隊の誕生
陸軍は17個師団を25個師団に、海軍は戦艦・巡洋艦数をともに8隻とする八・八艦隊を目指すこととなる。
帝国国防方針の問題点
①重要な国家戦略の決定に政府は関わっていない。
②軍が主導して将来の軍事力構想を決定したこと。
③政府の外交戦略と軍の軍事戦略に齟齬が生じたこと。
日露戦後の軍拡と二個師団増設問題
17韓国併合と二個師団増設問題 プリントから
1912.11
第二次西園寺内閣では、悪化する財政を立て直すため、行財政整理を行なうことが急務になっていた。しかし、陸軍は朝鮮に駐屯させる2個師団の増設を要求した。これは、1907年策定の「帝国国防方針」で、陸軍の平時の兵力を17個師団から25個師団に増強することになっていたが、2個師団の増設しか実現せず、1912年までに21個師団に増設することを要求した。いわゆる二個師団増設問題である。
陸軍2個師団増設案が閣議で否決され、上原勇作陸相が単独で辞表提出
➡内閣総辞職。=陸軍2個師団増設問題
☈陸軍が後任の陸相を出さず内閣は倒閣。軍部大臣現役武官制が悪用された形となった。なお2個師団増設の実現は第2次大隈重信内閣。