みんなはきっとわかっていない。後醍醐天皇が、如何に大事かを。
27 後醍醐天皇登場~建武の新政
⑴ 鎌倉幕府の滅亡
滅亡の原因→得宗独裁政治と御家人の窮乏化
天皇が日本を治めているときの歴史の見方を皇国史観という。明治から昭和20年8月15日まで、皇国史観で教育が行われた。
教科書も同時に開くこと。何しろ大学受験は教科書から出題される。120㌻〜121㌻。
最初は持明院統と大覚寺統に注目!大覚寺統の経済基盤が八条院領であり、持明院統の経済基盤は長講堂領が基本。
天皇 |
政治 |
戦乱など |
亀山 |
①後嵯峨法皇の死去 ③幕府両統迭立を決定 これを(文保の和談)と言う →大覚寺統と持明院統が交互に即位 👉これでは後醍醐は息子を天皇にできない。だからこそ倒幕を鮮明にする! |
②対立の始まり 亀山天皇 VS 後深草天皇 (大覚寺統) (持明院統) 大覚寺の経済基盤→八条院領 持明院統の経済基盤→長講堂領👉ここが出る! |
後醍醐 |
皇位とと治天の決定権を幕府から奪い返すぞ!後醍醐の意思はこれに尽きる。 理想はわかるが計画は杜撰! 自前の軍事力がないのだ。
①光厳天皇擁立 (持明院党)1331
③1333鎌倉幕府の滅亡 北条高時の死 1334後醍醐天皇即位 ➡大覚寺統 ⑴ 天皇親政 ⑵ 記録所再興 ⑶綸旨の連発 |
②倒幕計画 ⑴1324✖︎正中の変 後醍醐・日野資朝の計画→鎮圧 ⑵1331〜33✖︎元弘の変 子の護良親王らと挙兵→失敗 後醍醐➡隠岐配流 →護良親王各地に挙兵呼びかけ。 めげないところがすごい! 楠木正成・赤松則村・名和長年挙兵 →後醍醐天皇隠岐を脱出 幕府軍の京都派遣司令官 足利高氏【後に尊氏】 足利高氏ら御家人が幕府離反 尊氏→六波羅探題攻略 新田義貞鎌倉攻略 |
足利高氏
足利氏は清和源氏の名門で大豪族。 北条氏の元ではうだつが上がらなかった。
先祖の源義家の置文「七代の孫に生まれ変わって天下を取るべし」。7代後の家時は天下を取れなかった。「我が命を縮めて三代のうちに天下を取らせよ」と言って切腹。高氏はこの3代目という。
六波羅に来た高氏は北条仲時とうち合わせをし、山陰に進むこととする。
⑵建武政権の成立
①天皇専制(天皇権力の絶対化)をめざす…摂政・関白や知行国制を廃止
史料『梅松論』…「古の興廃を改めて、今の例は昔の新儀なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」…意味昔からの伝統を改変し、今の伝統というものもそのはじめは新奇なものだった。私が始める新しいことだって、やがて時間が経てば、先例となり伝統となるだろう!と言ったとされ、それまでの公家・武家社会での先例や慣習にこだわることなく、新たな政策を断行しようとする姿勢を示していた。そのうえ、その政治は一貫性を欠いていた。そのため、公家・武士を問わず不満が増大し、政務の停滞や社会の混乱を助長した。梅松論→北朝、反後醍醐の側から描いた本。
論点
① 妥協的な政治機構
中央機関として、記録所と並んで旧幕府の引付をひきつぐ雑訴決断所をおくなど、新政遂行にふさわしい一元的な機構を整備できなかった。
②綸旨絶対万能主義による混乱:すべての決定を後醍醐天皇の綸旨(天皇の意思を最も直接的に示す文書)でおこなったため、政務が停滞した。
③所領政策への不満:持ち主が20年以上支配している土地の権利は変更できないという武士社会の法を無視して、所領の確認を綸旨でおこなうとしたため、武士層が離反した。
④先例を無視した政治:綸旨万能主義をかかげて先例を無視した後醍醐天皇の政治は、貴族層の反発も招いた。
☶史料研究 二条河原落書必出史料 出典『建武年間記』
『口遊去年八月 二条河原落書 云々 元年か(=1334年?)
