35  江戸幕府の成立


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31 江戸幕府の成立 

松平家だったが、由緒ある家柄欲しく1566年、源氏の一族である新田の傍流得川氏の血を引くと主張して系図作り、徳川を名乗った。成りあがりの戦国大名。

小田原征伐後、

将軍

政治

戦乱

初代

家康

 

1603江戸幕府成立

家康征夷大将軍就任

後陽成天皇による宣下

1605将軍秀忠

家康駿府に移り大御所

➡将軍職は徳川家世襲を示す

1600関ヶ原の戦い

○徳川家康VS石田三成

→大名の扱いの分かれ目

西軍総大将➡毛利輝元周防・長門へ減封

2代

秀忠

 

1615一国一城令

福島正則改易

1615武家諸法度 元和令

大名が守るべき誓約。家康の命で

起草=金地院崇伝 

1615禁中並公家諸法度

 

1614 ✖大坂冬の陣

方広寺「国家安康、君臣豊楽」難癖つけた!

1615 ✖大坂夏の陣

 徳川氏VS豊臣秀頼

豊臣氏滅亡➡元和偃武

武器をおさめて使わないこと

 

 

1616家康死去

日光久能山に東照宮がある


2代

秀忠

 

1615一国一城令

福島正則改易

1615武家諸法度 元和令

大名が守るべき誓約。家康の命で

起草=金地院崇伝 

1615禁中並公家諸法度

 

1614 ✖大坂冬の陣

方広寺「国家安康、君臣豊楽」難癖つけた!

1615 ✖大坂夏の陣

 徳川氏VS豊臣秀頼

豊臣氏滅亡➡元和偃武

武器をおさめて使わないこと

 

 

1616家康死去

日光久能山に東照宮がある


関ヶ原の戦い

文治派 石田三成、小西行長、増田長盛、長束正家、大谷吉継

武断派 加藤清正、福島正則、黒田長政

大名に対する統制

改易

敵対した西軍の大名を改易(大名の領地没収)転封(国替)

減封(領地一部没収)上杉景勝は120万石から30万石へ減封。井伊直政は、石田三成の佐和山城を与えられ、その土地の西側に彦根城を作った。


石田三成・小西行長が京都六条河原で斬首。

小早川秀秋の西軍裏切りが勝敗を分けた。

大阪の役

家康のきっかけとしたのは方広寺の鐘銘。「国家安康」 「君臣豊楽」

1619福島正則は広島城を無断で改築して改易となった。

国絵図郷帳を作成させ全国の支配者であることを示した。

一国一城令

武力削減のため、領地内の城を領主の居城一カ所に限ることを命じた。

違反したら➡破却が出た。早稲田(文)

武家諸法度

1615年の武家諸法度=元和令は、家康が南禅寺金地院崇伝に起草させたものである。発令は秀忠の名でが絶対。

史料研究 武家諸法度 元和令

文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事。

一 諸国の居城、修補なすと雖も、必ず言上すべし。況んや新儀の構営硬く停止せしむる事。……

慶長廿年七月

史料研究 寛永令

一、文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事。

一、大名小名、在江戸の交替相定むる所なり。毎歳 夏四月 参勤 致すべし。

一、私ノ関所、新法ノ【津留】制禁ノ事。

一、 五百石 以上ノ船停止ノ事。

起草【林羅山

 

 

 

将軍

政治

戦乱

3

家光

1634家光上洛

全大名に軍役賦課、軍事指揮権示した

平時の普請役も課した

1635武家諸法度寛永令

家光の発布

 ⑴参覲交代の制度化

人質の確保と大名の勢力削減

妻子を江戸に、年ごとに江戸往復

➡交通費、江戸生活費の多大な出費で経済力失わせる

 ⑵500以上の船の建造禁止

 

 

1637島原の乱

幕府と藩の機構


幕府の機構

軍事力将軍直属の家臣団と諸大名の負担する軍役で成立

旗本と御家人…将軍直属の家臣で知行高1万石未満の者

旗本…将軍お目見え可

御家人…将軍お目見え不可

⑵経済力 2643万石が全体

 ①直轄領400万石(17世紀末)

