22 国際連盟脱退 二・二六事件


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22 国際連盟脱退・金本位制離脱。二二六事件.pdf
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元老西園寺➡政党内閣を諦め斎藤実内閣(海軍、挙国一致内閣)を擁立


 政党だけでなく軍部・官僚などの諸勢力との連立内閣。第一次加藤高明内閣以来の政党内閣の終焉。

蔵相➡高橋是清斎藤内閣の目玉は1932.9日満議定書締結。

 政府は満州国を承認し、満州における日本の既得権益の承認と日本軍の駐屯を規定した。これは、日本の満州に対する植民地支配を国際条約で確認させたものである。満州国の実権は関東軍司令官に握られていた

☶史料研究 日満議定書(日本外交年表並主要文書)

二、日本国及満州国ハ締約国ノ一方ノ領土及治安ニ対スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約国ノ他方ノ安寧及存立ニ対スル脅威タルノ事実ヲ確認シ、両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ルヘキコトヲ約ス。之カ為所要ノ日本国軍ハ満州国内ニ駐屯スルモノトス

1932.10 満洲事変・満州国を不当とするリットン報告書出される。

リットンはイギリス人。👉『戦争まで』加藤陽子著 朝日出版社 には詳細なリントン調査団のことが書かれている。大学生になったら是非読んでほしい本である。


リットン報告書の内容
①満州事変は日本の合法的な軍事行動によるものではない。    

1933.1 ヒトラー政権誕生

1933.3 国際連盟脱退

リットン報告書に基づく対日勧告案が421で採択されたのを受けて。

日本側全権松岡洋右“さらば連盟” “

このとき松岡は外相ではない。外相➡内田康哉 

また、日本は第2次ロンドン軍縮会議を脱退してロンドン海軍軍縮条約も失効し、廃棄を通告していたワシントン海軍軍縮条約も失効して、国際的な孤立の道へ進む。


日中軍事停戦協定

1933.5塘沽停戦協定)締結。19332月以降、日本軍は河北省にも侵攻していたが、河北省東北部の(冀東)地区から日中両軍が撤兵し、そこを非武装地帯として中国警察当局が警備にあたる取り決め。満州事変は一応終息。347㌻脚注❸参照

華北五省(吉林黒龍江奉天熱河・興安

 

恐慌からの脱出

金本位制離脱

犬養内閣の(高橋是清)蔵相➡金輸出再禁止断行

管理通貨制度)へ移行する。【政府が日本銀行券発行額を管理統制する制度で現在とは違う】 

高橋是清の政策が出た(早稲田【文】2014

しっかり高橋の政策を覚えよう!
低為替政策)【円安政策】で意図的に円安誘導し輸出を伸ばした。(外国為替管理法)を制定し(赤字)国債の発行をして歳入不足を補いつつ、(軍事費)(農村救済費)に積極的な財政出動を行い産業界を活気付けた。

時局匡救事業

政府は救農土木事業を実施して窮乏した農民に現金収入の途をひらいた。また「自力更生」の名のもとに、勤倹・貯蓄を推奨し、共同販売・共同購入などをおこなう産業組合の設置をすすめる(農山漁村経済更生運動)を推進した。

転向の時代

 

933.5 滝川事件起こる。

京大教授滝川幸辰の著書『刑法読本

共産主義だけでなく、自由主義・民主主義的な学問・思想への抑圧も強まった。1933年、京都帝国大学の滝川幸辰教授の『刑法読本』などが、国家破壊(自由主義的)の著作であると、鳩山一郎文部大臣(斎藤実内閣)の圧力で休職処分となった。この時、同大学法学部の教授会は全員辞表を出して戦ったが敗北した。滝川事件(京大事件)である。この事件で、大学の自治は崩壊し、思想弾圧でも自由主義者にまで拡大された点で重要である。

鳩山一郎はこの事件がもとで戦後、公職追放となる。 

 

岡田啓介内閣」」:(海軍)


斎藤内閣の後、海軍穏健派の岡田啓介が組閣した。

1934.10陸軍パンフレット事件

陸軍省が発行した軍国主義賛美の冊子『国防の本義と其強化の提唱』をめぐり、政党が軍部の政治関与として反対した事件。軍部が釈明して一応解決したが、軍部が公然と政治に介入したのは事実である(1882年に出された軍人勅諭で、軍の政治介入は禁止されている)。

1934.12 ワシントン海軍軍縮条約の廃棄をアメリカに通告。

 

1935.2 天皇機関説問題

 元東大教授で貴族院議員美濃部達吉が唱えた天皇機関説が叛逆思想であるとして➡貴族院【早稲田法2009で出た】軍出身議員の菊地武夫議員から(九州の菊池氏の子孫)弾劾される。美濃部の著書の発禁と議員辞任で決着する。

