1950.6 ✖朝鮮戦争の勃発
1950年6月25日北朝鮮がソ連の同意のもとで,南北境界線の北緯38度以南への侵攻を開始し,朝鮮戦争がはじまった。朝鮮半島における統一国家樹立に向けた内戦だったが,冷戦の進展を背景として国際的な戦争として展開した。アメリカの北進、中国人民義勇軍の参戦等を経て、1951年7月(板門店)で休戦協定。この時の勧告大統領は(李承晩)が出た。なお,1951年3月マッカーサーは中国への戦線拡大を主張して(原爆を落とすと主張したらしい)トルーマン大統領と対立し,国連軍総司令官・連合国軍総司令官を解任された。
「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」
警察予備隊
1950.7 朝鮮戦争に動員されたアメリカ軍の空白を埋めるため、マッカーサーの指令により➡警察予備隊が設置される。定員は(7万5千)人。旧軍人が公職追放から解除され彼らが採用されていった。
☈自衛隊設置までの変遷
1950 1952 1954
警察予備隊➡保安隊➡自衛隊設置
➡保安庁設置 防衛庁設置
✖レッドパージ行なわれる
政府機関・共産党は非合法化され、政府機関・報道・教員・産業界などで広範な共産主義者の追放を行ない、民間人10972人、公務員1177人が公職追放された。8月、共産党の影響力を受けていた全労連(全国労働組合連絡協議会)に、団体等規正令に基づいて解散指令を出した。
朝鮮戦争による特需景気1950~1953→ボロ儲け
1950.10 公職追放解除が始まる
総評
(日本労働組合総評議会)の略。反産別会議系の組合がGHQの後押しで全国組織を結成した。しかし講和問題を契機に日本社会党と提携し、保守政治に対する対決的姿勢を強めた。
講和と安保条約
日本といつ講和を結んで、独立させるか。日本を占領統治するアメリカ政府部内では、国務省の早期講和論と国防総省の占領継続論が対立していた。また、日本国内でも、全面講和論と単独講和論が対立していた。全面講和論➡平和条約をソ連・中国を含めるすべての
連合国と締結せよとの主張で、南原繁や大内兵衛らの知識人層、社会党・共産党の考えである。単独講和論は、米ソの妥協が出来ない情勢では一部の国と平和条約を締結するのも止むなしとする政府・保守党の考えである。東アジアは、中華人民共和国の成立や朝鮮戦争の勃発など緊迫していた。そこで、アメリカは日本を東アジアでの共産主義の防壁とするため、早期講和論を採ることにした。しかし、日本が独立するとアメリカ軍は撤退しなければならないが、吉田茂総理大臣は経済復興に全力を注ぐため、アメリカ軍に基地の提供と安全保障を依存することを決めた。また、全面講和を唱える東京大学総長の南原繁を「曲学阿世の徒の空論」と非難した。(早稲田政経)
1950年9月にアメリカは対日講和の開始を指令し、翌年2月にダレス外交顧問が来日し、3月に条約案を内示した。この案は、条約発効後もアメリカ軍が駐留し、基地の存続を認め、日本の再軍備を推進するものでもあった。7月に講和会議を招集し、8月に条約案が確定した。
1951.9連合国軍による占領の終了
☒日本と連合国との間で、サンフランシスコ講和会議が行なわれ
➡サンフランシスコ平和条約(全権吉田茂首相ら ➡発効1952)
アメリカ主導の単独講和
⒜(インド)・ビルマ(現ミャンマー)・ユーゴスラビアが会議に不参加
⒝(ソ連)・ポーランド・チェコスロバキアが調印拒否(早稲田出た)
⒞中華人民共和国・中華民国とも招かれず
この条約で、日本は正式に朝鮮の独立を認めるとともに、日清戦争・日露戦争で獲得した(台湾)(澎湖)諸島・(南樺太)等を放棄した。しかし、(樺太千島交換)条約で確定した日本領土である千島列島を放棄したことは、ソ連→ロシアとの領土問題を発生させることとなった。また、(沖縄)(奄美)諸島【1953年日本に返還】・
(小笠原)諸島は国連の(信託統治)が予定されていたが、アメリカはそれを行わず自国の施政権下においた。これら地域の返還時期も出題される。講和条約の起草はアメリカ国務省顧問(ダレス)。日本は、(フィリピン)(インドネシア)(ビルマ)(南ベトナム)と賠償協定を結んだが、建設サービスや商品の提供という形となったので、後の日本商品輸出や資本進出の足がかりとなった。
日米安全保障条約
平和条約と同日に締結され、アメリカ軍が引き続き駐留することになった。その前月に(米比相互防衛条約)が締結されたことが出た。1952年2月には日米安全保障条約に基づいて(日米行政協定)が締結されたことも出る。日米行政協定は、1960年の新日米安全保障条約締結後に(日米地位協定)に引き継がれた。
占領期の文化