此頃都二ハヤル物、夜討強盗謀綸旨、召人早馬虚騒動、生頸還俗自由出家、俄大名迷者、安堵恩賞虚軍、本領ハナルル訴訟人、文書入レタル細葛、追従讒人禅律僧、下克上スル成出物、器用ノ堪否沙汰モナク、モルゝ人ナキ決断所…四夷ヲシツメシ鎌倉ノ、右大将家 ノ掟ヨリ、只品有シ武士モミナ、ナメンタラニソ今ハナル。…』
問1.史料の落書(らくしょ)を一般に何というか。二条河原落書
問2「決断所」とは何か。雑訴決断所
混乱→旧幕府方武士は不安→自分たちの代弁者として高氏のもとに集まるようになった。
問3.出典は何か。建武年間記
空欄で綸旨を出した大学もある。
②綸旨による所領安堵策の採用 →綸旨の発給を求める人々で混乱
元弘の変・鎌倉幕府の滅亡という情勢のなか、在地では所領をめぐる抗争が激しくなっていた。得宗専制政治のもとで所領を失った人々は旧領回復をはかろうとしていたし、所領拡大をめざして他人の所領に侵入するものもいれば、それに対抗して既得権を守ろうとする動きも活発であった。さらに、護良親王が独自に倒幕の令旨を発して各地の武士や寺社に挙兵をうながしていたため、鎌倉幕府滅亡後も独自の勢力を保持していた。こうしたなかで後醍醐天皇は、所領安堵(旧領回復・新恩給与)には天皇の出す綸旨が不可欠(→護良親王の令旨は無効)との方針をとった。その結果、さまざまな人々が所領安堵を求めて京都に殺到し、大混乱となった。
☶史料研究 二条河原落書
『口遊去年八月 二条河原落書 云々 元年か(=1334年?)
此頃都二ハヤル物、夜討強盗謀綸旨、召人早馬虚騒動、生頸還俗自由出家、俄大名迷者、安堵恩賞虚軍、本領ハナルル訴訟人、文書入レタル細葛、追従讒人禅律僧、下克上スル成出物、器用ノ堪否沙汰モナク、モルゝ人ナキ決断所…四夷ヲシツメシ鎌倉ノ、右大将家 ノ掟ヨリ、只品有シ武士モミナ、ナメンタラニソ今ハナル。…』
👉史料は
問1.史料の落書(らくしょ)を一般に何というか。二条河原落書
問2「決断所」とは何か。雑訴決断所
混乱→旧幕府方武士は不安→自分たちの代弁者として高氏のもとに集まるようになった。
後醍醐天皇の政治(1333~1336)
天皇の帰京(光厳天皇退位)、👉護良親王は尊氏の声望を警戒し、強引に征夷大将軍に就任する。しかし将軍位などという武士社会を否定する後醍醐の怒りを買ってしまうのだ!
天皇 |
政治 |
戦乱 |
後醍醐
吉野へ |
①1334建武の新政 天皇権力の絶対化目指す ⑴綸旨の絶対性 ⑵ 武士の恩賞が不公平 ▶︎武士の本領安堵せず ⑶ 二条河原落書 ▶︎建武の新政を批判
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1334護良親王→征夷大将軍解任👉鎌倉に流される。 後醍醐と護良離反 足利直義のもと配流、翌年直義に殺害される。 👉新政への不満は、地方武士の反乱から始まる。 ②1335✖︎中先代の乱 足利氏からみて、北条氏は先代、高時の子は中先代であった。 ⑴建武の新政への不満 ⑵北条時行(高時の子)信濃で挙兵。武蔵、鎌倉で直義を破り父祖の地、鎌倉を占拠する。尊氏は東下の許可と征夷大将軍の任命を後醍醐に願い出るが却下。尊氏は勅許得ぬままに兵を率いて鎌倉を目指し、そして北条軍を破って鎌倉奪回。 ▶︎尊氏平定 時行征伐 ③足利尊氏が鎌倉奪還後、建武の政権に離反 👉新政府は尊氏を討伐するため、新田義貞を派遣。ただ✖︎箱根竹ノ下の戦いで義貞敗れる。 👉1336年尊氏は奥州から上京してきた北畠顕家らに敗れ、いったん九州まで逃げる。九州の武士は尊氏に馳せ参じた。勢いを盛り返した尊氏は再度京都を目指した。 ④1336✖︎湊川の戦い 足利尊氏 VS楠木正成 楠木正成は「死地に赴くがお前は天皇に仕えよ」と言い残し「うんこ投げ」の秘策を駆使し奮戦するも敗れる。 尊氏○入京→光明天皇擁立 |
南北朝の動乱
⑴南北朝の分立
天皇 |
政治 |
|
光明
後醍醐 吉野へ |
①1336光明天皇即位(持明院) →朝敵となるのを避けるため ①1338年室町幕府成立 初代将軍 足利尊氏 |
後醍醐→吉野へ正統主張 ②南北朝の対立 後醍醐天皇VS光明天皇 (南朝) (北朝) |
⑵動乱の長期化
①室町幕府の内紛
ア 観応の擾乱 1350〜52
室町幕府は当初、足利尊氏と弟直義が共同して政治を行っていたが、尊氏の執事高師直と直義との間で対立が激化し、幕府の分裂へと発展した。尊氏が鎌倉で直義を毒殺して乱は終息したが、その後も足利直冬(直義の養子)や旧直義派の有力武士は各地で反抗を続けた。荘園公領制の維持を第一に考える足利直義と、荘園・公領の領主の権威を否定し、在地での武士の権益拡大の動きを支持する高師直の対立である。
