15 北条氏台頭


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教科書100㌻、ポイントは➡北条誰々の時、何があったかを整理せよ!

北条時政(頼朝の妻政子の父)

合議制 頼朝亡きあとカリスマ性うすれるので。

何人の合議制かが問われる。脊髄反射で➡13人。大江広元や三善康信の貴族出身の頼朝側近が入っていることに注意。他は梶原景時・比企能員・北条時政・和田義盛ぐらいで可。

比企氏の乱

1203年、頼家が病気で重体の時、北条時政は、頼家の子一幡と弟千幡に全国の守護・地頭の任命権を分割相続させた。回復して、この処置に怒った頼家が舅の比企能員と謀って時政を除こうとしたが、かえって時政に討たれ、頼家は修善寺に幽閉。源実朝を3代将軍とした。1204年頼家は暗殺され、一幡も比企能員とともに滅ぼされた。

畠山重忠

教科書には載っていないが北条時政は畠山重忠父子を殺害した。

北条義時(2代執権)

和田合戦

1213年、北条時政の子➡北条義時は、侍所別当である和田義盛の一族を滅ぼした。これを和田合戦という。義時➡侍所政所別当兼務、権力強化なる。

[承久の乱]

 後鳥羽上皇の院政=朝廷勢力の回復目指す。

将軍

執権

政治

 

 

2代

義時

①北条義時追討の院宣

⑴後鳥羽上皇が出した


西面の武士の設置

 

1221承久の乱勃発

北条義時VS後鳥羽上皇

乱の結果が頻出事項

⑴上皇方の敗北

⑵後鳥羽上皇が隠岐に流刑

⑶順徳上皇は佐渡に流刑

⑷土御門は土佐に流刑

 

 

 

六波羅探題設置

➡朝廷の監視だね。

院方の所領3,000カ所没収

新捕地頭の設置

 

 

幕府の動揺

源実朝も公暁に殺され頼朝の男系断絶=皇族将軍擁立図る(上皇拒否)

 上皇が拒否したため、頼朝の遠縁に当たる2歳の九条頼経を鎌倉殿に迎えることにした。

☶史料研究 出典『吾妻鏡

『(①承久三年五月)十九日壬寅、・・・・②ニ品家人らを簾下に招き、秋田城介景盛(=安達景盛)を以て示し含めて曰く「皆心を一にして承る可し。是れ、最後の詞なり。

故右大将軍、朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ、俸録と云ひ、其の恩既に山岳よりも高く、名めい渤よりも深し。報謝の志浅から乎。而るに今逆臣の讒に依りて、(4)非議の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康、胤義等を討取り、④三代将軍の遺跡を全うすべし。但し、院中に参らんと欲する者は、只今申しきる可し」者、郡参之士、悉く命に応じ、且つは涙に溺れて、返報を申すこと委しからず。只命を軽んじ、恩に酬いんことを思う。』

 

①元号を記せ 承久

②二品とは誰をさすのか。 北条政子

③故右大将とは誰か。源頼朝

④源氏三代とは誰か。頼朝、頼家、実朝

 

六波羅探題

六波羅探題は北方と南方があり、初代北方が北条泰時、南方が北条時房。
新捕率法
 ・朝廷より没収した西国の荘園を中心に〔新補〕地頭を設置

➡承久の乱で北条氏側で活躍した東国の御家人就任。
 ・(1223)新捕地頭の収益権の基準➡
新補率法を制定

これにより幕府支配が地方に拡大することになった。なお、新補地頭の設置により、これまで置かれてきた地頭は➡本補地頭と呼ばれた。
 ・地頭に田畑〔
11〕町につき一町の免田が与えられる
    (免田…荘園領主に年貢を納めることが免じられた田)
 ・年貢を納める田でも、一〔
〕につき〔〕升の
    〔
加徴(米)〕が地頭の取り分とする
 ・
山や川の収益の半分は地頭と荘園領主で折半するが見落とされがちなので注意。
   ※段、町は面積の単位。1段は約117アール。10段=1町
地頭請地頭に荘園の管理をまかせ、定額の年貢納入を請け負わせる制度。

