大正政変
大正天皇即位
1912年7月、明治天皇が没し、大正天皇が即位した。この頃(美濃部達吉)が『憲法講和』を著した。その内容は「天皇機関説」であり、天皇は国家の機関であり国家は法人であるとする(国家法人説)でもあった。
👉のちのち天皇機関説は軍部・右翼から攻撃を受けるのだ!
2個師団増設問題
日露戦争後の1907年、借金まみれの日本に三つの勢力が自己の利益を追求した。与党政友会は、鉄道建設など➡積極的な財政政策を、商工業者は➡減税を、軍は➡(帝国国防方針)を初めて作成し、海軍は八・八艦隊の創設を、陸軍は2個師団の増設である。
👉日本陸軍の目標は、満州にあった。そのため仮想敵国はロシアと清(中国)だったのである。中国の新政権は漢民族であり、満州への日本進出には強く抵抗しないだろうと陸軍は考えていた。
辛亥革命による中国の混乱とその朝鮮への波及を警戒した陸軍は1912年、第2次西園寺内閣に対し、朝鮮駐屯の師団を2つ新設することを要求した。(2個師団増設問題)。西園寺内閣が財政緊縮を理由に拒否すると…続く
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第2次 西園寺公望 |
与党:立憲政友会
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①1912年➡中華民国の建国 👉漢民族の復権 |
第3次 桂太郎
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天皇の詔勅を受けて組閣 しかし(内大臣・侍従長)の経験 👉桂太郎が内大臣兼侍従長に就任し、宮中で天皇を補佐する任務に就いた。元老山県有朋が宮中をも自らの派閥に組み込むとともに、山県とは異なる政治姿勢を見せつつあった桂太郎を宮中に押し込めるという目論見だった。
桂首相➡新党結成で対抗 立憲同志会結成 これが盲点。 (加藤高明総裁) =立憲国民党の反犬養派などが参加➡多数派形成に失敗 民衆の暴動発生 ➡内閣総辞職=大正政変1913 民衆運動強いな! |
宮中・府中の別を乱したと批判(第一次護憲運動)の高揚 全国に広がる スローガンが出る。 「憲政擁護・閥族打破」 参加…政党政治家2人絶対、政党名もセットで。 尾崎行雄(政友会) ・犬養毅(立憲国民党)が中心 尾崎は衆議院連続25回当選 「憲政の神様」桂内閣の不信任案を可決しようとする万余の群集がデモ!
桂は内乱の危機を感じる
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史料研究 出典『時事新報』
『御聞きなさい。彼等(=藩閥政府)ハ常ニ口ヲ開ケバ直ニ忠愛ヲ唱へ、恰モ忠君愛国ハ自分ノ一手ノ手専売ノ如ク唱へテアリマスルガ、其ノ為ストコロヲ見レバ常ニ玉座(=天皇ノ権威)・・・彼等ハ玉座ヲ以テ胸壁トナシ、詔勅ヲ以テ弾丸ニ代ヘテ政敵ヲ倒サントスルモノデハナイカ。・・・又、其内閣総理大臣ノ位地ニ立ッテ、然ル後政党ノ組織ニ着手スルト云フガ如キモ、彼ノ一輩ガ如何ニ我憲法ヲ軽ク視、其精神ノアルトコロヲ理解セナイカノ一斑ガ分ル。』
Q1.彼等とは誰を指すのか。(国学院)桂太郎
Q2.政党とは★★をさす。(南山大)立憲同志会
Q3.この演説を行なった人物は誰か。(同志社)尾崎行雄
NOTE 大正政変前後の政治構造を400字で記す問題が筑波大で出た。
内閣 |
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山本権兵衛
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藩閥官僚勢力の後退 1912~13与党➡立憲政友会 ➡軍部大臣現役武官制の改正1913…現役規定を削除➡任用資格を予備役・後備役に拡大 陸軍の反対押し切った 現役を終えた軍人でも陸相・海相になれる ➡文官任用令改正➡政党員が高級官僚になれるようにした(藩閥政府に政党員が食い込む) 1914.1➡ジーメンス事件 (海軍高官の収賄事件) ☈軍需品購入を巡りドイツ・ジーメンス社とイギリス・ヴィッカーズ社と海軍との間の贈収賄発覚、民衆騒擾が発生➡内閣総辞職
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都市民衆運動の進展 1914 廃税運動の広がり ➡中小実業家が営業税などの廃止を要求【営業税・織物消費税・通行税の3悪税廃止運動が起こる】
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大隈重信Ⅱ 1914〜16 はじめての (政党内閣)
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1915.1 日本の中国侵略 中国における利権拡大のため、加藤高明外相が袁世凱政権に ➡二十一ヶ条の要求を突きつける。大隈内閣時にがポイント ①山東省のドイツ利権継承 ②南満州鉄道及び東部内蒙古 ③福建省の他国への不割譲を再確認 ④日中合弁事業の承認 ⑤中国政府顧問として日本人を雇用 |
