民権派の動き |
政府の対応 |
民撰議院設立建白書→左院提出 (板垣・後藤・江藤新平ら) 1875〈立志社〉(板垣退助)【土佐】 社長は部下の(片岡健吉) |
(土佐・肥前)
1875 大阪会議 (大久保の孤立救う) 大久保が板垣・木戸と会談し、政局打開を企図(木戸は台湾出兵に抗議し下野中) |
民撰議院設立建白書
(「日新真事誌」)1874(明治7)年1月17日
臣等伏シテ方今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、上帝室ニ在ラズ、下人民ニ在ラズ、而、独【有司】ニ帰ス。夫有司、上帝室ヲ尊ブト日ハザルニハ非ズ。而シテ帝室漸ク其尊栄ヲ失フ。下人民ヲ保ツト云ハザルニハ非ズ。而政令百端朝出暮改、政刑情実ニ成リ、賞罰愛憎ニ出ツ。……臣等愛国ノ情自ラ已ム能ハズ。乃チ之ヲ振救スルノ道ヲ講求スルニ、唯天下ノ公議ヲ張ルニ在ルノミ。天下ノ公議ヲ張ルハ【民撰議院】ヲ立ルニ在ル而已。」
<ポイント>民撰議院ヲ立ルニ在ル而已でわかるでしょう。「有司」は専制政府のことだが、具体的には大久保利通などを指す。また「民撰議院」は空欄の場合もある。
新聞『日新真事誌』も頻出する。
民権派の動き |
政府の対応 |
1875 愛国社 …大阪で立志社を母体に全国組織化 板垣の政府復帰
豪農民権 1877 立志社 建白 土佐に帰った板垣が片岡健吉・植木枝盛らと結成。徳島の自助社、福島の 石曜社 茨城の潮来社等、愛国社はこうした政社を束ねた全国組織として立志社を中心に 大阪 で結成された。立志社は西南戦争中の1877年に国会開設を求める立志社建白を天皇の提出しようとしたが政府に → 却下 された。
1878愛国社再興…豪農・府県会議員など支持拡大 1880愛国社第 3 回大会の呼びかけにもとづき 国会既成同盟 が結成された。士族に加え豪農や商工業者も参加。 国会開設請願運動を展開
【個人の土地から税を取ったのだから、それをどう使うかは取られた人に相談すべきだ!】*演説会ブーム 自由党壮士となった川上音二郎は時局を風刺した歌に仕立て、オッペケペー節として演説代わりに演じたことが一橋大で出た。 →愛国社を改称 国会開設嘆願書
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1875 大阪会議 …大久保が譲歩し4点で合意 ①漸次立憲政体樹立の詔 ②立法府→元老院…日本国国憲按没 ③司法府→大審院…大戦後まで存続 ④ 地方官 会議…民情把握を企図 ❶1875讒謗律・ 新聞紙 条例…政府批判を禁止:ごんべんにくろひめてんてん ❷秩禄処分・廃刀令 ✖1877︎西南戦争がこの時期あった 1878✖紀尾井坂 の変 →大久保利通内務卿【不平士族6名】に暗殺される。【有司専制の罪】 1878 参謀本部 創設 (陸軍の最高軍令機関)
1878地方三新法 郡区町村編制 法 府県会 規則:知事の諮問機関 地方税 規則
1880【 集会条例 】…国会既成同盟を規制 政府は国会既成同盟の嘆願書を 受理しなかった 。 1881開拓使 官有物払下げ 事件 北海道開拓使長官 黒田清隆 (薩摩)が政商 五代友厚 (薩摩)の関西貿易社に不当に安い価格で払下げが問題化。中止に。 1881 明治十四年の政変 →大隈罷免、薩長藩閥化 立憲君主制の準備進む |
【自由】党首:板垣退助 フランス流 【立憲改進】党首:大隈重信 イギリス流
主権在民 一院制院 君民同治 二院制
【 立憲帝政 】党首:福地源一郎(御用政党)
主権在君 翌年解散
*自由民権運動はここまでが豪農民権である。これ以後自由民権運動が激化していき、農民民権が始まる。その原因は松方財政にある。だから↓
松方財政
【背景】
大隈財政→1870年代末政府財政の悪化
インフレの発生… 物価が上昇 ・銀貨に対する 紙幣の価値が下落
