24 一揆と応仁の乱


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24 一揆と応仁の乱                    

土一揆(つちいっき)の頻発

 ①土一揆

  ア 誰が…地侍や百姓・馬借・都市下層民

  イ どうして

   畿内近国での惣(惣村)の成立

   ⒝飢饉の頻繁な発生

将軍

政治・戦乱

一揆

6代

義教

①足利義持の死により、足利義教が6代将軍に(籤引き将軍)

有力守護でもめるから

義教の恐怖政治

強引な守護大名抑圧策

 

 

 

1438永享の乱 

上杉憲実 VS足利持氏

(関東管領)(鎌倉公方)

持氏の将軍狙い

上杉憲実を味方につけ滅ぼす 

cf)以後、関東は上杉氏が支配

1441結城合戦

持氏の方の結城氏朝が持氏の遺児を擁して挙兵、鎮圧


1441嘉吉の乱  

義教→赤松の所領播磨、美作奪取

やられる前にやれ!

赤松満祐による義教の謀殺

満祐逃亡→山名氏赤松を打倒

播磨・美作→山名氏へ

将軍権威の低下=将軍・守護大名の均衡崩れる

 守護大名強大化 but国人層の統制ができなくなる

形態:逃げるから反抗へ


1428正長の徳政一揆

近江坂本の馬借が中心

徳政令要求→酒屋・土倉・寺院を襲撃、幕府➡徳政認めず

成敗した管領→畠山満家

 

1429播磨の土一揆

 ⑴国人+百姓

旧冬の京辺→去年の冬の京都

守護赤松満祐の国外退去求める

徳政一揆ではない

守護赤松が鎮圧

 

 

 

 

1441嘉吉の徳政一揆

 ⑴将軍の代替わりが契機

 ⑵徳政令が出された

将軍や天皇が変われば、貸借関係もリセットされて借金はチャラになるという考え方が存在した。

→「代替わりの徳政」だ!


正長の徳政一揆

正長元年九月 日、一天下の【土民】蜂起す。徳政と号し、【酒屋】・【土倉】・寺院等破却せしめ、雑物等ことごとくこれを破る。【管領】これを成敗す。およそ亡国の基、これに過ぐべからず。日本開白以来、土民蜂起これはじめなり尋尊著『大乗院日記目録』

日本開闢以来、土民蜂起これはじめなりのフレーズで正長の徳政一揆と判断したい。土民・徳政・酒屋・土倉は空欄補充。

管領は誰?畠山満家。出典と著者が早稲田大で出た!徳政令は出ていない。


史料研究 播磨の土一揆

「播磨の国の土民旧冬の京辺の如く蜂起し…およそ土民侍をして国中に在らしむべからざる所と云々。…よりて赤松入道発向しおわんぬ。」(『薩戒記』)

👉旧冬の京辺の如くは、正長の徳政一揆をさす。この一揆は国人と百姓が守護赤松満祐の国外退去を求めたもの、徳政令は要求していない。


応仁の乱の発生

 8代将軍義政の失政

将軍

政治・戦乱

一揆

8代

義政

1454~82享徳の乱 

鎌倉公方:足利成氏

関東管領・上杉憲忠を殺害

→成氏➡古河公方(下総古河)逃れる

義政、足利政知を伊豆堀越に派遣

勢力弱く鎌倉に入れず

→だから堀越公方を名乗る

 

 

 

背景

義政と日野富子に男の子いない

1464義視を後継に

1465富子→長子出産

1467~77応仁・文明の乱

 ⑴将軍:足利義視VS義尚 

  ▶(義政の弟) (子)

 ⑵有力守護

   細川勝元VS山名持豊

 ⑶畠山氏 義就 VS 政長 

 ⑷斯波氏 義廉  VS 義敏 


大内氏西軍に加担(対細川)貿易利益

 

 

 

 

 

 

 

1485山城の国一揆 

山城守護畠山氏の同族争い

 義就(西軍)×政長(東軍)

山城国人年間の自治

三十六人衆が自治。月行事を決めて運営。

1488加賀の一向一揆

一向宗門徒が100年間の自治加賀の浄土真宗門徒が国人と結び本願寺領を形成、本願寺8代法主の

蓮如吉崎御坊を中心に布教、阿弥陀仏の救いを信じれば誰でも極楽往生できることを平易な文章=御文で説きを組織して惣村に広めていった。

守護・富樫政親打倒、100年間の自治

地侍と結ぶ国人にやられてしまったのである

応仁の乱の影響

 ⒜幕府の分裂

 ⒝足軽が横行

 

奇襲や撹乱のために足軽と呼ばれる機動力に富む歩兵中心の集団戦法がさかんに用いられた。都市に集まった流民や村々の百姓などから募集された、いわば傭兵である。一条兼良は『超過したる悪党』と指弾し、形を変えた土一揆とももなされた。

 

 ⒞影響

 …有力守護が在京して幕政に参加する体制の崩壊

👉守護在京制の崩壊である。南北朝の長い内乱の収束と平和を受けて、幕府は守護たちを室町将軍のお膝元に集めて、守護代以下が分国の経営を担うという政治体制を築いた。

 

 …荘園制の解体が進んだ。

👉1473年三月に山名宗全が、五月に細川勝元が、相次いで病没した。翌年四月には、宗全の後継者である山名政豊と勝元の嫡子である細川政元が、諸将の同意を得ずに単独講話を行った。しかし、戦乱はその後もダラダラと続いた。これは一つには、略奪や放火を繰り返す足軽たちの無軌道な行動を諸大名が制御できなくなっていたことが原因だろう。最近の国際情勢を見て、あのイスラム国の略奪を見れば、厄介な集団だと実感できる。

 

室町幕府=守護体制の崩壊

 ①政治権力の分立

  ア 細川氏が幕府の実権を握る→明応の政変1493

   →細川政権の内紛で将軍が分立

 明応の政変で、管領細川政元が10代将軍足利義稙(義視の子)を廃し、足利義澄(政知の子)を新将軍に擁立した。これにより畿内では細川氏優位の情勢。しかし内紛は続き両派がそれぞれ将軍を擁して争う事態となり、将軍は分立した。

 

  イ 関東情勢の変化

   ⒜山内・扇谷上杉氏の抗争

   ⒝伊勢宗瑞(のち北条早雲)の関東進出…堀越を攻略1493

    →堀越公方:足利茶々丸を滅亡1498

 

・応仁の乱後の将軍権威は地に落ちる