・ 秀吉、北野大茶会を催し、貴賤・貧富の差なく参加を呼びかける。
➡秀吉・千利休・今井宗久・津田宗久が席を設けた
1588 秀吉➡聚楽第着工し、後陽成天皇が行幸する。天皇が赴いたということ。
・刀狩令を出し、農民から武器を取り上げる。➡兵農分離が進む。
また同日、海賊取締令を出し倭寇禁圧する。
➡名目上は、秀吉が建立した方広寺の大仏建立
☷史料研究 『刀狩令』(「小早川家文書」)
1.「給人」とは★★より知行地を与えられている者のことである。(日本大)豊臣秀吉
2.「大仏」とは★★★寺の大仏をさす。(明治学院)方広寺
3.これは★★★の史料である。(東洋大)刀狩令
4.この史料の発布者は★★★である。(同志社)豊臣秀吉
5.この史料は★★年に出された。(東京農業大)1588
6.この法令は★★を目的に出された。(日本女子大)兵農分離
7.この史料の出典は『 』である。(予想)
小早川家文書
1590 ヴァリニャーニ➡活字印刷術を伝える。翌年から キリシタン 版刊行。
✖小田原攻め➡後北条氏を攻め滅ぼす。北条氏政切腹、子の氏直追放(高野山)家康は、小田原攻めのあと、駿河より江戸城へ移る。
✖伊達政宗(奥州)を下し、奥州平定。秀吉➡全国統一へ
☈入試の極意 五大老・五奉行
五大老 |
徳川家康 |
前田利家 |
毛利輝元 |
宇喜多秀家 |
上杉景勝 |
五奉行 |
浅野長政 |
増田長盛 |
石田三成 |
前田玄以 |
長束正家 |
➡太閤検地が本格化、検地反対の陸奥・葛西・大崎一揆勃発。この一揆は検地により領主の地位を失った国人たちが蜂起した。
☈入試の極意 石高制と検地
石高
田畑・屋敷地の等級(上、中、下、下々)に応じて石盛(段あたりの標準収穫量)を決める。石高= 石盛×面積によって土地を把握するやり方を石高制という。
年貢高は二公一民であった。
検地
目的⑴農民掌握 ⑵租税基盤の確立
役人を派遣し、検地尺を用いて検地を行ないながら、一村単位で検地帳を作成していう方式で全国に検地を実施した。これを太閤検地といい、従来の貫高制から石高制に改めたため天正の国直しともいう。
面積単位の統一
1町=10段、1段=10畝、1畝=30歩とする
長さ➡1間=6尺3寸(≒191cm)
容積➡1石=10斗=100升=1000合(京枡に統一、1升≒1.8ℓ)
☈検地の意義
太閤検地により、中世以来の荘園制が崩壊し寺社・公家の没落 がみられた。複雑な土地関係は一掃され、一つの土地には一人の百姓が保持し、耕作するという一地一作人の原則が確立され、自己の田畑の所有権を法的に認められた。つまり、一人の領主が農民を直接支配するという関係が成立したのである。
☈入試の極意 経済史
〇財政基盤は何か!➡秀吉の直轄領は 蔵入地 と呼ばれ約200万石。
鉱山の直轄➡佐渡相川金山や但馬生野銀山。銀の精錬技術である 灰吹法 を朝鮮から伝えた博多商人神谷寿禎が銀山開発に乗り出した 石見大森銀山の直轄領。
直轄都市➡京都・大坂・堺・伏見・長崎
〇商業と交通
⑴ 信長は、楽市・楽座を実施し、商品取引の自由によって、城下町の繁栄や商業統制を行なった。地域としては美濃加茂・近江安土など。
⑵ 関所の撤廃・関銭廃止
特産物
木綿の栽培(三河で始まり、河内・尾張・伊勢)
○貨幣 秀吉が後藤徳乗に命じて鋳造させた天正大判は贈答用。
☈金を流通させなかった秀吉
天下を取った秀吉は領土の大部分は子飼いの部下に散じたが、金銀鉱山だけは、すべて、しっかりと自分の直轄とした。直轄の金銀鉱山で得た金は退蔵して流通させなかった。伏見城に蓄えたのである。電灯のない時代、夜ともなれば真っ暗だった。場所は安土城、月のない晩の漆黒の闇、その中で、かすかな星の光で浮き上がる金の茶碗、狩野永徳が描いた『四季花鳥図屏風』を前にして、永徳自身が、金屏風の価値を激白する。金地の背景は光の強弱によって微妙に変化する。ことに自然光のもとでは陰翳を帯びた幽玄の世界を現出する。電灯のもとで金をけばけばしいものと見るのは、現代文明の弊害だろう。老生は、利休より秀吉を買う。
『黄金の日本史』加藤廣著
☶論述研究 豊臣秀吉が天下統一に向けてとった手法はとは? 東大2009第2問
豊臣秀吉が戦乱の世をしずめ,全国統一を実現したことにかかわる次の(1)~(4)の文章を読んで,下記の設問A~Cに答えなさい。
(1) 1585年,秀吉は九州地方の大名島津氏に,次のような趣旨の文書を送った。「勅命に基づいて書き送る。九州ではいまだに戦乱が続いているのは良くないことである。国や郡の境目争いについては,双方の言い分を聴取して,追って決定する。まず敵も味方も戦いをやめよというのが叡慮である。もしこれに応じなければ,直ちに成敗するであろう。」
(2) 1586年,島津氏は,「関白殿から戦いをやめるように言われたが,境を接する大友氏から攻撃を受けているので,それなりの防戦をせざるを得ない」と回答した。
(3) 1587年,島津氏は秀吉の攻撃を受けたが,まもなく降伏した。一方,中国地方の大名毛利氏は,早くから秀吉に協力した。秀吉は島津氏に薩摩国・大隅国などを,毛利氏に安芸国・備後国・石見国などを,それぞれ領地として与えた。
(4) 1592年に始まる朝鮮出兵では,島津氏も毛利氏も,与えられた領地に応じた軍勢を出すように命じられた。
設問
A 秀吉は,戦乱の原因をどのようにとらえ,その解決のためにどのような方針でのぞんだか。3行以内で述べなさい。
B 秀吉は,自身の命令を正当化するために,どのような地位と論理を用いたか。1行以内で述べなさい。
C 秀吉による全国統一には,鎌倉幕府以来の武士社会における結合の原理に基づく面がある。秀吉はどのようにして諸大名を従えたか。2行以内で述べなさい。