アメリカの思惑
極東委員会が設置される1946年2月をにらんでアメリカは動いた。太平洋戦争で多くの犠牲を払ってきたアメリカ。ヤルタ会談からソ連の参戦を求めポツダム会談ではソ連が参戦。ここからソ連の影響力を避ける方策が練られるわけだ。その一つが原爆でありもう一つが憲法改正である。7月16日原爆実験成功の報が伝わると、戦争終結に見通しのついたトルーマンはソ連の助力を求めない方針に転換します。広島・長崎への原爆投下は、こうした背景でとらえる必要がある。8月8日ソ連が満州に参戦してきた理由は、アメリカの一人勝ち状態で大戦が終わることへの危機感があったのです。8月28日から千島列島・樺太へとソ連軍が侵攻してきたのは、その証左である。ガンカメラ
1945年9月、ベトナム民主共和国独立宣言が行われたが、日本敗戦とともに(フランス)軍が戻り、同国に対する独立戦争が始まった。1945年3月、ビルマ(反ファシスト人民自由連盟)が抗日武装蜂起。日本の降伏後は、反英独立闘争を展開。インドネシア独立宣言1945.8
1945.8.15朝鮮解放。アメリカ大統領(トルーマン)が、ソ連首相(スターリン)に対して、対日武装解除境界線を北緯38度とすることを提案し、受け入れられる。
中国では、(中国共産党)軍が、日本の武装解除と占領地接収を目指していっせいに行動開始。(中国国民政府)軍は、汪兆銘政権軍も使ってそれに対抗。満州はソ連が占領。ソ連の撤退とともに両軍間で激戦。
国際連合
1945.10発足。(アメリカ)(イギリス)(ソ連)3国が大戦中から国際秩序に関する討議を続け、それが国際連合に結びついていることが出た。また発足時は連合国(51)ヵ国であった。
ヒガシデヨカッタアシダして、ヨシ!ハトイキてるイケのサトタミフるオオスギナイ?
♞幣原喜重郎内閣 のち日本進歩党(=旧立憲民政党系)総裁
1945.10 GHQ、内閣に対し民主化に関する五大改革指令を口頭で指示。
民主化の推進
ア人権指令1945.10
…最高司令官マッカーサー➡東久邇宮稔彦内閣=拒否、総辞職
☈民主化指令(人権指令)が出された背景
民主化指令が出されたのは、9月26日に哲学者の三木清が栄養失調と拘留中に感染した肝臓病で獄死したことにある。内務大臣は、「思想取締りの秘密警察は現在直活動を続けており、反皇室的宣伝を行なう共産主義者は容赦なく逮捕する。…共産党員である者は拘禁を続ける。…政府形態の変革、特に天皇制廃止を主張する者はすべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕される」と語り、敗戦一月以上経っても、国民の自由は保障されていなかった。政府の対応と政治犯の扱いに対する関心の高まりに対し、GHQは次々と日本の民主化を進める指令を出すことになった。
また、9月27日、各新聞に天皇とマッカーサーの会見の前に撮影した写真が掲載された。写真は天皇が正装、マッカーサーがノーネクタイで腰に手を置いたラフな姿だった。これが不敬とされ、掲載した新聞は発禁となったが、GHQは直ちに処分の撤回を命じた。マッカーサーが天皇以上の権力者であることを国民に印象づけるには十分だった。
☈一億総懺悔
終戦直後に成立した東久邇宮稔彦王内閣は、「一億総ざんげ」「国体護持」を唱え、連合国軍の進駐を受け入れ、降伏文書に調印するなど、円滑に終戦処理に当たった。1945年9月、GHQはプレス・コード(新聞発行綱領)で占領軍の批判を禁止し、新聞の事前検閲を行なった。10月4日、GHQはいわゆる人権指令を出した。この内容は、天皇制批判の自由、治安維持法など統制法規の廃止、政治犯・思想犯の即時釈放、特別高等警察(特高)の解体と内務大臣らの幹部罷免などである。内務大臣を罷免された東久邇宮内閣は、「黙過しては日本政府の威信が地に払う」と、翌日総辞職した。
五大改革指令
1婦人の解放:新選挙法 2労働組合の結成:労働三法と労働省設置(1947)
3教育の自由主義化:「アメリカの教育使節団が来日」、「教育基本法=義務教育9年、男女共学」、「学校教育法=六・三・三・四の新学制」、「教育委員会法=公選制→任命制(1956)」
4圧政的諸制度の撤廃 ウを参照
5経済の民主化:財閥解体と農地改革
ウ 政治的自由の拡大
(a)政治犯の釈放、治安警察法・治安維持法や特別高等警察などの廃止1945
(b)政党の復活…日本自由党・日本進歩党・日本社会党・日本共産党など
(c)衆議院議員選挙法改正1945…満20歳以上の男女に選挙権(婦人参政権の実現)
1945.10 GHQの指示により憲法改正審議のための➡憲法問題調査委員会
(委員長➡松本烝治国務相)が発足する。
1945.10➡国際連合発足(日本の国連加盟は56年12月)
常任理事国は米 英 ソ 仏 中
1945.11➡財閥解体指令出され、財閥の資産凍結開始。
