26 戦国大名


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戦国大名

みずからの力で領国をつくり上げ、独自の支配をおこなう地方権力が戦国大名である。

1493年✖明応の政変は、10代将軍足利義稙が管領細川政元により将軍の座をおわれた事件。


11代将軍足利義澄を擁立した細川政元の没後、管領細川家では家臣の三好長慶が実権を奪った。

1454享徳の乱以降➡戦国時代となる。

鎌倉公方分裂

鎌倉公方:足利成氏

  堀越公方滅亡

(伊豆国)

  古河公方滅亡

(下総国)

両上杉氏の半目
扇谷上杉氏の重鎮であった太田道灌の名声に警戒した主君の扇谷氏が太田道灌を謀殺。

家臣の間に動揺が走ると、敵対する山内氏はチャンスと見て攻撃しかける。20年続く戦乱に両上杉氏が疲弊したところに北条早雲登場!

 NOTE 守護大名と戦国大名の違い

守護は幕府から与えられた権限などを根拠に任国を支配していたが、戦国大名は幕府から独立して地域支配の最高権力をふるい、独自に分国法を定めて統治の規範を示した。

北条氏

初代の伊勢宗瑞(北条早雲)は、室町幕府で政所執事を世襲していた伊勢氏の一族であった。姻戚関係のあった今川氏の内紛に対処するため駿河の国に赴いたのち、11代将軍足利義澄の指示によって堀越公方足利茶々丸を攻めたことを発端として戦国大名の地位を築き上げた。

15世紀末から京都から下ってきた北条早雲は、堀越公方(政知の子茶々丸)を滅ぼし、伊豆に続いて相模を奪い➡小田原を根拠に勢力を伸ばす。孫氏康は古河公方を討った。

 

上杉【長尾】・武田・大内・陶

国名

大名

城下町

内容・出自

越後

上杉氏

春日山

国人長尾景虎が上杉氏の家督を継承

甲斐

武田氏

守護清和源氏の名門

 

川中島の戦い

武田氏VS上杉氏

風林火山

駿河

遠江

三河

今川氏

府中

守護出身

周防

大内氏

山口

守護出身

陶晴賢による下剋上

毛利元就による下剋上

毛利

安芸

毛利氏

 

国人出身

②中国地方を制覇

島津・大友・長宗我部

南部

島津氏

鹿児島

①元鎌倉幕府の御家人

豊後

大友氏

 

守護

土佐

長宗我部

 

国人出身、地侍を組織化

九州では、南部の島津氏と北部の大友氏が対抗していた。このことが、後の豊臣秀吉の➡

惣無事令違反を名目とした九州平定の前提となっている。『長宗我部氏掟書』が出た。

指出検地…土地の面積・年貢高などを自己申告させる検地これにより、戦国大名は農民と土地に対する直接支配を強化していった。

貫高制家臣は貫高制によって、軍役を負担した。つまり、自分がもらっている給料の分だけ働いたわけでgive take の関係だった

国人・地侍

国人とは、鎌倉期からの地頭・荘官層に由来する者が多く、他国からきた守護やその家臣に対して国に住み着いている者という意味で国人と呼んだ。

地侍は、農業を営む地主で惣村の武装した指導者

戦国大名が地侍を掌握して指出検地を行ない、村落を単位に、これまでの公領・荘園にとらわれない支配を目指したことへの理解が問われる問題も多い。
寄親・寄子制

大名は家臣となった地侍らを有力家臣に預ける形で組織化した。これを寄親寄子という。

分国法

領国支配の基本法として分国法を制定する戦国大名もいた。

塵介集』は陸奥伊達氏の分国法

喧嘩の事、是非に及ばず成敗を加ふべし』という規定を一般に喧嘩両成敗という。

喧嘩両成敗法は私闘によってその解決をはかることを禁じたものである。

 

分国支配のしくみ=家臣団の統制方法

  ア 裁判権の掌握

  イ 軍事指揮権の掌握

   ⒜私的婚姻や私的同盟の禁止…今川仮名目録

今川仮名目録
 一、駿遠(=駿河・遠江)両国の輩、或わたくしとして他国より嫁を取、或婿に取、娘をつかハす事、自今以後之を停止し(おわん)ぬ。

 喧嘩両成敗…甲州法度之次第

 分国内の平和を確保+紛争解決を戦国大名の裁判にゆだねさせようとした。

➡私的に武力を行使した者を、理由を問わず双方とも処罰することをいいます。中世の社会には、喧嘩(私闘や決闘)を「自力で解決してよい」という、自力救済の観念が流れていたが、喧嘩両成敗法はそれを否定する性格をもっていた。

