①日中戦争の勃発
戦争は日中両軍の突発的な事件から始まった。日本は北清事変の駐兵権で、北京・天津近郊に北支駐屯軍を置いていた。1937年、北支駐屯軍が盧溝橋東の豊台で夜間演習。中国は警戒を強め、盧溝橋付近に兵力を増強した。
7月7日、7時半から日本軍が夜間演習を始める。終了時の
10時40分、どこかから数発の実弾が撃ち込まれ、点呼をとると兵隊1人が行方不明だった。日 本側は中国軍が発砲してきたものとして中国軍に対して攻撃を開始。
盧溝橋を占拠した。不明者は実は用便中で後から出てきた。
東京裁判では、柳条湖事件が日本の謀略とされたのに対し、盧溝橋事件は特定できなかった。最初の一発の主は現在もわからない。
1937.6【近衛文麿】内閣成立。近衛家筆頭。藤原家であり、国民の人気は高かった。
1937.7✖︎(盧溝橋)事件発生
石原莞爾陸軍参謀本部作戦部長が「事件を拡大させるな!」と制するも「貴方が柳条湖でしてきたことをしているにすぎない」と言われ、さすがの石原も沈黙せざるをえなかった。
日中戦争の開始
1937.9 【国共合作】(第2次)成立
これにより抗日民族統一戦線が結成
1937.12 日本軍、国民政府の首都南京を占領。占領時に、日本軍が多数の中国人一般住民や捕虜を殺害する【南京事件】発生。南京大虐殺といわれるものである。その規模はいまだ確定していない。ただ兵士の名誉のために一言いっておきたい。一般住民になりすました中国兵もいたようである。すべての兵士が悪いのではない。
以後、国民政府は、首都を漢口へ、さらに奥地の重慶へと移して抗日戦を展開した。重慶の位置を赤◯せよ!戦後の極東国際軍事裁判で(松井石根)中支那派遣軍司令官が、その責を問われ死刑となっている。
②日中戦争の長期化
戦争は中国側の頑強な抵抗に遭遇し、日本の予想をはるかに超える長期全面戦争の様相を呈していった。
1938.1【第1次近衞声明】発表 出題頻度の高い用語である。
『国民政府を対手とせず』という声明によって、日本は和平の可能性を自ら断ち切った。首都南京占領をきっかけにドイツを仲介とする和平交渉(トラウトマン和平工作)を打ち切り抗戦を続ける国民政府の存在を否定して、傀儡政権の樹立とそれによる戦争の終結をめざした。近衞のこの声明は結果的に和平の機会を自ら遮断したのである。
1938.11 【第2次近衞声明】発表
『東亜新秩序』声明。日中戦争の
日・満・華3国によって東アジアに新秩序を建設することを日中戦争に政治的決着をつけようとした。
1938.12【第3次近衞声明】発表
→東亜新秩序の具体化、日・満・華体制に向けて(善隣友好・共同防共・経済提携)が示された。
汪兆銘工作本格化…陸軍は国民政府の要人【汪兆銘】を重慶から脱出させて親日政権を樹立させ、日中戦争に政治的決着を図ろうとした。
1940.3 汪兆銘政権(新国民政府)成立
汪兆銘政権は弱体で(中国人は離反)、この政権によって戦争を集結させようとした日本の政略は失敗。日中戦争は。「点(都市)と線(鉄道・幹線)を確保するだけの長期持久戦と化した。
戦争遂行への統制と管理
日中戦争に勝つためには日本の国力をすべてここに投入する必要が出てくる。国民生活が破壊されてゆくのは日中戦争になってからである。
① 【国民精神総動員運動】…1937
年、日中戦争開始後に進められた、「挙国
一致・尽忠報告・堅忍持久」をスローガン
とする戦争協力のための教化運動をいう。
日本精神の高揚が図られた。
② 【企画院】の設立…日中戦争開始
後の1937年に設置された、戦時統制経済の
ための諸計画の立案などにあたった総合国
策機関。物資動員計画・生産力拡充計画な
ど次々に立案されたが、その計画目標は一
度も達成されなかった。
③ 【経済統制の教化】…日中戦争勃発直
後に、政府は、軍需産業に資金を重点的に
投入するための臨時資金調整法1937と、貿
易関係物資を全面的に統制する輸出入品等
臨時措置法1937を公布して、本格的な経済
統制を確保した。
【国家総動員法】の制定…1938年成立。国家 総動員法は、議会の承認なしに人やモノを国が使えるという法律である。法治主義の原則を無視し、議会を無力化し政府に独裁権限を与えるものだった。さすがに国会が抵抗する。委員会でへたな説明をした佐藤賢了中佐にヤジが出されたが、「黙れ」と一喝して通してしまう。
戦時の際の「人的及物的資源」の統制運用を勅令によって可能にした法律。これによって政府は、議会の承認なしに総力戦のための経済統制を広範に実行する権限を確保した。国家総動員法にもとづいて、賃金統制令・国民徴用令・価格等統制令など多くの勅令が発せられた。また、国家総動員法と同時に(電力国家管理法)が制定され、民間の電力会社は単一の国策会社=
(【日本発送電株式会社】を問う問題が出た)に統一され、政府による民間企業への
介入が強化されることになった。
⑤ 国家総動員法成立の政治的意味
従来、立法・予算を左右する権限をもつ帝国議会、とりわけ衆議院に依拠して活動してきた政党は、その権限の無力化を意味する国家総動員法の成立によって、国政への発言権を急速に後退させることになった。
④ 国民生活と経済統制
パーマネントをやめましょう」という呼びかけがされ、節約と愛国精神高揚のため「日の丸弁当」の日が決まり、国民服、モンペ姿などが町に溢れる。「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」の時代となった。
軍需生産に寄与しない商品の生産・販売を禁じた【七・七禁令】(奢侈品等製造販売制限規則)の公布(1940年)など、生活必需品への統制も急速に強化された。具体的には、1940年6月の砂糖・マッチの【切符制】導入を機に、生活必需品の【配給制】が戦時における統制経済の一環として実施され、以後、1941年4月に米穀配給通帳制がとられるなど、日用品をはじめとするほとんどの物資が国家統制の対象とされていった。
⑦ 労働力の動員
労働分野では、労働者を戦争に協力させることを目的とした【産業報国会】の組織が進められた。1940年には大日本産業報国会が結成され、労働組合は解散を強制された。
⑧ 戦時下の思潮
国家主義的機運が高まるなかでマルクス主義は衰退し、転向者による文学が生まれた。中野重治の『村の家』、島木健作の『生活の探求』が出た。日本の伝統文化を優越したものとして、それに回帰する文化が盛んになった。亀井勝一郎・保田与重郎らが雑誌『日本浪漫派』を刊行した。戦争文学として火野葦平『麦と兵隊』、(石川達三)の『生きている兵隊』がある。石川のは、発売禁止となった。
⑨【人民戦線事件】
日中戦争開始後、日本無産党・日本労働組合全国評議会など合法的無産勢力に対して治安維持法を適用した弾圧事件。1937年に、加藤勘十・山川均・鈴木茂三郎らの主に(日本無産党)・全評に所属する運動家も反ファッショ人民戦線を企図したとして検挙されている。
第2次人民戦線事件では、労農派の(大内兵衛)や(有沢広巳)【戦後の経済改革で傾斜生産方式を提唱した経済学者】