護憲三派内閣の成立
内閣 |
ハタカヤキのヤ |
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山本 権兵衛 |
海軍(与党:立憲政友会) ①1923✖︎関東大震災 前任首相加藤友三郎が824に死去し山本権兵衛が組閣中の901に震災は発生した。 ②震災恐慌 経済、特に銀行大打撃 倒産増→会社に融資した資金回収不能(銀行の手形決済不能) 金融恐慌へ ③虎ノ門事件で退陣が早稲田法で出た。 無政府主義者・難波大助(死刑) 第2次山本内閣は普通選挙制の準備を進めていたが加藤首相の病死、関東大震災、」虎ノ門事件等によって山本が辞任し、日の目を見なかった。
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③2日に戒厳令が出され「時勢に妨害アリト認ムルモノ」に対する検問設置が指示された。 (朝鮮人)暴動などに関する流言を信じた民衆・軍隊・警察によって約8,000人の朝鮮人・中国人が虐殺された。 (大杉栄と伊藤野枝)が殺された「甘粕事件」は出る。 甘粕正彦憲兵大尉は軍法会議で10年の実刑判決を受け服役後満州に渡って満州事変を起こし満州国では満州映画協会の理事長にもなり影響力を保持した。
山本権兵衛内閣の出来事で虎ノ門事件を選ぶ問題が出た。早稲田(文)2016 |
清浦奎吾
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貴族院中心(政友本党)の支持 1924.1 枢密院議長清浦奎吾が貴族院を基盤として内閣を組織した。
山本権兵衛の次の内閣名を漢字で書かせるのが出た(早稲田【教育】)清浦奎吾 |
清浦奎吾内閣の成立に対して,憲政会の加藤高明・立憲政友会の高橋是清・革新倶楽部の犬養毅が護憲三派を結び,民意を無視した特権内閣だとして倒閣運動を展開した(第二次護憲運動)。その過程で政友会は分裂し,内閣を支持する床次竹二郎ら政友会多数派が脱党して,政友本党を結成した。 |
主張
「政党内閣の実現、普選断行・貴族院改革・行財政整理」をスローガン。
総選挙圧勝!清浦内閣➡総辞職。
総選挙後、圧勝し第1党となった憲政会総裁は(加藤高明)。
憲政会は(立憲同志会)が1916年に改称して成立。革新倶楽部は犬養毅が中心となって立憲国民党・無所属倶楽部・憲政会からの脱党者で1923年に結成された。なお、加藤高明は岩崎弥太郎の女婿にあたることは重要である。三菱財閥がバックにいる。
この内閣から五・一五事件で(犬養毅)が倒れるまで政党内閣が続く。
衆議院の第1党党首が総理大臣になる制度を「憲政の常道」という。
護憲三派内閣の三点セット
普通選挙法に先立って1925年共産主義運動を取り締まる(治安維持法)成立。成立理由も出る。①日ソ基本条約締結によるソ連との国交回復で共産主義思想が国内に波及することを防ぐ②普通選挙法施行で、労働者階級の政治的影響力が大きくなることを防ぐ。」③普通選挙法制定を危惧する貴族院勢力を懐柔する。
(尾崎行雄)この法案に反対。最初に治安維持法が適用されたのが(京都学連)事件であったことが出た。治安維持法制定によって、治安警察法が廃止されたわけではないことに注意。
普通選挙法
正式名は、衆議院議員選挙法の改正である。被選挙権は25歳以上の男子。小選挙区から中選挙区になった。
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第2次 加藤高明
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憲政会単独
1926年病没 |
1925年立憲政友会が陸軍大将の➡田中義一【長州】を総裁に迎え財政危機に苦しむ革新倶楽部を吸収したことで三派連合に亀裂、連立解消となる。 外交の変化 協調外交をやめて軍部と接近する。👉軍閥が割拠していた中国で、中国国民党を率いる蒋介石が登場したため、自国の利益を守る為、軍事力も辞さないと、田中内閣は方針転換したのだ! |
