初期議会 第1回帝国議会から第6議会まで(これを初期議会と呼ぶ)政府と民党の衝突が見られる。藩閥政府と税金を払っている豪農のせめぎ合いだ!
内閣 |
藩閥・政府 |
民党・その他 |
黒田清隆
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①大日本帝国憲法公布1889✍憲法公布時の首相が黒田清隆は意外と盲点だ! ②超然主義の宣言(政府は政党の外に立って政策実現をはかる) 逓信相:後藤象二郎(大同団結運動の指導者) 外相:大隈重信(条約改正の失敗➡内閣退陣) |
民権派の再結集 |
第1次 山県有朋 外相
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①第1回総選挙1890:総議席300・➡小選挙区制
③1890第一議会 藩閥 VS 予算成立(陸奥宗光農商務省を使った自由党土佐派の買収 1890教育勅語公布 NOTE参照
山県の主権線・利益線NOTE参照 議会開設にあたって山県有朋首相は、独立確保のためには主権線(国境)の防御だけでなく利益線(朝鮮半島)の保護が必要だと主張し、軍備拡張の必要を説いた。 |
②民党(政府反体政党)が衆議院の過半数➡立憲自由党130議席・立憲改進党41議席 ◯吏党(政府支持政党)大成会(79議席)➡のち国民協会
民党「経費削減・民力休養」をスローガンに予算審議で政府に圧力 (政費削減・地租軽減)の主張が出る➡ ④自由党土佐派の裏切りに怒った中江兆民は議会をもって「無血虫の陳列場」とののしり衆議院議員を辞した。
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第1次
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✖大津事件 青木外相辞任→榎本武揚に代わる 海相:樺山資紀の蛮勇演説で議会紛糾➡議会解散→総選挙 内相:品川弥二郎(長州) 選挙干渉で辞職国民協会設立(吏党) 選挙干渉批判で➡衆議院を解散(内閣総辞職ではない)早稲田(商)で出た! |
民党:軍艦建造費削減の要求
田中正造 (立憲改進党)1891 足尾鉱毒事件を議会に!
死者25人出るも、自由党・立憲改進党多数を確保勝利。 |
NOTE 教育勅語
1890.10➡教育勅語公布(教育の基本・忠君愛国の国民道徳)
(起草は明治天皇の侍講元田永孚と法制局長官井上毅)
府県制・郡制公布
朕惟フニ、我ガ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ、德ヲ樹ツルコト深厚ナリ。我臣民克ク忠ニ克ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ、此レ我ガ國體ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス。・・・・・・一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ、以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ。・・・・・・
1890年に発布された教育勅語。井上毅と元田永孚が起草。儒教道徳を強調し,忠君愛国を臣民の天皇への奉仕として説いた。この勅語には国務大臣の副署がないため,天皇の意志だけから発せられたかのような印象をあたえ,大きな規範力をもつこととなった
山県内閣のNOTE
➀➡首相《♘山県有朋》
(予算をめぐる政府・民党の対立):
利益線(朝鮮)防衛の軍備増強主張
一方、民党は支持基盤である地主の利益を代弁し、経費削減(予算の削減)と民力休養(地租の軽減)を主張して対抗した。
☵史料研究
●利益線の確保・第一議会での山県首相の演説(山県有朋意見書)
予算中ニ就キマシテ最歳出ノ大部分ヲ占メルモノハ、即陸海軍ノ経費デ御座イマス。…蓋国家独立自衛ノ道ニ二途アリ。第一ニ【主権線】ヲ守禦スルコト、第二ニハ【利益線】ヲ保護スルコトデアル。其ノ主権線トハ国ノ彊域ヲ謂ヒ、利益線トハ其ノ主権線ノ安危ニ密着ノ関係アル区域ヲ申シタノデアル。…
問1史料の演説をおこなった当時の首相は誰か。山県有朋
問2「利益線」はどこの地域をさすと考えられるか。朝鮮半島
問3政府に対して、民党側がとなえたスローガンは何か。
政費節減・民力休養
☈自由党の方向転換
民党として掲げてきた「民力休養」要求は、民権運動期には現実に適合したが、議会開設後は、そうではなくなっていた。なぜなら、制限選挙(有権者人口は全人口比約1.1%)
を後退させ、公共事業費による地方開発にも意を注ぐ、とした。「富国」政策を媒介にして政府に摺り寄った自由党は、党勢拡大を狙ったのだ。伊藤もそれを期待した。👉藩閥政府と対立し続けてきた自由党が、その方向転換を明確に打ち出した。