 

史料研究 分国法

一 喧嘩の事、是非に及ばず成敗を加ふべし。但し、取り懸ると雖も、堪忍せしむるの輩に於ては、罪科に処すべからず。

甲州法度之次第

一朝倉が館之外、国内城郭を(かまえ)(させ)内ましく候。惣別分限あらん者、【一乗谷】へ引越、郷村には代官計可被置事。

朝倉孝景条々

今川仮名目録
 一、駿遠両国の輩、或わたくしとして他国より嫁を取、或婿に取、娘をつかハす事、自今以後之を停止し
(おわん)ぬ。

家臣の城下町集住…目的→常備軍の編成、家臣を監視下に置く

寄親・寄子制…戦国大名は、家臣らの城下町集住政策を進めると同時に、家臣団に組み入れた多数の地侍(村落指導者でもあり大名などと主従関係を結んで侍身分を獲得したもの)

合戦のときは軍奉行が寄親に命令し、その家臣の寄子に伝わる。寄親寄子制という。

 鎌倉時代、惣領と庶子が血縁関係で結ばれていたときは結束が強かった。それを真似て他人同士の主従関係に応用したもの。ヤクザの親分=子分関係と同じ。

                   

分国法


塵芥集
 一、百姓、地頭の年貢所当相つとめず、他領へ(まか)り去る事、盗人の罪科ハたるへし。

中部地方

16世紀半ばには、越後

13義輝 存在薄し。

名ばかりの将軍、幕府の実権は管領細川氏細川氏家臣三好長慶三好氏家臣

松永久秀と移り、義輝は松永久秀により1565年自害に追い込まれる。

1547 大内義隆・遣明船を派遣する(最後の遣明船)

 中国・北九州七カ国の守護をかねて、勘合貿易を独占していたが1551年家臣の陶晴賢に殺される。下克上の極みなり。


1549 ・スペイン人のイエズス会宣教師フランシスコ=ザビエル鹿児島に上陸し、日本にキリスト教を伝える。

1551陶晴賢主君大内義隆を殺害。勘合貿易断絶。

1555 毛利元就陶晴賢を安芸厳島の戦いで破り、周防・安芸の支配権を得る。この後、毛利元就は1557大内氏、次いで出雲の尼子氏を破り、中国地方を代表する戦国大名となる。

 

自由都市の発達

①城下町…戦国大名の居城を

①京都…もと政治都市

一方、城郭を中心に城下町を建設した。そこには、家臣や商工業者が住み、政治・経済・文化の中心となった。そして、商業取引を円滑にするため、関所を廃止して国内の道路網の整備を行ない、特権的な座や市場の独占を廃止して、自由な商業を保障した。

有名な城下町は、北条氏の小田原、今川氏の府中(現在の静岡市〔旧市側〕)、朝倉氏の一乗谷(現在の福井市)、島津氏の鹿児島、大友氏の府内(現在の大分市)などである。

門前町 

寺社参詣の門前市から発達した。伊勢神宮の宇治山田、信濃・善光寺の長野、延暦寺・近江の坂本が著名。

寺内町

一向宗の寺院や道場を中心に発達した。大阪の石山本願寺、加賀の金沢、河内の富田林

港町

 遠隔地商業が発達するなかで形成された都市。博多坊津小浜敦賀、宇治山田の外港 桑名。特に都市名・合議する豪商の名称・その人数は頻出。堺【会合衆36人】と博多【年行司12人】の正誤問題多し。

『耶蘇会日本通信』のガスパル・ヴィレラの書簡に、堺をヴェニス市のようだ!と書かれていることが出た。

町衆

京都では富裕な商工業者の町衆を中心とする自治的団体である町が形成された。祇園会の復興は【1500年】が出る。祇園会の起源は御霊会であること。狩野永徳の『洛中洛外図屏風』に描かれている。こちらは月行司だよ!

論点1 守護(守護大名)とどのように異なるか

守護は幕府から与えられた権限や荘園・公領の組織をよりどころに支配権を形成したのに対し,戦国大名は幕府から独立して実力で支配を形成しており,地域支配の最高権力を掌握した。