北条時頼 教科書103〜
泰時の政策をうけついだ孫の時頼は1246年,前将軍の九条頼経を陰謀の疑いで京都に送り返すとともに(これを宮騒動という)、1247(宝治元)年、これに関係したとされる三浦泰村を滅ぼし=✖︎宝治合戦、北条氏の地位を不動のものとした。
この合戦で大江広元を祖とする毛利氏は三浦方につき、敗れて安芸に地頭として土着した。
引付衆
評定衆のもとに引付衆を設置し御家人たちたちの所領の訴訟を担当させ、公平な裁判の迅速化をはかって御家人たちの要望にこたえた。評定衆のなかから頭人が選ばれ、そのもとに引付が数名加わって判決原案を作成し、原案は評定にかけて決定された、ことも要注意。
皇族将軍
後嵯峨上皇の子宗尊親王が6代将軍に就任。彼の兄弟が後深草天皇と後亀山天皇であり、後にそれぞれ持明院統と大覚寺統を形成し対立、鎌倉幕府滅亡と南北朝対立の原因となった。
将軍 |
執権 |
政治 |
戦乱・政変 |
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②1249引付衆設置 ⑴評定衆の補佐 ⑵所領の訴訟が専門 ③1252皇族将軍を置く → 宗尊親王(後嵯峨の子) |
①1247✖︎宝治合戦起きる ➡三浦泰村敗死 |
武士の生活
武士は【開発領主の系譜を引き、先祖以来の地に住み着いて、所領を拡大してきた】は記憶したい。また、館と直営地も大切。屋敷については『一遍上人絵伝』必見。
年貢や公事のかからない直営地は、佃・門田・正作・用作などと呼ばれたことも覚えよう。
惣領制
本家と分家の集団を一門や一家と呼び、宗家の首長を惣領、他を庶子と呼んだ。戦時には惣領が一門の指揮官となった。教科書105㌻脚注❶女性の地位は比較的高く、相続は分割相続が原則だった。女性が御家人や地頭になる例もあった。しかし、次第に女子の相続は一期分となり、死後、一門に返還するようになっていった。
武士の土地支配 105〜107
武士は鍛錬として犬追物の他、三つの的を走る馬上より順に射る
流鏑馬、笠を的にして馬上から射る笠懸があった。
これを騎射三物という。笠懸の場面を描いた『男衾三郎絵巻』がよく出る。また、富士山の裾野で獣を追い立てて仕留める大規模な巻狩が重要な訓練だった。
地頭請所・下地中分
荘園領主が年貢の一定額納入を地頭に請け負わせ、かわりに荘園の経営を委ねることを
➡地頭請所という。教科書106㌻、伯耆国東郷荘が松尾神社の荘園であること、分割線の左右には幕府の執権・連署が認定した
➡花押がすえられていることが早稲田で出た。
教科書106㌻荘園の図は頻出、中身を確認しておこう。
蒙古襲来
日宋貿易 正式な国交なし、私貿易盛ん。
モンゴル帝国の台頭➡ユーラシア大陸全域、中国北部の金(女真族)を滅亡させ高麗を服属させる➡日本に朝貢を求める(黄金の国ジパング)byマルコポーロ 早稲田商
基本の流れ
執権 |
政治 |
戦乱 |
外交・その他 |
8代 時宗
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④石塁の構築 |
蒙古襲来
博多湾に侵入 ⑥1281✖︎弘安の役 東路軍・江南軍 |
①1271元の建国 首都は大都(北京) ➡フビライ=ハン 5代皇帝 ⑤1279南宋の滅亡 元の中国統一 |
9代 貞時 |
①鎮西探題
③得宗専制政治 得宗と御内人
⑤永仁の徳政令 1297年 |
②御家人の窮乏化 →蒙古襲来の影響 ④1285✖︎霜月騒動 平頼綱VS安達泰盛
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鎌倉時代の外交
1206 チンギス=ハン(成吉思汗)が初代皇帝となりモンゴル建国。
