7 律令政府の政策


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7 律令政府の政策

遣唐使の派遣 

ほぼ20年に1度派遣

①留学生・僧:吉備真備玄昉(橘諸兄政権)

②渡来僧:帰国の遣唐使船により、鑑真らが来日


②航路:初め北路だったが8世紀以降新羅との関係悪化後は危険な南路を利用、地図で出る。

「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」阿倍仲麻呂も留学生。

 

渤海・新羅との関係

場所を地図で確認。

新羅676年、半島統一。日本との往来少なくなかったが、日本が新羅を従属扱いしたため次第に冷却化。


渤海…中国東北部、7世紀末に建国。唐・新羅に対抗するため日本に使節を派遣した。日本はこれを朝貢の使節として歓待した。使節の往来は九州を経由しないルートであったので、越前国の松原客院と石川県の能登客院、平城京の鴻臚館で接待された。地図で確認。

 

奈良の都・平城京
遷都→元明天皇時

平城京(唐の都長安にならう条坊

朱雀大路を中心に東が左京・西が右京、東西に官営の市司が管理)

朱雀大路北側には大内裏が区画され、天皇の生活の場が内裏で、政務を行う朝堂院や、即位の礼を行う大極殿などが配置された。内裏と大極殿・朝堂院や諸官庁がある地域が平城宮である。

 

奈良へ移転する寺院

大官大寺)➡大安寺

飛鳥寺)➡元興寺

山科寺)➡興福寺

東大寺)や(西大寺)が創建される。

国分寺・国分尼寺の中心(法華滅罪之寺

和同開珎

銭はで、元号はであること、この時の天皇は➡元明天皇である。

この和同開珎は唐の開元通宝を模したものである。

関連して蓄銭叙位令が出たが京・畿内でしか流通しなかった。また、皇朝十二銭の最後が村上天皇期に鋳造された乾元大宝を記憶したい。

 

NOTE 地方官衙と辺境

官道の整備
都を中心に七道の諸地域に伸びる官道(駅路)が整備された。官道には、一定距離ごとに ➡駅家がおかれ、公用の役人が利用した。

日本海側の東北経営

大化改新直後、唐の高句麗攻撃によって対外的緊張が高まったため、647渟足柵648磐舟柵が設けられた。さらに7世紀後半には 阿倍比羅夫 が蝦夷征討事業を推進。8世紀には出羽柵がおかれ、ついで秋田城も築城された。


太平洋側の東北経営

724年に多賀城設置。以後、太平洋側の拠点となる。
鎮守府・国府として軍事拠点となっていった。

九州南部への支配拡大

南九州の隼人と呼ばれた人々の地域には、薩摩国と大隈国がおかれた。大伴旅人が征隼人持節将軍に任ぜられたは、難問だ!

       藤原不比等
       藤原不比等

奈良時代の政治過程

NOTE 奈良時代の政争

奈良時代は約10年ごとに藤原氏と皇族出身者が政権を交代している時代だと思えばよい。例外が道鏡。
政権担当者(藤原不比等長屋王藤原四子橘諸兄藤原仲麻呂道鏡藤原百川)の順番である。

不比等

不比等は、娘宮子を文武天皇の妻とし、その子➡首王子後の➡【聖武天皇にも娘の➡光明子を嫁がせた。

710年代=藤原不比等 中臣鎌足の子、妻は県犬養橘三千代 

養老律令制定718

  不比等没

720年代:長屋王(天武天皇の孫)政権確立

723三世一身法制定

729年、光明子立后問題をめぐって、長屋王は藤原四子と対立し、自殺長屋王の変

光明子:光明皇后は悲田院施薬院を作った。仏教で善行を積むもの。

※長屋王家の木簡は約4万点、教科書48P精読せよ!

藤原四子

730年代:藤原四子勢力拡大。光明子を聖武天皇の皇后(天皇の正妻)とすることに成功。➡しかし737年天然痘により四子兄弟没。

不比等長男:武智麻呂(南家)(なんて無知)仲麻呂

次男:房前(北家)(きたない房前)

    三男:宇合(式家)広嗣(しきるのうまい)  □――種嗣―仲成

四男:麻呂(京家) 百川―緒嗣―薬子(今日はロマン)

     宮子:(文武天皇妃)←天皇家に楔を打つ

     光明子:(聖武天皇妃)後妻の県犬養三千代を母とする娘

740年代:橘諸兄(皇族出身)が政権掌握。 

吉備真備玄昉ブレーン。吉備真備は右大臣まで昇進した。吉備氏は吉備地方を根拠地とする豪族で、鉄・塩を資源として栄えたという。この地方には国内4位の規模を持つ造山古墳があり、古墳時代に大きな勢力があったことがわかる。

吉備真備・玄昉の排除を求めて藤原広嗣の乱が九州北部で起こった。

➡以後、朝廷は動揺し、聖武天皇は遷都を繰り返した。遷都の変遷、これが出るね!

