18 ワシントン体制・協調外交・社会運動の勃興
パリ講話会議
内閣 |
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原敬 |
立憲政友会内閣
⑥1921✖︎原敬刺殺される |
①1918大戦終了 米大統領(ウィルソン)提唱の14ヶ条に基づき ②1919パリ講和会議開催 (西園寺公望・牧野伸顕) 随員➡近衛文磨も記憶したい。 近衞はこの会議後『日本及日本人』に(英米本位の平和主義を排す)を執筆している。 ③1919ヴェルサイユ条約 締結時の首相【原敬】が出た。 |
重要POINT 日本が条約で獲得したもの
(1)中国山東省の旧ドイツ権益継承 ←→ 中国の反発:五・四運動
(パリ講和会議の最中に起きたため中国は条約を批准していない)
(2)赤道以北のドイツ領南洋諸島の委任統治権
(マリアナ諸島やパラオ諸島)→地図にマリアナ諸島とパラオ諸島印す(出た)
ヴェルサイユ条約締結にあたり、日本は(人種差別撤廃案)を熱心に主張したが、列国の反対で条約には反映されなかった。アメリカでの日本人移民排斥運動が激しかったからともいわれる。
1924年にアメリカでは日本人移民入国禁止法=(排日移民)法が成立している。
国際連盟
ウィルソンの14ヶ条【民族自決】に基づき【国際紛争の平和的解決と国際協力のため】1920年に(国際連盟)設立。提唱国アメリカは上院の反対で加盟できず【伝統的なモンロー主義から】、常任理事国は(英・日・仏・伊)であった。1920〜26年事務局次長を務めたのが五千円札になった新渡戸稲造が出た。
第一次世界大戦後のアジア情勢
POINT
①三・一独立運動1919.3.1パリ講和会議の最中に(ソウル)で朝鮮独立を宣言する集会とデモ発生。デモは朝鮮全土に広がった。日本は軍隊・憲兵を出動、逮捕・投獄・拷問を行い多数の犠牲者発生。これを➡三・一独立運動という。この運動をきっかけに「武断主義」から「文治主義」への転換が図られた。
具体的には、⒜朝鮮総督資格者を現役軍人から文官にまで拡大する⒝憲兵警察を廃止するなどの措置がとられ、これにより総督の軍事指揮権はなくなったが、そののちも陸・海軍出身者以外の総督が任命されることはなかった。しかし、こうした文治政治のもとでも、朝鮮を武力で抑えこもうとする植民地支配の本質は変わらなかった。
②憲兵警察
軍隊内の犯罪調査・思想取締りなどを主な任務とする軍事警察のことを、日本では憲兵といった(1881年設置)。
③五・四運動
1919年5月4日(山東省)の旧ドイツ権益を日本に継承させる決定を行ったことに対する抗議のデモを➡五・四運動という。その後の民族主義高揚のきっかけとなった。この運動の過程で(日貨)排斥があった。ヴェルサイユ条約の調印を拒否。
④在華紡
在華紡とは、中国において日本の有力な紡績会社などが経営した紡績業のこと。
NOTE 憲政会と政友会の外交政策
平和と民主主義の憲政会と侵略と天皇主義の政友会
憲政会(←同志会)=中国への干渉→不干渉、普選実施
憲政会は加藤外相が獲得した 山東権益 を守りたいため、初めは武力介入も辞さないとしていた。しかし、大隈外交で失敗したため、後に路線を 協調外交 に転換してゆく。節操がないと言われたので、 普通選挙法 実現で点数を獲得する路線をとった。支持者は 資本家 であり、労働運動の機先をそらすため、普通選挙実現は重要だった。
政友会=普選反対、積極政策、軍拡無理→協調外交
政友会の支持者は地主であり、小作が力を持つと厳しいので 普通選挙には消極的 だった。これだと国民の人気がなくなるため、支持を得るために 積極政策 を展開した。大戦景気の終焉で、積極政策を維持するためには財源の確保が欠かせず、中国介入のために軍拡をすることは考えられなかった。
ワシントン会議
内閣 |
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高橋是清
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立憲政友会内閣 原敬が暗殺されたのが1921年11月4日、ワシントン会議開催が11月12日であるから、ワシントン会議期間の大半は(高橋是清)内閣時である。
ロシアが消滅、イギリスは南下を意識する必要なし
③ワシントン海軍軍縮条約1922 ワシントン海軍軍縮条約では、米・英・日・仏・伊5カ国が、主力艦の保有比率と今後 10年間の主力艦建造禁止 に合意。主力艦、空母の総トン数制限 米:英:日:仏:伊= 5:5:3:1.67:1.67 数字出た