原因→紙幣流通量の増加 国立銀行条例改正 1876=国立銀行券の兌換義務廃止
国立銀行(普通銀行)が乱立、旧士族が政府紙幣を資本金に銀行設立ラッシュ。
さらに、西南戦争 1877の戦費調達で政府紙幣を乱発→インフレで米価高騰
大蔵卿→松方正義の財政政策
① 紙幣整理 …増税・ 緊縮財政 ( 軍事費 以外)→不換紙幣の回収
② 官営事業 の払下げ…工場払下げ概則の廃止1880
1884払下げ本格化 赤字の官営事業売却(→ 軍需工場 は除外)
長崎造船所 《三菱》高島炭鉱《三菱》
院内銀山 《古河》阿仁銅山《古河》
三池炭鉱《三井》新町紡績所《三井》富岡製糸場《三井》
佐渡金山《三菱》生野金山《三菱》
深川セメント製造所《浅野》
③ 日本銀行 設立1882…中央銀行、唯一の発券銀行
国立銀行条例改正1883…国立銀行の紙幣発行権を否定→普通銀行にした。
日本銀行券発行1885…銀兌換券→銀本位制
松方財政の影響
長期の深刻な不況が農民層の分解を促進した。地主への土地集積が進行して 寄生地主制が確立する 一方で、土地を手放した農民は 小作農 に転落し、また貧農層の一部は都市に流入して低賃金労働者へと転化した。また、 自由民権運動は激化・衰退へ と向かい、一方で、物価の安定・低賃金労働者の形成・金利の低下・輸出の拡大を背景に、1880年代後半の日本は 企業勃興期に突入 した。
自由党 立憲改進党 1882 《私擬憲法の発表》1881ごろ 「私擬憲法案」… 交詢社 「東洋大日本国国憲按」… 植木枝盛 「 五日市憲法草案 」… 千葉卓三郎
農民民権←繭・米価暴落で困窮 ❶✖福島 事件1882 →県令 三島通庸 による、住民の意思を無視した道路建設の強行に対し、数千人の農民が蜂起。反対運動を支援した見解議長 河野広中 ら自由党員も検挙された。 ❷✖加波山 事件1884年、急進派自由党員が栃木県令を兼任していた三島通庸ら政府高官の暗殺を計画。発覚後、加波山で蜂起したが鎮圧された。 ❸✖秩父 事件…1884年、秩父地方の貧農層が自由党員の指導で困民党などを結成して展開した、組織的かつ本格的な武装蜂起事件をいう。軍隊の出動によって鎮圧された。 ❹ 大阪 事件…1885年、旧自由党員の大井憲太郎らによる、朝鮮の親清派政権打倒計画が発覚した。大井らは、朝鮮独立後の政治改革をバネに日本での立憲政治を樹立しようと意図していた。また、この事件で爆発物の運搬などに協力して投獄された景山英子は、民権運動が勢いを失うと、幸徳秋水・堺利彦らの平民社に参加して社会主義運動に身を投じていった。 ❻ 大同団結 運動…1886〜89年にかけて展開された、 後藤象二郎 ・ 星亨 らを中心とする民権運動諸派の統一的反政府運動をいう。民権派の再結集による議会での多数党形成を目指した。 ❼ 三大事件建白運動 …1887年、井上馨外相の条約改正案の内容(外国人判事の任用などを容認)が明らかになると民権派は、「 地租軽減 ・ 言論集会の自由 ・ 外交失策の回復 」をスローガンとする三大事件建白運動を展開。地方の民権派が続々と上京して建白書を提出し、政府に圧力をかけた。 |
❺政府による弾圧と懐柔 1882年、政府は集会条例改正する一方で、板垣退助・後藤象二郎をヨーロッパに外遊させた。また、外遊資金の出所(三井が提供)を立憲改進党が攻撃すると、自由党は大隈重信と三菱の関係をとらえて反撃し、両党の対立は泥試合の様相を呈した。
❽政府による弾圧と懐柔(1880年代後半) 政府(内相:山県有朋・警視総監:三島通庸)は、三大事件建白運動が高揚した1887年に→ 保安条例 を発し、中江兆民・片岡健吉・尾崎行雄ら約570名を皇居から3里外へ追放。一方で、1888年に大隈重信(外相)を、89年に後藤象二郎(逓信相)を入閣させた。
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