並木路子の「リンゴの唄」が闇市に流れ戦後初のヒット曲となった。無頼派と呼ばれた作家たちの作品が、焼け跡に戻ってきた青年たちの感性を捉えた。
『堕落論』の(坂口安吾)『斜陽』『走れメロス』の(太宰治)
『中央公論』の復刊、『世界』『思想の科学』創刊等。また、マルクス主義が急速に復活し、社会科学分野で大きな影響力を持った。(湯川秀樹)日本人初のノーベル賞【物理学賞】受賞。水泳、【フジヤマのトビウオ】(古橋広之進)の世界記録樹立が早稲田教育で出た。(黒澤明)『羅生門』のベネチア映画祭金獅子賞受賞。(丸山真男)著『超国家主義の心理と論理』等。(日本学術会議)の設立も出た。
文化財保護法
1949年の(法隆寺)焼損を機に1950年制定された。
高度成長の時代
冷戦構造の世界
米ソ対立の中で、第三勢力が結束。1954年、中国の(周恩来)とインドの(ネルー)が会談して(平和五原則)が確認された。ヨーロッパでも1957年ヨーロッパ経済共同体が組織された。1961年に非同盟諸国会議開催。1963年にはアメリカ・ソ連・イギリスの3国により部分的核実験禁止条約が調印された。反面、アメリカは、(北ベトナム)への爆撃を1965年に開始した。そんな時代である。
独立回復後の国内再編
1952.5 ✖メーデー事件
皇居前広場の使用禁止に反発して、労働者のデモ隊と警察隊が衝突した事件
サンフランシスコ平和条約の発効は、GHQの指令で制定された多くの法令の失効を意味した。そこで、吉田内閣は占領下の政策を修正する必要に迫られた。1952年5月1日のメーデー事件(皇居前広場事件)を機に、破壊活動防止法(破防法)を成立させた。この法律は、暴力的破壊活動を行なった団体の取り締まりを規定し、その調査機関として公安調査庁・公安審査委員会が法務省の外局に置かれた。ポツダム勅令の団体等規制令を補強して法律としたもので、その後の治安対策を考えた結果だが、広範な反対運動が起こった。
1952.7 警察予備隊が改組され(保安隊)となる。
1953.2 NHKテレビ放送開始
1953.10 吉田茂の腹心であった(池田勇人)とアメリカ国務次官補(ロバートソン)が会談し、日本の再軍備が合意された。この方向性で、1954年3月に日米相互防衛援助協定=(MSA協定)が成立した。アメリカの経済・軍事援助を受けたいのなら日本の防衛力を増強しろ、というものです。(防衛庁)が設置され、自衛隊は内閣総理大臣の指揮監督を受ける防衛庁長官により統括されます。つまり(文民統制)【シビリアン=コントロール】ですね。
新警察法
自治体警察が廃止され、警察庁指揮下の都道府県警察に一本化された。また、いわゆる教育2法【「教育公務員特例法の一部改正法」と「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」】によって公立学校教員の政治活動と政治教育が禁止された。
また、教育委員会が公選から(任命)制に変わったのは大きな変化である。
米軍基地反対闘争
1954年、石川県の(内灘)や東京都の(砂川)で米軍基地反対闘争が激化した。こうした闘争のなかで、自由民主党は憲法改正と(アメリカ)依存の安全保障を主張し、日本社会党は、憲法擁護と(非武装中立 )を主張した。また、1954年3月、ビキニ環礁でアメリカが水爆実験、日本の漁船第五福竜丸 が被爆。→海底の洞窟の奥深くで現代まで生存していた、200万年前の太古の生物が、水爆実験で行動を開始した。そして東京に上陸する。
1955年に(原子力基本法)が制定されたこと、1963年に(東海村)で原子力発電が始まったこと、ここで1999年に(臨界事故)が発生したことが出た。福島第一原発事故を踏まえて、記憶したい。
55年体制の成立
1954年の造船疑獄事件により吉田内閣への批判が強まり、鳩山一郎らが(日本民主党)を結成した。同年末に吉田は退陣し、鳩山内閣が誕生。鳩山内閣のキーワードは(憲法改正)と(再軍備)を強く打ち出したこと。
日ソ国交回復
鳩山一郎とソ連の(ブルガーニン)首相との間で(日ソ共同宣言)が調印され、国交が回復した。
この国交回復の結果、日本の(国際連合)加盟をソ連が賛成し、それが実現できたことは重要。財界の強い要望を背景に、自由党(党首は吉田派の緒方竹虎)と日本民主党(党首は鳩山一郎)は、(自由民主党)を結成します。
ここに(保守合同)が行なわれました。対する野党第一党の社会党も左右の分裂をやめ統一します。この冷戦を背景とした自民党と社旗党による保守・革新対立の政治構造を、(55年体制)と呼びます。現在もそうですが、自由民主党は綱領で、憲法改正を掲げています。ですから自民党が衆参両院で全体の三分の二議席に達すると、憲法改正の国民投票が現実化します。今、それが実現するかもしれないターニングポイントですね。