1234 モンゴル、金を滅ぼす。
1273 元が侵入した高麗で、高麗軍の一部が徹底抗戦(=三別抄の乱)するが平定される。
1274✖文永の役起こる。元・高麗軍、対馬・壱岐に来襲し博多に上陸するも大風雨で敗退する。元軍の集団戦法・てつはうに対し、従来の一騎打ちで対応した日本は苦戦。このとき戦ったのが九州の御家人竹崎季長と、彼が残した『蒙古襲来絵巻』、この絵巻は①武功を子孫に伝えるため②甲佐大明神の恩に報いるためであり、ただ恩賞をもらうためではない。彼が肥後国の御家人だったことを記憶したい。
一遍が時宗を開く、踊り念仏で各地を遊行。
1279 南宋滅亡し中国統一➡日本再征準備
蒙古襲来絵詞
異国警固番役
文永の役後に強化されて、一部御家人にも課された。また石築地=石塁を理解したい。
1281✖弘安の役起こる。
長門・周防・安芸の御家人に長門警固番役が課された。1281年、南宋を滅亡させた元は、旧南宋の兵士を含め14万の大軍で襲来。博多湾への上陸を日本軍が阻止しているうちに暴風雨によって損害を受け撤退。弘安の役は、江南軍(征服した南宋の兵を動員して)が約10万人、東路軍=元・高麗軍で朝鮮半島の合浦から出発約4万人が組織されていた。上陸はしていない。
暴風雨を、日本は神風によるものと信じ、以後日本は神が守っているとする神国思想が高まる。2度の蒙古襲来をうけ、鎌倉幕府は非御家人や本所一円地(荘園内)の武士にも異国警固番役を適用するとともに、その支配権を西国の九州にまで拡げることにはなったが、自衛戦争のため得たものがほとんどなく、戦功を積んだ武士らに恩賞を与えることができなかった。
➠➠➠➠➠これにより以後幕府は御家人らの信用を失っていく。
鎮西探題
九州地方の政務・裁判・御家人の指揮を統括。鎮西探題が置かれた理由↓
後家人の所領をめぐる訴訟に対応するためだ。困難な戦いを強いられながら十分な恩賞を与えられなかった元寇の影響で、九州地方で御家人の訴訟が増えた。九州の御家人が遠方鎌倉まで出向くのは避けたい幕府は、訴訟実務のできる人物を九州に常駐させたのである。鎮西探題は博多に置かれた。
御家人窮乏化の原因二つ
原因①元寇の負担 ②分割相続による所領の細分化、御家人は惣領制を維持するため土地は子供達で分割相続していた。
➠のち惣領による単独相続へ。生活に困った武士は借金に走る。
得宗専制政治
ア 得宗…北条氏嫡流の当主(北条氏の家督相続者)
イ 得宗の私邸での寄合で幕府の政策決定➡御内人(得宗家家臣)の台頭
ウ 北条氏一門が守護職の半ば以上を占める
♔9代執権北条貞時による実権掌握
1285✖霜月騒動起こる。
安達泰盛は、非御家人をふくめた全国の武士を対象にして、統治を進化しようと考えた。元寇のような国難に対して、京都と鎌倉の「二つの王権」の枠組みを乗り越えようと考えたわけだ。こうした泰盛のグループに対して平頼綱らは、幕府は御家人の利益を保護するための組織であり、御家人の利益への対応が第一だと主張するグループでした。
1285年、霜月騒動が起こり、有力御家人の安達泰盛一族が滅ぼされた。これは、北条貞時の外祖父安達泰盛の力を恐れた御内人(北条氏の家臣)の代表(これを内管領という)である平頼綱の讒言によるものである。その後、平頼綱が8年間の専制政治を行なった。しかし、北条得宗家は、幕府内部においては強大な権力を手中に収めたが、御家人たちに主君として認められたわけではなかった。
✖平禅門(頼綱)の乱起こる。…貞時と対立した頼綱が討たれ、これにより内管領の長崎高資が実権を握るようになる。
1294 幕府、弘安の役などの賞罰詮議を停止。このため論功行賞(功績に応じて賞を与えること)を浴する御家人に不満高まる。