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1921〜22㈿ワシントン会議 米:ハーディングの提唱 緊張緩和を名目に日本を統御 日本側全権:加藤友三郎(海軍) 幣原喜重郎(駐米大使) POINT ①【四カ国条約】1921 太平洋地域の現状維持に合意、 米・英・日・仏であること。この結果➡日英同盟協約が廃案になったことは絶対覚えよ。 ②【九カ国条約】1922 中国での新しい権益獲得を禁止した(中国の領土と主権の尊重、中国における経済上の門戸開放・機会均等を約束)。これにより ➡石井・ランシング協定は廃棄された。 米・英・日・仏・伊・ベルギー・ポルトガル・オランダ・中国 ④【山東省の旧ドイツ権益】 日中間の直接交渉で、山東省の旧ドイツ権益を中国に返還する条約が成立。
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協調外交
ワシントン会議の結果→受け入れ積極的になった。
加藤友三郎内閣
自身が手がけた海軍軍縮条約を履行し、陸軍の軍縮【(山梨半造)陸軍大臣により軍縮が実施された。約6万人削減。これを➡山梨軍縮という。この軍縮が反発を招くのだ!1923.8.23首相在任中に没。外務大臣内田康哉が臨時代理となった。
原内閣時の✖︎尼港事件【ニコライエフスク港で日本軍が抗日武装ロシア人に包囲され、日本人居留民・将兵が殺害された事件】が、撤兵の遅れた理由の一つ。加藤内閣のもとでシベリアから完全撤兵したことが出題された。論点は3つ。①アメリカの提議を受けての共同出兵であったこと
②出兵は失敗に終わり、英・仏・米軍は逐次撤退。日本軍は1922年に撤兵した。③ただし、1920年5月に起こった尼港事件を理由として北樺太に軍隊を送り、シベリアからの撤兵後も、1925年の「日ソ基本条約まで、北樺太に駐留を続けたこと。
この時期、協調外交が展開されたが、在華紡のストライキを契機として
五・三〇事件も発生した。協調外交は、立憲政友会内閣から始まったが、立憲政友会が陸軍大将(田中義一)総裁によって軍部と親和的になった後は、(憲政会)→(立憲民政党)の政党内閣が(幣原喜重郎)を外務大臣に起用して協調外交を引き継いだ。
友愛会
1912年=鈴木文治により組織、1919年には市川房枝が友愛会婦人部に入会。
友愛会(労使強調路線)→大日本労働総同盟となり、1920年に第1回メーデーを主催、1921年には➡日本労働総同盟となった。労使協調主義から階級闘争主義へと変化していく。
日本農民組合
米騒動を契機とする朝鮮や台湾での米の増産と日本国内への流入が、米価を低迷させた。それが小作争議の頻発を招き
➡日本農民組合を結成させた。1924年には小作調停法が制定され、1925年大日本地主協会も設立された。
普通選挙運動
友愛会系労働団体によって、普選既成労働連盟が結成される。1
1910年代から1920年代における思想状況について,次のア~エの語句を用いて論述せよ。(400字以内)
ア 民本主義 イ 『青鞜』 ウ 山川均 エ 治安維持法
が、筑波大で出た。
吉野作造「憲政の本義を説いて其の有終の美を済すの途を論ず」が『中央公論』に掲載されたことが出た。
黎明会
1918年発足、吉野作造が提唱者。1920年解散。
新人会
1918年発足、東京大学の学生を中心に組織される。社会科学の啓蒙・研究を行い(普選運動)(労働)運動にも参加。早稲田大学では(建設者同盟)が組織され、中心は(浅沼稲次郎)だった。京都大学では(労学会)だった。
社会主義運動1920年(日本社会主義同盟)結成、翌年結社禁止される。天皇制を否定する思想だから。1922年(日本共産党)非合法で結成が出る。(森戸辰男)のクロポトキン研究に対する弾圧も出た。
山川菊栄・(伊藤野枝)らによる赤瀾会についても出た。こうした運動に関わった(奥むめお)が戦後参議院議員となり、主婦連会長となったことが早稲田ででた。
市川房枝→治安警察法の改正です。左の図は間違いです。
部落解放運動
被差別部落の解放を目指し、1922年(全国水平社)結成。
創立の中心は→西光万吉・阪本清一郎ら。水平社宣言が史料で出た。
国家主義運動 327㌻
パリ講和会議等で、アメリカ・中国等から山東省ドイツ権益問題で批判を受けたあたりから、国家主義運動が現れてくる。(北一輝)は『日本改造法案大綱』を書き、大川周明は(猶存社)を結成した。
北一輝
二二六事件の理論的指導者とされる。