6 文明開化・明治初期の対外関係


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NO6 文明開化・明治初期の対外関係 

文明開化

文明開化という言葉

開国以降、明治政府は「富国強兵」「殖産興業」のためにも西欧の文物・思想などを積極的に取り入れていきます。井上馨が条約改正交渉のために行なった「鹿鳴館外交」などの欧化主義は、もっとも象徴的です。文明開化という言葉も立命館大で出題。
民間でも、封建的な思想の不合理を指摘し、西欧の近代思想を紹介してこれを広めようとする「啓蒙思想」家が活躍し始めます。

思想とジャーナリズムPart1

復古思想 維新期、復古神道の影響

啓蒙思想 イギリス功利主義思想の影響 

西洋のサルマネから始まる。ベンサムの「最大多数の最大幸福」。

中村正直:『西国立志編』(71スマイルズの『自助論』を訳出)『自由之理

福沢諭吉:緒方洪庵が開いた(適塾)に学ぶ。

整理Ⅰ【福沢諭吉】福沢の著作はしっかり覚えておきたい

西洋事情

啓蒙書政体書が参考にした

学問のすすめ

啓蒙書 実学の奨励・個の自立を説く

学制に影響を与える

文明論之概略

文明史観の影響

「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」(学問のすすめ)

時事新報』を創刊し、誌上で(脱亜論)を説いたことが出る。

西周(にしあまね):西洋哲学を日本に最初に紹介。新政府では(軍人勅諭)の起草に関わる。著作に『万国公法』がある。現代社会でも出た。

津田真道:オランダのライデン大学に留学。著書『泰西国法論』は日本初の憲法概説書である。

中江兆民:岩倉使節団とともに(フランス)に留学している。

ルソーの『社会契約論』を抄訳したものが『民約訳解』で1882年に刊行された。

加藤弘之:『真政大意』『国体新論』等で天賦人権論を紹介したが『人権新説』では、(社会進化論)の立場から天賦人権論を批判した。

一橋大では、天賦人権論の思想内容と今日の法に与えている影響を問う論述が出た。


学制

1871年、文部省設立。1872学制公布、なに(72)学制がフラフラしているの覚え方。

フランス)の学校制度に倣ったこと、功利主義的教育観に基づくこと、国民皆学の教育を目指して画一的な計画が出されたこと、文部卿が(大木喬任)等を記憶せよ。1876年開設の長野県松本(開智学校)が出た。

 

新島襄

八重の桜ですっかり有名になった。安中藩士だが脱藩し1864年函館からアメリカに渡り、1874年宣教師となって帰国、1875年(同志社)を創設した。

東京大学 1877年設立。

私立学校の創設

慶應義塾

福沢諭吉

慶應大

同志社英学校

新島襄

同志社大

東京専門学校

大隈重信

早稲田大

女子英学塾

津田梅子

津田塾大

 

神仏分離令

王政復古による祭政一致➡神仏習合禁止➡神道国教化方針➡1868(明治元)年➡神仏分離令という流れです。

一時廃仏毀釈の嵐が吹きまくる。

覚醒する仏教界(島地黙雷)【浄土真宗】らがその中心となって、信教の自由の立場から神道国教化を批判した。キリシタンの迫害(浦上信徒弾圧事件)も記憶したい。

会津人の呟き

政府は、倒幕の原動力となった復古神道の思想を取り入れて神道を国教とする。

神仏習合 塚原先生の回答

こうした神仏分離のあと,神道国教化が進められますが,それの挫折をうけて成立したのが国家神道(神社神道)です。

伊勢神宮を神社の本宗と定め,それを頂点としてさまざまな神社を格付けしたうえで(神社明細帳に登録されます),そうした神社が国家の祭祀を担当するものとして再編成されたのです。つまり,神社(あるいは神さま)は地域住民の崇敬を集め

る神さまとしての存在以前に,万世一系の天皇が統治するという国体を護持するための装置としての機能が優先されるようになったわけです。森田さんの表現を借りれば,単なる神さま(地域に根差した五穀豊穣の神様など)も全て天皇を尊

ぶような(例えば伊勢神宮)神社として存在・機能することを要求されるようになった,と言えます。

このように,神仏分離以前のさまざまな「神道(神々への信仰)」とは性格の異なる新しい「神道」として国家神道(神社神道)が形成されるに至ったのですが,第二次世界大戦後の国家と神道の分離により国家神道(神社神道)は解体します。そし

て,国家神道(神社神道)のもとに編成されていた神社は,神社本庁を組織し,1つの宗教法人として再出発することになります。

日刊新聞

わが国最初の日刊新聞は「横浜毎日新聞」「東京日日新聞」【東日本の毎日新聞】

こうした出版を支えたのが活版印刷術、1869木本昌造が鉛製活字の量産技術に成功した。


明六社

1873森有礼【社長】(福沢諭吉・西周・西村茂樹)らにより【明六社】設立、翌年『明六雑誌』発刊(1874→75廃刊)