(99)年延長と漢冶萍公司 漢→ 冶→大冶鉄山 萍→ ➡中国は5号要求を除きこれを受諾。中国民衆は受諾した日(5月9日)を国恥記念日とする。なお、日本ではこの時東洋経済新報社記者 石橋湛山が中国への利権返還の論陣をはり、「青島は断然領有すべからず」 小日本主義を唱える。小日本主義が東大で出た。 第一次世界大戦に、日本が参戦した目的,それを実現するためにとった行動,その後の結末について具体的に説明しなさい、が一橋大で出た。
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与党(立憲同志会)
総裁:加藤高明外相元老山県の支持➡民心の沈静化・政友会への対抗を期待。
1914✖︎第一次世界対戦勃発
✖︎サライェヴォ事件が契機が出る。日本は三国協商側についた。
1914.7オーストリア、セルビアに宣戦布告
1914.8月、第2次(大隈重信)内閣は、(イギリス)がドイツに宣戦布告したことを受けて、(日英同盟)を理由に参戦。参戦を主導したのは(加藤高明)外務大臣であった。宣戦布告時はイギリスとの間で軍事行動の範囲について合意に達していなかったことが出題された。
三国同盟側:(ドイツ)(オーストリア=ハンガリー)ブルガリア・トルコ、イタリア
三国協商側:(イギリス)(フランス)(ロシア)・ポルトガル・ベルギー・ルーマニア・ギリシア・セルビア・モンテネグロ。日本はイギリスと日英同盟協約、ロシアと(日露協約)を結んでおり、三国協商側にあった。
ドイツに参戦8.23
ヨーロッパでの戦闘には、海軍艦艇を(地中海)に派遣した。アジアでは、中国の(山東)半島に進撃し、(青島)を占領した。何故かについては下記参照。太平洋の南洋諸島とは(マーシャル)諸島、(カロリン)諸島等のことであることが出た。史料にある、井上馨が、第一次世界大戦を「天佑」と表現したことも出た。
中国の青島を何故陸軍は欲しいのか!このとき日本はドイツが敷設した憀済線(青島-済南)という鉄道を占領する。日本は中国に何かあった場合、山東半島の南側の付け根にある憀州湾や青島などに上陸して、そのあとは鉄道で西に進んで、軍隊をバーッと済南まで運んでしまえば、中国の鉄道で天津、北京というルートで北上できる。中国を海と陸から攻撃できるのだ。また南洋諸島は、日本がアメリカと戦争しようとするときには、太平洋の真ん中の島は、海軍の根拠地として必要になる。
は鉄道で西に進んで、軍隊をバーッと済南まで運んでしまえば、中国の鉄道で天津、北京というルートで北上できる。中国を海と陸から攻撃できるのだ。また南洋諸島は、日本がアメリカと戦争しようとするときには、太平洋の真ん中の島は、海軍の根拠地として必要になる。
が連合国へ参戦→ドイツ国内で革命、降伏(1918-11)
☈アメリカ参戦の理由
1915年イギリスの客船、ドイツの指定する航路以外を通る船は民間船でも攻撃作戦、アメリカ人を乗せた船撃沈➡アメリカ参戦へ
☶史料研究1
一、今回欧州ノ大禍乱ハ、日本国運ノ発展ニ対スル大正新時代ノ[天佑]ニシテ、日本国ハ直チニ挙国一致ノ団結ヲ以テ、此[天佑]ヲ享受セザルベカラズ。
Q1.今回欧州ノ大禍乱」とは★★をさす。(学芸大)第一次世界大戦
Q2.この発言は★★が行った。(日本大)井上馨
☶史料研究 二十一ヶ条の要求
第一号・・・支那国政府ハ、[独逸]国ガ[山東]省ニ関シ条約其他ニヨリ支那国ニ対シテ有スル一切ノ権利・利益・譲与等ノ処分ニツキ、日本国政府ガ独逸国政府ト協定スベキ一切ノ事項ヲ承認スベキコトヲ約ス。
第二号・・・両締結国ハ、[旅順][大連]租借期限竝[南満州]及安奉両鉄道各期限ヲ何レモ更ニ[九十九]ヶ年ツツ延長スベキコトヲ約ス
第三号・・・第一条 両締結国ハ、将来適当ノ時機ニ於テ[漢冶萍公司]ヲ両国合弁トナスコト・・・ヲ約ス
第五号・・・一、中央政府ハ政治財政及軍事顧問トシテ有力ナル日本人ヲ傭聘セシムルコト
(『日本外交年表竝主要文書』)
西原借款
1917年(寺内正毅)内閣が(段祺瑞)政権【袁世凱死後の実権を握る】に対し無担保で巨額の借款を供与した。この名称は、首相の秘書(西原亀三)に由来、金額は、(1億4500万)円といわれる。
石井・ランシング協定
アメリカは、日本の中国進出を警戒していたが、第一次世界大戦への参戦にあたって太平洋の安定が必要なことから、日本と協定した。当事者は、特派大使(石井菊次郎)と(ランシング)米国務長官。中国の(領土保全)(門戸開放)というアメリカの建前と日本の特殊権益を地理的理由から認めるという内容を併記している。
「…日本は今日同盟条約の義務に依って参戦せねばならぬ立場には居ない。条文の規定が日本の参戦を命令するような事態は、今日のところでは未だ発生しては居ない。ただ、一つは(①イギリス)からの依頼に基づく同盟の情宜と、一つは帝国が此機会に独逸の根拠地を東洋から一掃して、国際法上に一段と地位を高めるの利益と、この二点から②参戦を断行するのが機宜の良策と信ずる」(加藤高明)史料 ①の国と②の人物名が出た(早稲田)政経。