 ②主要鉱山…佐渡・伊豆・但馬生野・石見大森

 ③重要都市の直轄…江戸・京都・大阪・長崎・堺

幕藩体制を支える体制

POINT

重職大老(非常置の最高職)・老中(政務を統括)・若年寄(老中補佐)など。重職には→譜代大名が任じられた。

三奉行寺社奉行(統制)町奉行(江戸支配)勘定奉行(幕府の財政運営・幕領の訴訟など)の総称。これを三奉行という。

権力集中の排除:幕府の要職は月番交代(1ヶ月交代の意味)で、重要事項は合議制をとった。例、江戸幕府の最高司法機関の評定所では、老中や三奉行などの合議である。

大名統制

①大名の区分:将軍と主従関係を結んだ知行高1万石以上の武士を大名といい、大名の領地とその支配機構の総称をという。大名は将軍と親疎の関係で親藩・譜代・外様に分けられ、幕府は、親藩・譜代大名を要所に、有力な外様大名をなるべく遠隔地に置いた。

 ・親藩…徳川氏一門の大名、御三家(尾張・紀伊・水戸)

 ・譜代…関ヶ原の戦い以前から徳川氏の家臣であった大名(井伊氏)

  ・外様…関ヶ原の戦いの後徳川氏に従った大名(前田・島津)

参覲交代

 ・制度化の意図→平和な時代にふさわしいかたちで、諸大名の軍事力を総動員するこ

  とをめざした。

 ・制度化の結果→江戸や街道沿いの宿駅の繁栄をもたらす一方で、大名にとっては

 大きな経済的負担となった。大名の弱体化を意図したものではない。

 

地方知行制から俸禄制度へ:大名は、初期には領内の有力武士に領地を与える

地方知行制をとる場合もあったが、しだいに武士を城下町に集住させて藩政を分担させ、領内一円支配を進めた。17世紀半ばになると、多くの藩は、地方知行制から

俸禄制度藩の直轄領からの年貢を蔵米として家臣に支給する制度)に移行していった。

朝廷に対する統制

①京都所司代:朝廷の統制と西国大名の監視

武家伝奏公家から2人選出が出た。旗本や武家から選ばれるのではない。朝廷と幕府をつなぐ窓口として、朝廷に幕府側の指示を与えた。幕府優位を演出。

禁中並公家諸法度1615)=天皇の政治活動抑圧

天皇・朝廷が権力を持つことや、諸大名が朝廷に結びつくことを防止しようとした。京都御所を取り囲むように大寺院が建立されている。知恩院、南禅寺、意味深い。

④ 紫衣事件1627~29

御水尾天皇が幕府に了解を得ず大徳寺などの僧侶に紫衣着用を勅許したことを問題にし、これを取り消した。翌々年、これに抗議した大徳寺沢庵らが流罪にされた。これを機に御水尾天皇は譲位し明正天皇となった。

勅許よりも法度が上位に位置することをはっきりと朝廷に示した事件。

出羽に流された沢庵はその最中に沢庵漬けを考案。崇伝亡き後、罪が許されて家光が帰依。定かではないが…?

寺社統制 今の京都に立派な寺社があるのは家康と家光のおかげ!

寺院法度=宗派ごと、活動の抑圧

学問を奨励し、本山末寺の制を定める。

本末制度=本寺による末寺の統制1665

本寺が末寺に住職を派遣する。幕府は本寺を保護し、本寺と幕府は権力という点で癒着してゆくので、本寺を抑えれば全体が抑えられる。末寺が本寺を訴えても、幕府の裁判では絶対に勝てない。

寺請制度=キリスト教禁教策、どこかの寺の檀那として登録

寺請制度は島原の乱後に確立1640年、宗門改役を設置。1664年には諸藩にも命じる。1671年、宗門人別帳が毎年作られることになった。

 キリスト教徒でないことを証明するため、どこかの寺の檀那になることを義務づけるものだ。出生・死亡の際に寺に届けて、人別帳に記載。寺の役所になり葬式出してカネが入る。葬式仏教のさきがけである。