(三井)(三菱)(住友)(安田)等の15財閥資産の凍結命令が出た。1946年4月、(持株会社整理委員会)令が公布され、同委員会は84社の持株会社と大財閥家族を指定して、株式を持株会社整理委員会に譲渡させた。これら株式は一般に売り出され、経済の民主化が推進された。また、1947年4月には(独占禁止法)が公布され、私的独占とカルテル行為が禁止された。この法律は、①将来にわたって独占を予防する措置法、②冷戦の進展とともに規制内容を大幅に緩める、③監視機関は(公正取引委員会)、であると出た。さらに1947年12月(過度経済力集中排除法)が公布され、各産業分野の巨大独占企業が分割される予定となった。「資産の(凍結)・(解体)」、「株式などの(譲渡)を受けて(一般)に売り出し」【P372】等、言葉を正確に記憶しないと正誤問題が解けない。持株会社解体、独占禁止に対し、企業の分割は不徹底であった。分割された代表例は(日本製鉄)【この会社が八幡製鉄と富士製鉄とに分割されたことが出た】
(王子製紙)(三菱重工)(大日本麦酒)等である。商事会社の(三井物産)(三菱商事)も解体されたが、これは持株会社指定によるもので、過度経済力集中排除法に基づいて実施されたものではない。過度経済力集中排除法に基づいては、1948年2月までに(325)社が指定を受けたが、実際に分割されたのは上記の企業をはじめ(11)社に過ぎなかった。同年5月には多くの会社が指定解除となった。この数字がよく問題となる。
農地改革
第1次農地改革は、日本政府の自主的決定に基づいて1945年12月(農地調整法)を改正して実施された。この法律は、1938年に(国家総動員法)(電力国家管理法)とともに制定された戦時統制法であり、戦争遂行の立場から耕作者の安定と農業生産力の増進を図るためのものであった。すごく甘かったのだ。農地改革が(幣原喜重郎)内閣時に始まったことが出た。1946年10月に制定された(自作農創設特別措置法)と再改正農地調整法に基づいて第2次農地改革が始められた。これは第1次(吉田茂)内閣時に開始されたことが出た。
(対日理事会)の答申に基づいてGHQの勧告案が出て自作農特別措置法ができたこと、「(国)が(強制)的に買い上げて、小作人に優先的に安く売り渡した」こと【家のじさまが怒っていたのを思い出す】1950年頃までに農地改革がほぼ完了し「(小作地)が1割程度までに減少した」こと、5反以下の農家が増えたこと【P373】、等を正確に記憶せよ。国が強制的に買い上げる基準である都府県1町歩、北海道4町歩も出た。農地委員会の構成=地主3、自作農2、小作農5が出た。関連して、1946年には日本農民組合が再結成されていることを記憶せよ。また、農村の変化に関わっって、川島武宜著の『日本社会の家族的構成』が出た。論述研究:一橋大→近現代の寄生地主制とその展開:2009⑵
|
第一次(幣原) 農地調整法改正 |
第二次(吉田) 自作農創設特別措置法公布 |
不在地主 |
保有を認めない |
保有を認めない |
在村地主 |
5町歩 |
内地1町歩(北海道4町歩) |
自小作地保有限度 |
なし |
内地3町歩(北海道12町歩) |
農地委員の構成 |
地主・自作・小作とも5名 |
地主:自作:小作=3 : 2 : 5 |
小作料 |
金納(希望者現物納) |
金納(田=25%・畑=15%) |
譲渡方法 |
小作人の申し出により政府が土地の売却を斡旋 |
国が土地買収し小作人へ譲 |
結果 全国小作地の80%の買収、小作地は10%を割る。➡寄生地主制の崩壊
山林原野は除外➡山村地主は存続
労働関係調整法は1946年9月に制定。中央と地方に(労働委員会)が置かれた。労働基準法は1947年4月に制定。8時間労働制が定められた。男女同一賃金が定められたが雇用における男女同一基準ではない。関連して片山哲内閣のとき、(労働省)が設置された。日本社会党内閣らしきものでもある。
教育改革
1945年に(修身)(日本歴史)(地理)の授業停止指令。教育基本法・学校教育法ともに1947年3月制定。GHQが招聘したアメリカ教育使節団の勧告に基づいて教育の民主化が行われた。日本側は(南原繁)を委員長とする(教育家委員会)を組織して使節団に協力。
☶論述研究 早稲田大(政経)2008
D.マッカーサーは、時の首相に「五大改革指令」を伝えた。最初に、「五大改革指令」の内容を明らかにし、次の、五大改革から2つ取り上げ、具体的な制度改正や改革を120字以内でまとめて記せ。
解答例
五大改革指令は、婦人解放、労働組合結成奨励、教育の自由主義化、圧政的諸制度の廃止、経済の民主化。選挙法改正により婦人参政権が実現し、婦人代議士39名が当選した。労働組合法・労働関係調整法・労働基準法の労働三法が制定され労働者の権利が保障された。