将軍 |
政治 |
戦乱 |
初代 尊氏 |
1336建武式目制定 ⑴室町幕府の基本方針法ではない ⑵二階堂是円らに諮問 第1条👉幕府の所在地 南朝があるから京都にいる必要と尊氏主張 第2条👉倹約を行うべき 近日、婆娑羅と号して専ら派手に振る舞い目を驚かしている大名あり、と批判している。婆娑羅大名は佐々木道誉 ②1338 室町幕府の成立 初代将軍:足利尊氏 注意点 建武式目は基本法典ではなく施政方針です。基本法は御成敗式目。 建武以来追加は室町幕府による御成敗式目の追加法。
1358尊氏病死 |
③南北朝の対立 南朝:北畠顕家・新田義貞の敗死 1339後醍醐死去 「身は吉野の苔になっても、魂は京都の天をのぞまん」 北畠顕家➡常陸小田城陥落 「武士は天皇の王民であり、天皇に背けば必ず滅びる」 北畠顕家は伊勢神道の影響を受け『神皇正統記』を著して南朝の正統性を主張した。この書を書いたのが常陸国であったことも出た。 1348✖︎四条畷の戦い 楠木正行←高師直に敗れる 👉南北朝の動乱が長く続く原因はいくつかあるが、幕府の内紛も大きい。 ④1350✖︎観応の擾乱 高師直VS足利直義 (執事)(尊氏の弟) 1352尊氏➡直義を毒殺 |
論点
①武士社会の変化 教科書123P
惣領制の崩壊のなかで、血縁関係を重視しても所領は分割されて分け前は少ない。そこで地縁によって結びついた小規模な武士集団が多数形成され、それらが南朝や北朝などと無秩序に提携したり敵対したりしたため、戦闘の日常化・全国化がもたらされた。
こうした武士集団は、秩序に従わない武士として悪党と呼ばれた。さらに南北朝時代後半には、地域に深く根をおろして実力を蓄えた在地の有力武士=国人が多数登場するのである。
論述研究 南北朝の内乱は何故長期化したのか!東大2003
A 当時の武士の行動の特徴を、2行以内で述べなさい。
B 南朝は政権としては弱体だったが、南北朝内乱は全国的に展開し、また長期化した。このようなことになったのはなぜか、4行以内で述べなさい。
(解答例)
A惣領の統率下に一族として行動する惣領制が崩壊し、個々の武士団がその時々の利害関係や情勢に応じて敵味方に分かれて戦った。
B各地の武士団では単独相続への移行に伴って所領支配をめぐる抗争が展開し、室町幕府では足利尊氏・直義の対立が観応の擾乱へ発展して以降、有力守護をまきこんで内部抗争が激しく、それに伴って南朝が京都を占領することもあり、内乱は全国化・長期化した。
☵建武の新政の特色 東大 1991 第2問
次の文章を読んで、下記の設問に答えよ。
1333(元弘3)年、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒して一身に権力を集中し、「天下一統」を実現した。平安時代以来、貴族社会では、「先例」に従うことが正しい政治のありかただとする考えが支配的であった。天皇は、「今の先例も昔は新儀だった.私の行う新犠は未来には先例となるだろう」(『梅松論』という言葉に示されるような意気ごみで、つぎつぎに目新しい政治改革を打ち出した。この急進的な改革に対しては、領地の所有に不安を抱いた武士だげでなく、貴族のなかからも批判があった。政権の中枢にいた北畠親房は、「一統の世」の実現をふり返って、「今こそ積年の弊を一掃する好機だったのに、それどころか、本所の領地でさえもことごとく勲功のあった者に与えられ、由緒ある家がほとんど名ぱかりになってしまった例もある。こうして勲功を鼻にかけた者たちが天皇の政治を堕落させた結果、皇威もますます軽くなるかと見えた」(『神皇正統記』)と記している。
設問
(A) 後醍醐天皇がこの政治改革でめざしたものは何か。3行以内で述べよ。
(B) 北畠親房は、天皇の政治に対して、どのような立場からどのような批判をもっていたか。3行以内で述ベよ。
(解答例)
A
後醍醐天皇は中国の宋の政治運営に影響をうけ、院政や幕府を否定すると共に、公家政治の慣習を無視して摂政・関白を廃止し、絶大な権力をもつ天皇の下に公武を統一した新たな政治をめざした
B
北畠親房は、公家政治の慣習を重視する立場から、勲功を優先した恩賞給付や家柄を無視した人材登用が公家中心の身分秩序と政治を混乱させ、かえって天皇の権威低下を招いたと批判している。