1935.8国体明徴声明出される。【岡田内閣時】

これは天皇機関説問題に関する政府の回答として出された。改めて天皇を確認するものであった。8月の第一次声明は天皇機関説は国体に反する、10月の第二次声明は天皇機関説を除去するというものである。これ以降、「 国体 」という言葉が全体主義的国民統合のための言語魔術として、猛威を振るうようになった。そして、五・一五事件で政治的に打倒された政党政治は思想的にも葬り去られた。

1936.1     ロンドン海軍軍縮条約から脱退し、無制限建艦時代に突入する。


2016年11月17日、衆議院の憲法調査会で、日本会議国会議員の会員でもある自由民主党の某衆議院議員は、天皇の「生前退位」に関連し

1936.1   二・二六勃発1936年2月22日

陸軍皇道派青年将校らが「昭和維新」を唱え、首相官邸などを襲撃し、重臣と次々と殺害した。事件後、東京市には、戒厳令が出され、統制派(石原莞爾ら)に鎮圧される。

斎藤実大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎陸軍教育総監らが殺害された。

☈皇道派と統制派

政治的発言力を増した陸軍には、皇道派と統制派という派閥が出来ていた。皇道派は、荒木貞夫、真崎甚三郎らを首領とし、天皇親政の国家革新を唱える隊付の青年将校らの一派である。統制派は、陸軍省・参謀本部などの幕僚将校を中心に軍部内の統制強化を主張し、親軍部の新官僚や財界・政界とも接近し、総力戦を目指す高度国防国家の建設を志向した。

 

名の由来は、荒木貞夫が「皇道」などの語を好んで使ったため。西田税{みつぐ、みつぎ}や北一輝ら国家主義者と交流があった。

永田鉄山や東条英機らが中心人物。

広田弘毅内閣(外交官)

陸軍は、自由主義的入閣予定者の排除、国体明徴の徹底、国体生活の安定、国防の充実強化、外交の刷新を要求して、組閣に介入した。広田はすべて承認し、軍部に従属する内閣が生まれた。内閣は、庶政一新、日本精神の作興、経済の国家統制強化などの広義国防国家の建設を目標に掲げた。国策として満蒙開拓団を送り出す計画を決定(戦後、残留孤児を生む)

 

1936.5 軍部大臣現役武官制が復活

二二六事件後、粛軍の名のもと皇道派を一掃した統制派が人事権を確立させるため復活。これにより、軍部大臣の辞職や内閣への非協力などを武器とすることが再び可能となり、今後軍部の政治への発言権はさらに強化される。戦後、極東軍事裁判で広田弘毅は死刑になるが、この復活はその理由の一つである。

 

1936.8 「国策の基準」が決定される。

1936年、ワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約が失効するため、陸海軍は帝国国防方針の改定を行なった。この時、陸軍は対ソを前提とする北進論、海軍は南洋諸島・東南アジアへの進出を前提とする南進を採っていた。そこで、総理、陸軍、海軍、外務、大蔵の5大臣会議で「国策の基準」を決定し、従来の対ソ戦略に加え、対英米の南進路線を強化した。そして、華北分離工作を進めて、大規模な軍備拡張政策を推進していった。

1936.11 日独防共協定締結
この協定で、共産主義の拡大を阻止するための共同防衛措置を規定し、付属の秘密協定でソ連を仮想敵国とした。

1936.12 西安事件 

➡国民政府の張学良が同じ国民政府の蒋介石を監禁し、内戦停止・一致抗日を要求した。蒋介石は中国共産党の討伐を進めており、中国国内で内戦状態が続いていたが、これを機に抗日民族統一戦線への道が大きく進められる。

宇垣一成(陸軍)=不成立

加藤護憲三派内閣時代、陸相として4個師団削減・軍近代化などの宇垣軍縮を断行した人物。反宇垣・反軍縮派が陸相選出を拒否、軍部大臣現役武官制に阻まれて陸軍大臣が得られず、組閣できなかった

林銑十郎内閣(陸軍)

財界から結城豊太郎を大蔵大臣に迎え、財界と軍部の調整を図った。結城の財政政策は、

軍財抱合と呼ばれた。しかし、政党・議会、陸軍との関係も悪かった。さらに、予算の成立後に、与党も作らず衆議院を解散した。食い逃げ解散である。結局、支持者が40人ほどしか当選せず、総辞職した。そして、近衛文麿が内閣を組織することになった。

1937.3 文部省が、一般国民向けに天皇の絶対随順などを説いた「 国体の本義 」を発刊する。

これは、記紀をもとに国体の尊厳・君臣の大義を説き、日本は天皇中心の家族国家とする運命共同体を唱導したものである。1941年3月、文部省教学局が『臣民の道』を刊行し、古今の古典・勅語などから忠君を説いた個所を引用し、皇国臣民の道を説いた。

皇居のほとりに和気清麻呂像があるということを多くの人は知らない。日本史選択者でないと和気清麻呂と出くわす機会はない。私はこの像が林銑十郎内閣のときに建立されたことに感慨をおぼえる