これは日清戦争の勃発と、清国からの賠償金の獲得とが、「民力休養」から「積極政策」への自由党の方向転換を可能にさせたのである。
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藩閥政府 |
民党・その他 |
第四議会 1892〜93 伊藤博文 元勲内閣 |
外相:陸奥宗光 ➡天皇の建艦詔勅により予算成立(和衷協同の詔書) 自由党と手を組む |
民党 軍艦建造費削減要求 |
第五議会 1893 |
条約改正問題で紛糾 解散、総選挙1894 |
第五・六議会では民党を構成していた立憲改進党と吏党と呼ばれていた国民協会などが連合して、第2次伊藤内閣を条約改正問題などで攻撃するようになった。この政治勢力のことを、強硬外交を意味する対外硬の主張を掲げたところから、対外硬派(連合)という。 |
第六議会1894 |
政府と自由党の接近 (富国政策による党勢拡大を狙った自由党) |
➡対外硬派連合 (立憲改進党・国民協会の2党中心):政府の条約改正反対。対外硬派は、対外独立の達成、旺盛な対外進出を説き、とりわけ条約改正問題では、対等条約実現=主権回復のためには現行条約を励行して外国人にその不利益を認識させ、それでも欧米諸国が対等条約締結交渉に応じない場合は、現行の不平等条約破棄をも恐れるばきではないという強硬論を主張した。しかし強気な陸奥宗光外相は議会を解散する措置がとられ、第六議会終了後の翌月、最初の条約交渉に成功し、日清戦争に突入する。 |
第七議会1894 |
➡日清戦争開戦➡大本営が置かれた広島で開催 政党は政府批判を中止、軍事費などを討論なし全会一致で可決 |
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目標 相互的な最恵国待遇 関税自主権の獲得=税権の獲得
7人の交渉担当者
➊岩倉具視(右大臣・特命全権大使)
➡アメリカで予備交渉が失敗、内治優先論に転換し征韓論と対立
➋寺島宗則(外務卿)
➡アメリカは同意、イギリス・ドイツが反対
(最恵国待遇の規定により列国全ての承認必要)
➌井上馨(外務卿➡外相)長州
欧米諸国と一括交渉した点が井上外交の特徴である。
アメリカが喜ぶことを探る
ヨーロッパに同調する外交を目指す
➡欧化政策…鹿鳴館での舞踏会開催 外国要人を接待する社交場を作りる。
(改正交渉をうながすため)
➡改正案①……内地雑居の容認、改正案②半数以上の外国人裁判官を任用する
◌政府内外の批判 フランス人法律顧問ボアソナードが反対
農商務省谷千城が反対・世論の反対(民権運動家の反対)
✖ノルマントン号事件1886…領事裁判権はよくないぞ!の世論➡井上馨辞職
井上馨の改正案の内容とそれが失敗に帰した理由を具体的に説明しなさいという問題が一橋大2011で出た。
➍大隈重信(外相)…黒田内閣
◌ 法権の回復をめざす(国別秘密交渉)
◌大隈案…外国人裁判官を大審院に限り任用する
◌「ロンドン・タイムス」で報道
➡外国人に日本の裁判やらせるのか!
➡玄洋社の爆弾テロで大隈片脚失う。
➎青木周蔵(外相)…第1次山県内閣
◌法権回復をめざす
いつも反対のイギリスと交渉…急にイギリス好意的➡ロシアのシベリア鉄道建設
➡イギリスはロシアのアジア進出を警戒(日本を味方につけロシアと対抗だ)
✖大津事件1891…来日したロシア皇太子を巡査津田三蔵が襲う(日露関係の悪化を恐れ政府は津田の死刑を要請)but
➡大審院長児島惟謙が司法権の独立を守る(謀殺未遂の無期徒刑)
➡青木外相は引責辞任(条約改正交渉は中断)
青木後の榎本武揚外相(何もなし)
➏陸奥宗光(外相)…第2次伊藤内閣
◌日英通商航海条約調印1894(1899施行)
内地解放の承認、領事裁判権の撤廃、最恵国待遇の双務化、関税率の一部引下げ実現
☵史料研究 「蹇蹇録」
明治二十七年七月十三日付を以て、青木公使は余に電禀して曰く、「本使は明日を以て新条約に調印することを得べし」と。而して余が電信に接したるは抑々如何なる日ぞ。鶏林八道の危機方に旦夕に迫り、余が大鳥公使に向ひ、「今は断然たる処置を施すの必要あり、何等の口実を使用するも差支なし、実際の運動を始むべし」と訣別類似の電訓を発したる後僅に二日を隔つるのみ。
➐小村寿太郎(外相)…第2次桂内閣
◌アメリカとの新通商航海条約調印1911➡税権の完全回復
受験の極意
条約改正の外務大臣は年代ごとに2人
70年代=岩倉と寺島、80年代=井上と大隈、90年代=青木周蔵と陸奥宗光
論述研究 筑波大学 2000年度 帝国議会開設前後の政治状況/近代
帝国議会開設前後の政治状況について,次のア~エの語句を用いて論述せよ。解答文中,これらの語句には下線を付せ。ただし,語句使用の順序は自由とする。400字以内で解答せよ。
ア 超然主義 イ 条約改正 ウ 民党 エ 品川弥二郎