太陽歴

コレラの流行を機に伝染病予防規則が制定された。

西洋化

煉瓦造建築、センターでガス灯が出た。電灯は大正時代。人力車や鉄道馬車等が出た。

 

明治初期の対外関係

不平等条約の解消 

岩倉使節団187173欧米を視察…アメリカで条約改正交渉を打診=失敗

廃藩置県の直後、右大臣兼外務卿岩倉具視大使大久保利通(大蔵卿)

木戸孝允(参議)伊藤博文(工部大輔)・山口尚芳(外務少輔)であった。役職から人名を答えせる場合もある。

使節団に加わった久米邦武その記録が『特命全権大使米欧回覧実記』を現わした。中江兆民(同行してそのままフランス留学、“東洋のルソー”)留学生は女性も含まれ、後に(女子英学塾)を創設した津田梅子や、旧会津藩家老の娘で帰国後に赤十字事業で活躍した山川捨松も記憶したい。
なんと岩倉使節団、ドイツでは鉄血宰相と呼ばれた政治家ビスマルクとも会見している。

帰国後、➡日本の遅れを痛感(征韓論と対立)

会津人の呟き

明治新政府の外交方針は長州藩のある人物によって提示されている。誰か?

吉田松陰である。鮮満侵略論では「交易にて魯墨に失うところは、土地にて鮮満にあがなうべし」。長州藩出身の桂、高杉、伊藤、山県は門下生だった。 対外侵略を説いた伊藤や山県が含まれているところに注目したい。清への侵略は長州の吉田松陰に源流がある。過激な言葉で鼓舞する危険だよ。

寺島宗則外務卿
1876年、寺島は関税自主権の獲得を目指して交渉し
アメリカからの合意を得たが、➡イギリスドイツ等が応じないため失敗。寺島宗則が条約改正交渉の開始だったことが出た(早稲田)。

POINT

清国との関係 1871年、日朝修好条規 締結

(日本にとって最初の対等条約)→右史料参照

領事裁判権の相互承認と協定関税が特徴

 全権伊藤博文日)・李鴻章清) 

 

朝鮮との関係 契機は江華島事件1875日本軍艦雲揚号が領海侵入など挑発行動砲撃受けると反撃+朝鮮での政権交代。日本は朝鮮に開国を迫った。

1873岩倉使節団帰国、征韓論をめぐる明治六年の政変発生。

1875江華島事件発生、日本の軍艦雲揚が朝鮮側を挑発し、漢城近くの江華島砲台を砲撃した事件。日本政府は、この事件を契機に日朝修好条規の締結を朝鮮政府に迫った。

1876日朝修好条規締結

日本が朝鮮に押しつけた不平等条約。朝鮮を独立国(「自主ノ邦」)とみなすことで 

 清の主張する宗主権を朝鮮に否定させようと試みた。

 

琉球との関係

日本は日中両属状態の琉球を領土化するため、琉球処分をおこなった。

琉球処分関連では、次が大事!1871年が琉球漂流民事件が起こり  

  1872琉球藩設置国王尚泰を琉球藩王に封じて華族とする

  イ1874台湾出兵琉球人の日本政府による外交的保護を主張

台湾出兵は、台湾での琉球民殺害事件1871の処理問題のこじれから西郷従道指揮のもと、実施され、イギリスの斡旋により、自国民を保護するための正当な行動(義挙)として 清から認められた、が早稲田で出た。なお、木戸孝允が台湾出兵に抗議して参議を辞職した。富国派と憲法派との分裂であり、明治維新を推進した薩摩藩と長州藩との分裂である。この際、土佐藩の事業を引き継いだ政商岩崎弥太郎が政府の軍事輸送を独占。

  ウ1879沖縄県設置琉球藩を廃止して琉球を併合清と対立

軍隊・警察を派遣した省庁は?(内務省:大久保利通)

日本によるこの措置(琉球処分)には琉球内部の反発があり、琉球と宗属関係をもっていた清も認めなかった。アメリカ前大統領グラントが調停をはかり、先島諸島(宮古列島・八重山列島)を清に分割するという先島分島案が提示されたが、妥協しなかった。琉球(沖縄)の日本帰属が確定するのは日清戦争後で、下関条約により台湾が日本に割譲されたことで事実上確定した。

旧慣温存・・・旧来の支配層の体制を温存

 

樺太・千島交換条約1875

日露和親条約では樺太は国境を定めず両国人雑居の地となっていたが、1875年の樺太・千島交換条約により、樺太全島→ ロシア 領、得撫(ウルップ島)以北の千島列島→ 日本 領となった。( 樺太 )をロシア領・得撫島以北( 千島 全島は日本領、ロシア側代表ゴルチャコフ日本側駐露公使(榎本武揚)である。

小笠原諸島領有

1876年、日本は小笠原諸島領有を各国に通告した。この日本の措置にアメリカ・イギリスが異議を唱えなかったため、同地は内務省の管轄下におかれた。