下地中分➡荘園領主が土地の半分の領有権を地頭に与える代わりに、残りの半分を確保しようとしたもの。領主側と地頭とが話し合いで決めた和与中分と、一方的に幕府に申し出て幕府が命じて中分する場合とがあった。これにより地頭が在地領主化した。 

義時は大政治家だったが1224年心臓麻痺で死去62歳だった。

●執権政治の確立 謙譲の美徳、泰時が望むのは集団指導体制を目指した。

将軍

執権

政治

戦乱・政変

 

3

泰時

執権政治

1225連署設置

 ⑴執権の補佐

 ⑵初代連署:北条時房 

1225評定衆設置

1226摂家将軍擁立

1232御成敗式目制定

 ⑴先例道理に基づく

 ⑵御家人にのみ適用

 

4

藤原

頼経

御成敗式目

条文が51ヵ条だったこと、教科書102㌻「この式目は頼朝以来の先例道理と呼ばれた武士社会の慣習・道徳に基づいて、守護地頭の任務と権限を定め、 

御家人同士や御家人と荘園領主とのあいだの紛争を公平に裁く基準を明らかにしたもので、武家の最初の整った法典となった」は、丸暗記せよ!

先例とは、右大将家之例であり、頼朝が作り上げた決まりのことだ。多くの大学は史料で問うてくる。

史料研究 【御成敗式目

一 諸国守護人奉行の事

 右、右大将家の御時定め置かるる所は、大番催促・謀反・殺害人等の事なり。

一 諸国地頭、年貢所当を抑留せしむる事 

 右、年貢を抑留するの由、本所の訴訟有らば、即ち結解を遂げ勘定を請くべし。

一 御下文を帯すと雖知行せしめず、年序を経る所領の事

 右、当知行の後、廿ケ年を過ぎば、大将家の例に任せて理非を論ぜず改帯に能わず…

一 女人養子の事

 右、法意の如くばこれを許さずと雖も、大将御時以来当世に至るまで、其の子無きの女人等、所領を養子に譲り与ふる事、不易の法勝計すべからず。

 

  知行年紀法…「現に知行している」(当知行)という既成事実を根拠とした権利の主

  張は、20年以上にわたっている場合、成立理由を問わず承認する。

  親の悔い返し権の承認…子に譲った所領を親が取り戻すこと(悔い返)は、幕府によ

  る安堵が行われていても承認する→幕府の安堵よりも親の意思を優先する

  女人養子の承認…実子のいない女性が所領を養子に相続させることを承認する。

式目が適用される範囲…幕府の勢力範囲のみとする

  ➡朝廷の公家法荘園領主の本所法否定しないことは次の史料で強調されている。

史料研究 

目制定の趣旨− 執権北条泰時の書状 

「さてこの式目をつくるにあたっては、何を本説として注し載せたのかと、人々がさだめて非難を加えることもありましょう。まことにこれといった本文に依拠したということもありませんが、ただ道理の指し示すはねども、たゞ ①どうりのおすところを記され候者也。かねて御成敗のありかたを定めて、人の身分の高下にかかわらず、偏りなく裁定されるように、子細を記録しておいたものです。この状は、法令の教えと異なるところも少々ありますが、(中略)もっぱら武家の人への計らいのためばかりのものです。これによって京都の御沙汰や、律令のおきては少しも改まるべきものではありません。およそ、法令の教えは尊いものですが、武家の人や民間の人々には、それを。うかがい知っている者など、百人千人のうちに一人二人もおりません。(中略)京都の人々が非難を加えることがありましたなら、こうした趣旨を心得た上で、応答してください。」

九月十一日                         武蔵守

  駿河守殿
1 ①の空欄に入る語句を記せ(センター) どうり

2 ②の空欄に入る語句を記せ 京都

3 ③の空欄に入る語句を記せ 律令

4 武蔵守は誰で駿河守は誰か(早稲田大商学部2008泰時・重時

5 駿河守は鎌倉極楽寺との深い関わりでも知られるが、同寺の興隆のために活躍した僧侶は誰か。忍性 重時は晩年を極楽寺で過ごし忍性を招いた 早稲田大商学部やるな〜

1226 藤原頼経、9歳で将軍就任。家将軍の最初(実権は北条氏が握り形式上の将軍に。)