鎌倉仏教の特徴
簡単な修行を一つ選んでそれだけやる【易行・選択・専修】です。
高名な歴史学者である網野善彦氏がこんなことを言っています。
鎌倉時代にのみ、すぐれた宗教家が輩出したのは何故か?
こうした問いが発せられるほど鎌倉仏教は重要なのです。
平安時代までの仏教を考えてください。
末法思想・旧仏教の腐敗・戦乱・天災→新たな救いの必要
武士の宗教的欲求は強かった。人殺しが商売であり、明日は死ぬかも知れない毎日。
平重衡は南都焼き討ちをおこなう。一ノ谷の戦いで生け捕りにされて死罪が決まる。その前に法然に会う。「どんな者でも極楽にゆけるのか」「阿弥陀仏を信じて念仏を唱えれば行ける」→鎌倉に送られ、南都に引き渡される。阿弥陀仏の前で念仏を唱えて打ち首にされる。
常に死の危機と接し、殺人をする武士は宗教的欲求が強い。しかし、従来の仏教は難解。文字も知らない者にも理解できる教えが必要になってきた。
A 浄土教系
阿弥陀仏への信仰=念仏(南無阿弥陀仏)により極楽往生
(1)法然(浄土宗)総本山➡知恩院
救われるためには自力と他力がある。弱い人間は自力は無理。他力は阿弥陀仏にすがることだが、方法としては造寺、造仏、布施、念仏がある。最も簡単なのは念仏である。摂関家の九条兼実が信仰し、主著:「撰択本願念仏集」=専修念仏が造寺造仏より大切。主著を九条兼実に呈した。弟が「愚管抄」の慈円であることも注意。
but旧仏教より批判、流罪
1204年、比叡山の宗徒が朝廷に専修念仏禁止を要請。興福寺からも出される。他力、易行が流行すれば、旧仏教は大打撃を受ける。
1207年、法然は讃岐に流罪となる。1211年に帰京するが、翌年、80歳で死亡。死の直前「一枚起請文」を書いたことが多数出た。
(2)親鸞(浄土真宗)
20年間を比叡山で過ごし、29歳で法然の弟子となる。自力では救われない弱い身だから念仏を唱える。どうせ地獄に堕ちる身なのだから、法然に騙されて元もと。
強く救いを求めたときの念仏が大切として一念義の立場だった。
・法然の事件に連座して7年間、越後に流される。愚禿として 非僧非俗の立場をとった。生活を助けてくれた恵信尼を妻とする。その後、関東で20年間、民衆布教。
総本山➡本願寺
主著:「教行信証」「歎異抄」(唯円著)ここが狙われる!
=ひたすら阿弥陀の本願を信じて念仏(絶対他力)と言う。
作善できぬ人間こそ救われる➡(悪人正機)
親鸞は一念義である。「歎異抄」は、親鸞の教えを曲解して悪事をはたらく者が出てき たため、それをたしなめるために弟子の唯円が著した。
「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」。善人でさえ極楽に行けるのだから悪人が行けないはずはない。
Q 矛盾していないか?
A 善人は自分はこんなによいことをしているのだから極楽に行けると信じ込み、阿弥陀にすがる気持ちが少ない。悪人とは殺生を仕事とする武士や漁師などだが、生きるために仕方なくしていること。こんな自分を極楽に導いてくれるのは阿弥陀しかいないと考えているので、阿弥陀にすがる気持ちが強く、結果として極楽に導かれる。
一宗独立の考えはなかった。真の浄土教の意味で真宗を唱えたが、浄土宗の流れと考えていた。実際には大きく異なる。
末娘の子孫が大谷廟を管理し、教団を作ってゆく。
(3)一遍 (時宗)
人間は生まれながらにして救いが約束されている。死ねば誰でも極楽にゆけるため、念仏を唱えなければ救われないわけではない。救われる喜びを表すのが念仏であり、身体が動き始めて踊り出すことになる。これが踊念仏。
諸国を遊行して踊念仏で布教が重要。
勧進帳と念仏札を持って死ぬまで全国を行脚し、250万人に結縁。熊野や伊勢を信じている者を信者に引き込んでゆく。
踊念仏は一種の興業であり、宗教的興奮をもたらして布教する。踊り狂うことで阿弥陀仏と一体になれるとする。
一遍は死に際して著書を焼き捨てたため、絵伝によって行いが伝わる。
一編上人絵伝は重要。箱根駅伝の復路で「遊行寺」という別称で連呼されるところが総本山、清浄光寺である。
B 法華宗(日蓮宗)
日蓮総本山➡身延山久遠寺
漁師の子。12歳で安房の清澄寺に入って天台宗を学んだあと、鎌倉、比叡山、奈良、高野山などで修行。32歳で安房に戻って日蓮宗を開く。