恭仁京難波宮紫香楽宮。👉宮都の変遷!早稲田文学部で出た!

 

鎮護国家思想の整備

741 国分寺建立の詔
743 大仏造立の詔恭仁京で発せられた。

国分寺=金光明四天王護国之寺20人を置く

国分尼寺=法華滅罪之寺に僧尼10人を置く

国分寺は「護国」を国分尼寺は「滅罪」を祈った。写すべき経典は金光明最勝王経法華経である。

総国分寺は東大寺である。

東大寺創建当時の建物は

法華堂・転害門・正倉院である。

史料研究

国分寺造立の詔

(天平十三年三月)乙巳(きっとのみ)、詔して(のたまわく)く、「……宜しく天下の諸国をして各々敬して七重塔一区を造り、併せて金光明最勝王経・妙法蓮華経各一部を写さしむべし。……僧寺には必ず廿僧有らしめよ。其の寺の名を金光明四天王護国之寺と為し、尼寺には一十尼ありて、其の寺の名を法華滅罪之寺と為す。……」【続日本紀】

 大仏造立の詔

天平十五年)冬十月辛巳。詔して曰く「……菩薩の大願を発して、廬舎那仏】の金銅像一くを造り奉る。・・・・・夫れ[天下の富を有つ者は朕なり天下の勢を有つ者も朕なり。この富勢を以て、この尊像を造る。事や成り易く、心や至り難き。・・・・・・」

空欄補充

大仏は盧遮那仏である。

また、華厳経の本尊である。

開眼供養

儀式の中心を担った菩提僊那インドの僧である。

 

750年代:藤原仲麻呂南家、武智麻呂の子)の勢力が伸張。749年に孝謙天皇が即位し、その母である光明皇太后(光明子)の権威が高められたため、仲麻呂が台頭した。光明皇后のために 紫微中台 を作り、その長官となった。仲麻呂政権下で養老律令がやっと施行されたことを記憶したい。757年、仲麻呂を倒そうと橘奈良麻呂(諸兄の子)が立ち上がるものの逆に滅ぼされた➡これを✖橘奈良麻呂の変)という。その後、みずから擁立した淳仁天皇より 恵美押勝の名を賜った。➡760年、光明皇太后没により仲麻呂の権力弱体化。道鏡台頭、孝謙上皇側に先制され、仲麻呂は近江国で敗死。淳仁天皇は淡路に流された。

 

760年代:道鏡(僧侶)仏教政治を展開。孝謙太上天皇(のち再び即位して➡称徳天皇)の信任により、道鏡は異例の出世を遂げた。765年に寺社を除いて開墾が一時禁止される加墾禁止令は史料参照。769年には、称徳天皇が道鏡に皇位を譲ろうとする事件(宇佐八幡神託事件)も発生したが、この動きは和気清麻呂らの行動で成功しなかった。➡770年、称徳天皇没。道鏡は下野薬師寺へ左遷。

 

770年代:皇統は天智系へ。藤原百川(式家、宇合の子)らが➡光仁天皇を(天智天皇の孫)を擁立。混乱した律令政治の再建をめざした

        大官大寺跡
        大官大寺跡

論述研究 筑波大2010

645年の大化改新から710年の平城京遷都にいたる国家建設過程について、次の(ア)〜(エ)の語句を用いて論述せよ。解答文中、これらの語句には下線を付せ。ただし、語句仕様の順序は自由とする。

 (ア)藤原京 ()大海人皇子

  ()大官大寺   ()水城

7世紀半ばの大化の改新では、政府は改新の詔で公地公民の原則を宣言するなど、大王中心の中央集権体制に着手した。この動きは、白村江の戦いで敗北して以降、促進された。政府は水城の築造など防衛体制の整備を進めると同時に、庚午年籍を作成し、豪族支配下の人民を戸籍に登録する制度をはじめて全国的に整えた。そして、壬申の乱に勝利した大海人皇子が強大な権力を掌握して天武天皇として即位すると、豪族の私的な領有民を廃止し、豪族を天皇中心の新たな身分秩序に再編成するなど豪族の官僚化が進められ、同時に、藤原京が建設されて豪族の集住が図られた。さらに大官大寺を建立するなどして仏教に国家の安泰を願い役割を付与し、大王の祖先神を祀る伊勢神宮を整備するなど、天皇の神格化が進められた。こうして8世紀初め、文武天皇のもとで大宝律令が制定され、さらに元明天皇のとき、平城京が営まれ、唐にならった律令国家が整備された。