若槻礼次郎 |
憲政会は1927年政友本党と合同し、立憲民政党となった。政党内閣は期待を持たれたが、汚職事件が相次ぎ期待通りにいかなかった。 |
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都市化の進展と市民生活
(俸給生活者)ほうきゅうが大量に出現し、特に仕事をもつ女性=(職業婦人)の出現である。その代表的職種が(タイピスト)(電話交換手)だった。都市から郊外の伸びる私鉄沿線に和洋折衷の(文化住宅)が建ち、全国的に(電灯)が普及、都市では(水道)(ガス)供給事業が本格化した。東京と大阪では、(地下鉄)が開通し、呉服屋に起源を持つ(百貨店)=【デパート、三越が日本で初めて】とともに、ターミナル駅のデパートが阪急電鉄の社長(小林一三)は、デパートと宝塚歌劇団と鉄道を組み合わせる独。創的な経営をした。トンカツ・カレーライスの洋食から、(モガ)【モダンガール】も出た。
(帝国)劇場建設、都心の(同潤会)アパートまで出ている。油断ならない。
丸ノ内ビルディングが関東大震災のとき竣工したことが早稲田で出た。
大衆文化の誕生
大正時代には市民文化が繁栄し大衆文化が発達。1918年の(大学令)の制定で単科大学や公立・私立の大学が認められた。大正9年には就学率が99%を超えた。昭和初期の帝国大学は、東京・京都・東北・九州・北海道(台北)大阪・名古屋(京城)にあった。
新聞
1925年に(東京)大阪・名古屋で(ラジオ)放送開始。翌年これらを統合して日本放送協会が設立された。浅草六区の軽演劇スター(榎本健一)を記憶したい。映画では(日活)や(松竹)等が映画制作を始め1930年代には(トーキー)が始まった。(全国中等学校野球大会)【現在の全国高校野球選手権大会】1915年〜や東京六大学野球も始まった。
(丸ノ内ビルディング)教科書333㌻が、大正時代の建物だということが早稲田政経で出た。(同潤会)アパートが出た。
学問と芸術
マルクス主義
カール・マルクスのマルクス主義が知識人に影響を与えた。日本資本主義論争において労農派と講座派に分かれて論争を繰り広げた。労農派=櫛田民蔵・猪俣津南雄、講座派=(野呂栄太郎)羽仁五郎・山田盛太郎との間で行われたことが早稲田で出た。教科書336㌻脚注❹参照。また(石橋湛山)が『東洋経済新報』に依って、朝鮮や満州など植民地の放棄と平和的な経済発展を主張、(小日本主義)と呼ばれた。東大が【小日本主義】をとりあげた。(河上肇)の『貧乏物語』は広範な読者を獲得した。『善の研究』で独自の哲学をうちたてた(西田幾多郎)は、京都の【哲学の道】でも知られる。民俗学を確立した(柳田国男)は『遠野物語』が有名である。哲学者である(和辻哲郎)の『古寺巡礼』は名著の誉れ高し。古事記・日本書紀を祭典の古俗と切り捨てた(津田左右吉)も記憶したい。
文学
代表作『日輪』の(横光利一)、(有島武郎)の『或る女』、幕末が舞台の長編小説(中里介山)の『大菩薩峠』、時代小説のスター吉川英治の『宮本武蔵』、大佛次郎の『 鞍馬天狗 』、永井荷風の『断腸亭日乗』。
プロレタリア文学運動は、出発点となったのが雑誌『種まく人』と『戦旗』である。小説では、小林多喜二の『蟹工船』【北洋の蟹工船での奴隷的な労働と労働者の抵抗が題材】と、徳永直の『太陽のない街』【「共同印刷争議」に参加した経験を題材とする】がトップ2。多喜二は拷問にあって死亡した。
演劇
小山内薫と(土方与志)らが創設した(築地小劇場)が新劇運動の中心となった。【早稲田法2013】
美術
第一次西園寺内閣時の文相(牧野伸顕)【大久保利通の子】によって創設された文展は、1919年(帝国美術院)美術展覧会に改組された。
文展に対抗して(二科会)や(春陽会)が発足し(梅原龍三郎)【紫禁城】や(岸田劉生)【麗子微笑】が活躍した。
【金蓉】の(安井曽太郎)は梅原とともに日本洋画壇の双璧と言われた。
日本画では横山大観が(日本美術院)を再興した。