法華経の信仰=題目とは(南無妙法蓮華経)のことが出た。
主著:「立正安国論」=法華経を正法として他宗を批判、北条時頼に献じられる。
他宗を批判して法華経の信仰を迫ったため迫害を受ける。
「立正安国論」で法華経を信じないと国難が来ると予言。国民全員が題目を唱えることで、日本は仏の国土となるとした。
「真言亡国、念仏無間、禅天魔、律国賊」。幕府を批判したために伊豆や佐渡に流される。元寇があったために信仰的確信を深め、身延山に隠退。
C 禅宗
座禅の修行により悟りを開く(自力本願)
精神一到何事か成らざらんの心境だ
(1) 栄西 ( 臨済宗 )
1168年に入宋。天台宗を学ぶために禅を知って帰朝した。天台復興のためには禅が必要と考えてもう一度宋に行く。インドに行こうとしたが失敗。臨済禅を学んで帰る。
主著:「 興禅護国論 」、建仁寺建立、 公案 の重視、幕府・貴族の帰依
1199年、幕府の帰依を受け、頼家の協力で1202年に 建仁寺 を建てる。京都では旧仏教の批判を受け、鎌倉の方が布教がしやすかった。座禅と並んで公案を重視する。
(2) 道元 (曹洞宗)
修行は手段ではなく、修行が目的であるべき。禅の修行は座禅と作務。
道元が見抜いたことは我々の日常生活にも当てはまることである。「何のために勉強するのか」「大学にはいるため」「入ってどうするのか」「いいところに就職する」「就職してどうするのか」「人の役に立つ仕事がしたくて」・・・。勉強は手段でなく目的であるべき。
帰国後、幕府要人に招かれるが拒否。 永平寺 を建て、座禅三昧に明け暮れた。永平寺では朝3時~夜11時まで 座禅をひたすらにおこなう。寝たら靴で殴られる。そのうちに三昧の境地になる。
・現在の永平寺では、朝3時半に起床し、桶一杯だけの水で洗面。その後に座禅、お勤め、朝食となる。中身は粥と漬け物、ごま塩のみ。終わると掃除。昼飯は 麦飯と汁、漬け物。その後に作務、お勤め、夕食、座禅をして寝る。四と九の日は休みで、座禅と作務はない。風呂に入れるのはこの時だけ。
主著「 正法眼蔵 」、永平寺建立、「 只管打坐 」(ただ座れ!)座禅の修行に専心
※武士に受容され発展、幕府の保護
cf)蘭渓道隆(建長寺)、無学祖元(円覚寺)の来日
蘭渓 道隆=1246年、来日。
時頼に招かれて建長寺を開山した。
無学祖元=1279年、時宗の招きで来日。建長寺に入り、 後に円覚寺を開山した。
D 旧仏教
新仏教に対抗して革新、戒律の重視
法相宗
貞慶= 興福寺に入るが衆徒の堕落を嘆いて笠置山に入る。戒律の重視を唱え、法然の浄土宗を批判。法然を批判した『興福寺僧状』は、法然の四国配流の契機となった。
華厳宗
明恵【高弁ともいう】=16歳のとき東大寺で受戒。1206年、後鳥羽上皇から栂尾山をもらい、高山寺を開き、華厳宗の中興の祖とされる。戒律を重んじ、念仏僧の進出に対抗して顕密諸宗の復興に努力。栄西が持参した茶を栽培した。
『摧邪輪』は法然の『撰択本願念仏宗』への反論である。法然批判についてはもちろん、さらに出身の寺、その後の活動の拠点になった寺も難度は高いが出題される。
叡尊、忍性(律宗・社会事業)
律宗
叡尊=西大寺で戒律を復興。律宗の僧。1262年には時頼によって鎌倉にも招かれる。戒律によって下層民を救済しようとし、6万人に受戒させる。非人の救済、架橋などの社会事業も実施。非人は文殊菩薩の化身であるとして救済に努めた。
忍性=叡尊の弟子。鎌倉で戒律を広め、時頼らの帰依を受ける。貧民救済、架橋などの他、悲田院、施薬院を各地に建てた。北山十八軒戸 を建ててハンセン病患者を収容。忍性は絶対。
伊勢神道
伊勢神宮外宮の神職度会家行によって形成。従来の本地垂迹説とは反対に、神を主とし仏を従とする神本仏迹説を『類聚神祇本源』を現わして唱えた。
論述問題 筑波大 年度 2006年 設問番号 第2問 テーマ 鎌倉仏教/中世
問
鎌倉時代の仏教について,次のア~エの語句を用いて論述せよ。解答文中,これらの語句には下線を付せ。ただし,語句使用の順序は自由とする。400字以内で解答せよ。
ア 法華経 イ 戒律の重視 ウ 座禅 エ 専修念仏
解答は近日中にUPしますのでお待ちください。