藤原北家の発展
藤原北家
藤原不比等の四子のうち房前から出た家系。称徳天皇死去後、光仁天皇擁立の中心となった藤原百川は宇合の子で式家、藤原永手は房前の子で北家であった。冬嗣の蔵人頭就任後、藤原家の中心となった。
承和の変
冬嗣の子良房は842年の承和の変によって伴健岑や橘逸勢を退けた。
皇太子恒貞親王を立てて反乱を起こそうとしたが真相は不明。
藤原良房
858年、清和天皇の外祖父として、臣下で初めて摂政となった。清和天皇は清和源氏の祖、『日本三代実録』の三代のうちの一人。清和天皇治世下で東日本大震災に匹敵する貞観地震発生、多賀城も打撃を受けた。
応天門の変
応天門放火事件。伴善男が左大臣源信を陥しれるいれるために放火したといわれるが、伴善男の子中庸や紀豊城らが真犯人であることがわかり、伴善男・中庸父親子は伊豆に流罪になり、紀氏は没落した。
応天門は朱雀門の内側で、朝堂院へと入る所にある。
絵巻物の『伴大納言絵巻』が出た。
藤原基経
基経は陽成天皇を退位させ光孝天皇を擁立、これに答える形で基経は関白となる。
阿衡の紛議
藤原基経が、宇多天皇の出した勅書を撤回させた事件。関白の政治的地位が確立したとされる。この宇多天皇の勅書を書いた橘広相は罰せられた。阿衡=中国・殷の官名で摂政・関白の別称。
菅原道真
宇多天皇の時蔵人頭、醍醐天皇の時には右大臣となって重く用いられた。
しかし、醍醐天皇の時、藤原時平の策謀により娘婿である斎世親王の即位を企てたと訴えられたため太宰権帥に左遷された。これを昌泰の変という。
「こちふかば にほひをこせよ梅花 あるしなしとて 春をわするな」
道真左遷の2年後太宰府で死去。以後、時平の家系に不幸が続き、怨霊として恐れられるようになる。
宇多天皇の時、滝口の武士が置かれた。
延喜・天暦の治 ここは重要な点が続出!
醍醐・村上天皇の時代は延喜・天暦の治と呼ばれ摂政・関白を置かずに親政が行われた時代として後世にたたえられた。
醍醐天皇期=902年、藤原時平が律令体制の復興をめざした法令のなかには、延喜の荘園整理令が含まれていた。
『日本三代実録』編纂、延喜格式編纂。『古今和歌集』編纂。
村上天皇期に=乾元大宝鋳造。
親政の合間の朱雀天皇期=藤原忠平が天皇幼少期に摂政、成人した後に関白を務めた。
安和の変
醍醐天皇の子、左大臣源高明が娘婿為平親王擁立の陰謀をしたとして大宰権帥に左遷された事件。源満仲の密告であった。その後は、ほとんど常に摂政または関白が置かれ、その地位には藤原時平の子孫がつくのが例となった。
摂関政治
NOTE
摂政は天皇が幼少時その政務を代行し、関白は天皇の成人後、その後見役として政治を補佐する地位である。
摂関政治期の藤原氏系図
摂関家
では藤原兼通と藤原兼家が争い、藤原道長と藤原伊周の争いがあった。道長は4人の娘を中宮【皇后】や皇太子妃とした
一条・彰子
後一条・
後朱雀・嬉子
後冷泉と3天皇の外祖父であり、30年にわたって権勢を振るった。
法成寺を建立し、そのため御堂関白と呼ばれたが、実は関白になっていないが頻出。清少納言「枕草子」が仕えた定子、紫式部「源氏物語」が仕えた彰子も忘れずに。持月の歌が詠まれた寛仁二年は1018年、刀伊の入寇1019の前年だ!
史料研究 藤原道長の栄華(藤原実資の日記『小右記』、寛仁二年十月十六日条)
…今日女御藤原①威子を以て、皇后(=②後一条の后)に立つるの日なり。前太政大臣(=藤原道長のこと)の第三の娘なり。一家に三后(一条・三条・後一条)立つること未だ曽て有らず…太閤{:道長}、下官(=藤原実資)を招き呼びて云く、「和歌を読まんと欲す。必ず和すべし」者{といへり}。答へて云く、「何ぞ和し奉らざらんや」。又云く、「誇りたる歌になむ有る。但し宿構{しゅっこう:前から作っていたもの}に非ず」者。「此世をば、我世とぞ思ふ望月の かけたることも無しと思へば」。余申して云く、「御歌優美なり、酬答{しゅうとう:かえしの歌をよむ}に方{すべ}無し。満座ただ此の歌を誦{じゅ}すべし…」と。
Q1.史料の名称は何か?小右記
Q2.作者は?藤原実資
Q3.①は誰か?威子
Q4.②は誰か?後一条
Q5.前太政大臣は誰?道長
Q6.太閤とは誰をさすのか?道長
Q7.下官とは誰か?藤原実資
NOTE摂関政治の特徴
権力と富の集中…大きな権力をもつ藤原氏(摂関家)は役人の任免権を掌握。このため、国司など利益が手に入る職に就くことを望む中・下級貴族からの貢納物も、藤原氏に集中した。
国政の形式化…政治はしだいに先例・儀式を重んじるものとなり、積極的な政策が見られなくなった。一方、日本の貴族社会は大陸文化の吸収・消化を土台にしながら多様な独自性を発揮しうる段階に到達し、みずからの風土や嗜好に適合した国風文化を開花させることになる。
藤原頼通
3天皇、50年にわたって摂政・関白を務めたことは重要。しかし、養女嬉子は後朱雀天皇中宮となったが早世し、娘寛子も後冷泉天皇の皇后になるが皇子を産まなかったため、天皇の外祖父にはならなかった。宇治平等院に鳳凰堂が建立、宇治関白と称される。
国際関係の変化
894年に菅原道真が遣唐使廃止の建議。9世紀になると、唐や新羅の商船が来航するようになったため、すでに遣唐使派遣の必要性は低下していたからです。加えて、
唐の衰退や日本の政治体制の独自の発展により唐の制度導入の意義が失われつつあったため、派遣が停止されることになりました。
唐が907年に滅亡することで、東アジアの国際情勢は大きく変化した。京都大
唐の滅亡後、(白紙に戻してよかった、さすが道真)中国は五代十国の混乱期を経て、10世紀後半、宋が再統一した960。唐が滅ぶと、926年には中国東北部の渤海が遼に滅ぼされた。
朝鮮半島
935高麗が新羅にかわって朝鮮半島を統一した。頻出
奝然が、宋から持ち帰った釈迦如来像は、京都の清涼寺に安置され三国伝来の瑞像として広く信仰を集めた。難問だな、同志社大と国学院
遼の建国
1019年、刀伊と呼ばれた沿海州の女真族が九州沿岸部に侵攻したが、太宰権帥の藤原隆家が地元の武士を指揮してこれを撃退した。刀伊→高麗は夷狄をこう呼んだ。女真族=中国東北部の狩猟民族、のちの満州族。